2. 距離感は上司と部下のようです
学生議会室に向かっていると、廊下でシアンと出くわした。驚くディアナに、シアンは取り乱すことなく、こっちの警戒を解くように笑ってみせる。
「おや、少し出遅れてしまいましたか」
「……今週は掃除当番ではありませんから」
「なるほど。殿下は、中で書類整理をなさっているはずですよ」
言いながらドアを開けて、先に入るように促される。薄茶の瞳は穏やかな光を称え、ディアナは恐縮しながら部屋に入った。
窓際にある大きな机では、ロイヴァートが難しい顔で書類に何かを書きつけていた。
その他の机は向かい合わせで並べられている。机の色はダークブラウンの縦縞で統一され、重厚感がある。椅子もしゃれた作りで、肘掛けつきだ。
「僕はお茶の用意をしてきます」
シアンは横の準備室の中に消え、ディアナはロイヴァートのもとに近づく。彼の机の左右には山のように書類の束が置いてあった。
「他の学生議会のメンバーは……?」
質問すると、ロイヴァートはやっと書類から視線を上げた。
「最近トラブル続きでな。皆、その対応に追われている」
「……大変そうね。助っ人に行かなくていいの?」
「俺は溜まっている事務処理をしないといけない。そこにあるのは、学生議会長の承認を必要とする書類だ」
思ったより、学生議会には権限が集中しているらしい。他人事のように感心していると、ロイヴァートが顔をしかめた。
「お前を呼んだのは他でもない。今は猫の手も借りたいほどなんだ。書類整理の手伝いを頼みたい」
この部屋に入ったときから、薄々感じていた。何をやらされるのだろうと。
「……そんなことだろうと思ったわ」
「どうせ、やることもないだろう?」
「確かにそれは事実だけど、それが人に物を頼む態度なの?」
今は二人きりだ。当然、咎める者もいない。言いたいことは言わせてもらう。
挑むような視線を向けていると、ロイヴァートは渋々といったように頭を下げた。
「すまないが、お前の時間を俺にくれないか。飲み込みが早いディアナを見込んで、この仕事を頼みたい」
「……そこまで言われたら仕方ないわね。何をしたらいいの?」
態度を軟化させると、ロイヴァートは立ち上がり、空いていた席に書類の束を移動させる。目で座るように促され、素直に着席する。
横から長い腕が伸びてきて、一番上に載っていた紙を一枚机に置く。きれいな指先が紙の左下の日付を指す。
「ここに提出期限が書かれている。期限の短いものから順に並べてほしい。余力があれば、書類の種類別に分けてくれると尚助かる」
「……わかったわ」
ロイヴァートは自分の席に戻り、隣の部屋からシアンがお茶を持ってくる。ディアナにもお茶菓子付きで給仕してくれた。
「あ、ありがとうございます……」
「いえ。お手伝いを引き受けてくださり、感謝いたします」
社交辞令とわかる微笑みを向けられ、ディアナは曖昧に頷いた。
(ロイが困っているのは本当だし、とにかく、今は目の前のことに集中しよう)
心を無にして書類整理に励み、日付順に並び替える。次に日付ごとの束を種別順にまとめていく。単純作業だが量があるので、意外と手間取る。だが数をこなすにつれて、パッと見て何の書類か判断できるようになり、作業スピードは格段に速くなった。
用意された書類を整理し終えてロイヴァートの元に運ぶと、新しい書類の束をもらった。落とさないように気をつけながら机の上に降ろす。
(間違えないように気を張っていたから、思ったより疲れたわね……)
冷めた紅茶を飲み、一息つく。横目でロイヴァートを見やると、機械的に判を押していたかと思えば、時折手を止めてシアンにいくつか質問をしていた。それが終わると、判を押さない書類は別によけ、また判を押す作業に戻る。
ディアナは紅茶に添えられたシュークリームを口に頬張った。
一口サイズのシュークリームは手が汚れる心配なく、食べやすい。中に入ったカスタードクリームもバニラビーンズが効いていて美味しい。三つ食べたが、正直まだ食べ足りない。何個でも食べられそうな危険なお菓子だ。
そっと息をつき、作業に戻る。脳裏に先ほど食べたシュークリームがよぎったが、頭を横に振って煩悩を振り払う。
(集中、集中よ!)
今は日付と書類の形式を見ることだけに意識を向けるとき。他のことは考えない。心の中で自分に言い聞かせて、用紙を日付ごとに振り分ける。
そうして、食べ物の誘惑に打ち勝ち、黙々と仕事に励んでいた頃。ガタンと椅子を引く音がして、ディアナは視線を上げる。
「僕は終わった書類を提出してきます」
「頼んだ」
「お任せください」
ロイヴァートの席にあった書類の束を持ち、シアンが出て行く。ディアナも自分の作業分を終えて、彼のもとへ運ぶ。
「終わりました」
「……これで全部か。思ったより早く終わりそうだ」
疲れを感じさせない微笑みに、ディアナは瞬いた。作業量は圧倒的にロイヴァートのほうが上のはずだ。これが慣れの違いだろうか。それとも、疲労のあまり、表情が死んでいるのではないだろうか。
そんなことを思っていると、ふと怪訝な顔をされた。
「今、何か失礼なことを考えなかったか?」
「……考えていないわ」
疑いの眼差しを向けられたが、黙秘を貫いていると、ロイヴァートは再び判子を持ち直した。仕事に戻る気になったらしい。
窓の外はまだ明るい。グラウンドから運動部のかけ声が聞こえる。
「前から思っていたが、お前は俺の前だと素に戻るのか」
視線は書類に向けたまま言うので、自分に向けられた問いだと気づくのに数秒要した。ディアナは判を押す音を聞きながら、首をすくめた。
「だって、今更じゃない。ロイのことは入学前に知っているし、はじめは正体を隠していたでしょう。だから、なんか敬語を使うのが違和感があるのよね」
「……そうか」
「それに、ロイは権力に任せて、私を罰する真似はしないでしょ?」
本来、不敬だと怒られても不思議ではない。だけど、目の前の男は困っている自分を当然のように助けてくれた。何を考えているかはわからないが、少なくとも、ディアナを傷つける真似はしない。
確信に似た思いを抱いていると、ロイヴァートはため息をついた。
「どうしてそう思う? 俺は皇太子だぞ」
「少なくとも、私が初めて会った相手は皇太子には見えなかった。庶民に溶け込んだ親切な人は、権力を笠にかけるような真似はしないと思うわ」
「……それがお前の答えか」
「そうよ。違っていた?」
試すように言うと、くるりと椅子を回転させて、金色の瞳と目が合う。
「お前の言う通りだ。俺は権力で言うことを聞かせる真似は好まない」
「まあでも……あなたがどうしてもって言うなら、言葉遣いを改めるのもやぶさかではないけれど?」
「いや、いい。二人きりのときは、このままで構わない」
「よかった。ロイといるときは、変に緊張しなくていいのよね。安心するっていうか」
つい本音をこぼすと、なぜか眉を寄せられた。顔が整っている人は渋い顔もかっこよく見えるから反則だと思う。
ロイヴァートは額に手を当て、苦言を呈した。
「そこは緊張を保っていてくれ」
「あ、でも別に友達みたいに思っているわけじゃないから。どっちかっていうと、信頼の置ける上司と部下みたいな?」
「上司……だと?」
「うん。引っ張っていく感じとか、お叱りモードとか、上司って感じだから」
年上というのもあるのだろうが、彼の言う通りにすればいいと無条件に思ってしまうのは一種のカリスマ性だろう。人の上に立つ者の素質は、ディアナにはないものだ。うらやましく思う一方、頼りになるとも感じる。
「……そんなことを言うのは、後にも先にもお前だけだ」
「あ、やっぱり?」
照れ隠しに笑うと、ロイヴァートもつられるようにして笑った。
敵国の人間とか、先輩や後輩とか、そういう関係性をすべて取り払ったら、皆和やかに過ごせるだろうか。生まれや育ちに縛られない生き方ができれば、二つの国は本当の意味で和解できるかもしれない。
この穏やかな時間がずっと続けばいいのに、と思わずにいられなかった。
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