血として生きる

オニワッフル滝沢

第1話

《会議中に就き、生徒の立ち入りを禁ず――職員室》


 いつ書かれたかわからない、日焼けしてひどく黄ばんだ注意書きが職員室の引き戸に掛けられていた。生徒はそれぞれの教室で自習を課されており、職員会議に対して様子をうかがうことも厳格に禁じられていた。


 カレンダーは十月に入ったとはいえ夏日は終わることはなく、今日も例外に漏れず暑い。暑さと、会議の時間の長さに生徒たちが集中を切らす。彼らは自習に飽きて、席を移動し始めた。


 だが、田島友貴の斜め前の席には誰も座ろうとしない。そこは数日欠席になっている男子生徒、尾崎蒼(あおい)の席であった。今行われている職員会議は、きっと蒼について話し合われているのだろうな、と友貴は密かに推測した。


 友貴の真ん前の席が空くと、間もなく坂口亜衣が座ってきた。友貴と亜衣は高校入学のときから同じクラスになり意気投合、2年になった今も同じクラスである。昼休みや移動教室は大体一緒に行動している。


 「なんかもう帰りたいよね」気だるく爪をいじりながら亜衣が言う。亜衣の爪には透明のマニキュアが塗られていてツヤが出ている。


 「バイトがない日だから余計に帰りたい」亜衣の爪を見つめて友貴がこたえた。

 「ワタシも、今日勇人が部活ないって言ってたからなぁ」

 友貴は、そう言う亜衣の束感のあるまつ毛とグロスが塗られたつややかな唇をみつめた。勇人とは亜衣が今付き合っている同学年の男子生徒で、野球部の選手である。亜衣が彼と付き合っていると聞いたとき、友貴は記憶をたぐり寄せざるを得なかった。今年の春に勇人と付き合ってると聞いた1か月前には、前の彼氏と別れたと聞いたっけな。


 もう5時間目終了の時刻が来るというところで担任が教室に入ってきた。6時間目の授業もなくなり、あっけなく放課後になった。


 「友貴はこれからどうするの?」

 帰る準備をしながら亜衣が訊く。友貴は特に考えてなかったが、

 「映画でも観に行こうかな」

 と答えた。なんとなくこのまま帰宅したくなかったし、少し遠出したかった。

 「じゃあ、また明日ね」

 「うん」

 二人はお互いに手を振った。そして亜衣は教室を小走りで出て行った。友貴はそれを見届けると、ゆっくりと時間をかけて持ち物を整理し、教室を出て行った。


 *


 友貴と亜衣の出会いは入学式の日だった。式が行われる体育館。友貴の2人前の席に座る、髪の長い女子生徒。黒くしっとりとした髪が彼女の肩甲骨まで覆っている。高校の入学式だから隣に座る生徒と話す様子はなく、前を向いて静かに座っている。友貴は彼女の顔を見たいと思った。同じ列に座っているということは同じクラスだろう。友貴はこの高校時代を、大学に入るまでの通過点として、バイト代を貯めながら淡々と過ごしていこうと考えていた。だが彼女を《見つけた》瞬間、高校生活に微かな光が見えた。


 入学式が終わり、おのおのの教室でホームルームを行う。移動しながら、友貴は髪の長い女生徒を視線で探した。自分の隣の席に座った女生徒が、先ほどの髪の美しい女生徒だとすぐに分かった。友貴は反射的に顔を見た。


 整えられた眉毛、長くて密度の高いまつ毛。幅の狭い二重が瞳の丸さを強調していて美しい。間もなく始まったホームルームで彼女は自己紹介をし、彼女の名前を知ることができた。ハキハキとした話し方は、彼女の日に焼けた肌や黒々とした髪をより健康的に印象付けた。


 配布されたプリントについて亜衣に質問されたことがきっかけで、友貴と亜衣はよく話すようになり、それから行動をともにするようになった。


 亜衣の目元やふっくらとした唇を思う存分見つめ、カラカラと回転する会話を楽しんだ。入学から日が経つと亜衣の髪色は明るくなり、少しずつメイクをするようになった。こうして《変態》する亜衣を、友貴は観察するように淡々と眺めていた。休日に亜衣と買い物に行くと、亜衣は雑貨店でボディクリームやボディケア用品をよく探していた。友貴は思った、亜衣がもう処女じゃないだろうと。


 放課後も一緒にいる事が少なくなかったが、亜衣が先輩の男子生徒と付き合い始めると、一緒に行動することは減った。そうなると友貴は空いた時間を埋めるようにアルバイトに明け暮れるようになっていた。


 恋愛している亜衣が、他の男子からも注目を浴びているのは友貴から見ても明らかなことであった。うっすらとメイクをしているだけでなく、表情が豊かになったおかげで柔らかい印象を与えた。亜衣がモテるのは、凹凸のはっきりしている体形のせいもあるだろうな、と友貴は思った。


 体育の授業の時間には亜衣の身体についてヒソヒソと話す男性生徒に嫌悪感を抱きながらも、体操着姿の亜衣の身体を癖のように盗み見るようになっていた。


 *


 亜衣と勇人が付き合ってから、間もなくして身体の関係があることを亜衣から聞いた。高校生同士の興味の話として友貴から訊いてみたのだ。勇人の部活がない放課後は、亜衣と隼人は一緒に帰ることがほとんどで、勇人は家族が自宅にいない日は亜衣を連れ込んでいた。


 勇人は普段大人しい生徒だが、身長は180センチ近くあり、野球部では中心的な選手だ。先日、友貴が母親と服を買いに出かけた時、同じ売場に勇人とその母親と見られる女性がいた。おそらく、勇人が着る秋物の服を選んでいるのだろう。友貴は自身の母親と服を選びながら、数メートル先の、メンズ服の売場にいる勇人たちをたびたび盗み見た。


 同じタイミングで試着室に入る。友貴と勇人は、なんとなく顔見知り程度だったので友貴は声をかけなかった。勇人は母親に対しても店員に対しても言葉少なで、意思表示が難しいようだった。いま試している服を買うか買わないかだけなのに。会話が難しいのに女を押し倒すことはできる。友貴は気が遠くなった。


 *


 教室を出ると、友貴は誰にも話しかけられないように早歩きで下駄箱に行き、上履きからローファーに履き替えると、ここからまた早歩きで校門を出た。制服のままで渋谷まで出ようと思うが、時間的に問題ないだろう。友貴は帰りの方向とは逆方向の電車に乗った。


 友貴が通う学校から、電車で1時間ほどで都心に着く。この立地は友貴にとってありがたかった。普段は静かな町で過ごすことができて、自分の胸中に波風が立った時は都心に逃げることができる。学生生活の狭い世界を簡単に飛び出せることは容易ではない。


 電車に揺られながら、友貴はスマホで映画の時間をチェックする。時間をつぶすのが目的だからラクに観られる作品を探していると、アメリカンコミックが原作の映画が目に入った。友貴はふと蒼のことを思い出した。この作品は、蒼と一緒に観た映画の続編だった。


 *


 尾崎蒼とは、亜衣と同様1年の頃からクラスが一緒で、家が近所にあった。中学卒業と同時に引っ越してきたということだった。


 蒼はクラスの中でも大人しい男子生徒と一緒にいることが多く、マンガを回し読みしたり、カードゲームに興じたりすることもあったが、一人でいることも少なくなく、放課後は一人で帰ることが多かったようだ。一人でいることができる蒼のことを、友貴は一目置いていた。それでも、友貴から話しかけることはなく、きちんと話すようになったのは1年生の時の文化祭の準備の時だった。


 友貴たちのクラスは、文化祭で病院をモチーフにしたお化け屋敷をやることになっていた。友貴と蒼はシーツやフェイクのカルテに汚れのようなペイントを施していた。これまで作業についてポツポツと話すことはあったが、話しかけたのは蒼からであった。


 「田島さんて、休みの日何してんの?」

 「ん?バイトが多いかな。バイトがない時は映画観に行ったりしてる」

 「へぇ、どのへんの映画観るの?」

 「どのへんというか……昔の映画が多いかな。目黒シネマって映画館が昔の映画を結構やるからよく行く」

 「あぁ、目黒シネマ、来週末からアメコミ映画特集やるから行こうと思ってた」

 「アメコミ映画、気になるけど全然知らないからなぁ。どれから観ればいいとか分からないんだよね」

 「とっかかりはどの作品からでも楽しいと思うよ。なんなら一緒に観に行く?」

 そう言われた瞬間、友貴は面食らった。大人しい蒼から映画鑑賞の誘いを受けるとは思わなかった。だが、蒼と出かけるのは楽しそうだと思った。


 2週間後、朝から自宅の最寄り駅で待ち合わせ、電車で目黒まで向かう。

 「たまに女子を映画に誘うんだけど、断られることが多かったから今回はびっくりした」

 電車に揺られながら蒼はそう言った。日曜だから、朝早い電車は空いていて、2人は?余裕で座ることができた。

 「えっそう?断られる?」

 「デートに誘っていると思われるみたいで。こっちからしたらデートじゃないんだけど」

 「へえ~」

 「田島さんはなんとも思わなかった?」

 「思わないね。尾崎のことなんとも思ってないし」

 「クラスの誰かに見つかって噂されるのが嫌なんでしょ」

 「噂になるって言っても、すぐ忘れちゃうでしょ。彼ら」

 「そうなんだけどね」


 「本命の人もたまに誘うんだけど、上手くいかない」

 蒼がぽつりとつぶやいた。電車が止まっている時だったので、友貴の耳にはっきりと聞こえた。

 「本命」

 「うん」

 「学校の人?」

 特に興味がなかったが、友貴はなんとなく訊いてみた。

 「まさか」

 「そうなの?」

 「塾の先生だよ」

 「塾なんて行ってるんだ、えらいね」

 「始めはめんどくさかったけどね。でも入りたい大学が、今の成績じゃムリそうで」

 「益々えらいよ」

 「でも塾の先生がすごいかっこよくて」

 「え、男の人!?」

 友貴は思わず声を上げてしまった。車内を見回して誰もいないのを確認すると、友貴は安心した。


 「ごめん、大きな声出しちゃって」

 「いいよ別に。これ言うのは田島さんが初めてだから」

  そう言われた友貴は少し黙って、そして訊いてみた。

 「昔から男の人が好きだった?」

 「そうだね。学校の先生とか。同級生を好きになることはなかった」

 「へええ」

 

 友貴が感心していると、電車が駅で停車し、ドアが開く音がする。数人が電車に乗ってきたようだが、友貴たちが乗っている車両には誰も乗ってこなかった。ドアが閉まり、電車が静かに動き出すと蒼が口を開いた。


「田島さんは、坂口さんのことどう思ってるの?」


 その質問を聞いた途端、友貴の視界はひどく揺れた。まさかこんな質問が飛んでくるとは思わなかった。


 「なんでそんなこと訊くの?」

 友貴がそう答えると、蒼は少しの間、友貴の目を見つめた。そして口を開いた。

 「坂口さん、野球部の人と付き合ってるよね?田島さんといることが少し減って、なんか元気なかったからさ」


 線路を走る音とドアの開閉の音だけが響く。友貴はしばらく黙っていた。蒼が興味本位でそんな事を訊くとは思えなかったから、なにか答えなければ。友貴は頭の中で言葉をまとめた。


 「今は……よく分からない」

 「そっか」

 蒼はそう言うとニコッと笑った。休み時間に蒼がクラスメイトと笑い合う所は見るが、ここまで屈託のない笑顔を見たのは初めてだった。


 その日、2人は映画を2本鑑賞し、ファストフード店で食事をした。2人が観たのはアメリカン・コミックが原作のヒーローもの。食事をしている最中、蒼はその作品の解説をしたり、好きだという塾の先生の話をしたり。学校では大人しい印象だったから、いきいきと話す蒼が友貴にとっては新鮮に見えた。


 「今日観た作品のシリーズ、はまりそうだな」

 帰りの電車の中で友貴はぽつりとつぶやいた。すると蒼が

 「今度ウチに来なよ。配信で観られる作品もたくさんあるから」

 と意気揚々と答えた。夕方の車内は家族連れで少しだけ混雑し、強い西日が彼らをオレンジ色に染めていた。

 「家が近所だって知らなかったよ」蒼がそう言った。

 「朝に会わないと分からないかもね。1年の時、私の何メートル先を尾崎が歩いてて、あれ家が同じ方向なのかなーと思ってたらパッと家の門をくぐっていった。表札を確認したら尾崎って書いてあって。あぁ、めちゃくちゃ近所じゃんってわかったんだよね」

 「探偵かよ。全然気配感じなかったよ」

 「気配消していたわけでもないんだけど」

 


 *


 渋谷の映画館で、友貴はタイムテーブルを眺めていた。目当ての映画は15分後に始まるようでちょうどよかった。窓口で学生証を提示しチケットを買う。ロビーには次に封切られる作品、また近隣の映画館で上映される作品のチラシがラックに並んでおり、開場までの間、友貴はチラシを眺めて過ごした。ふと、あるチラシが目に入った。チラシに収まる2人の女性がとても美しく、友貴は思わず手に取った。するとすぐに開場のアナウンスがロビーに響き渡った。


 友貴は座席に座り、先ほど手にしたチラシを暗転になるまで読もうとした。映画の内容は、2人の女性の恋愛映画のようだ。一人の女性が着ている毛皮というのが今では珍しいなと思っていたところ、ブザーが鳴り照明が暗くなっていった。


 場内が暗くなるとスクリーンが明るくなり、広告が2つ3つ流れ、そのあと予告編が流れる。予告編は、友貴が手にしたチラシのそれだった。1950年代のアメリカの風景が美しい。2人の女性の逃避行。主人公の女性が言う、心に従って生きなければ人生は無意味よ。


 友貴は蒼のことを思い出した。


 *


 1年の冬休み、蒼の自宅で映画鑑賞に誘われた。

 「ウチ、両親共働きだから」

 蒼が言うとおり、昼過ぎに自宅に向かうと蒼しかいなかった。彼は慣れた様子で電気ケトルで湯を沸かし、その間にティーポットや茶菓子を用意する。テーブルにそれらを運び、テレビで配信のセットをする。観る映画を選んでいると、友貴が口を開いた。


 「尾崎はさ、男性の身体って興味ある?」

 蒼はスマートフォンを操作する手を止めた。

 「もちろん」

 自信を持って蒼が答える。

 「性的な目で見てる?」

 「みんなじゃないよ、好きな人のことは、ね。女子のことはそんな目で見たことはないよ」

 「同性を性的に見るって、戸惑わなかった?」

 「僕は戸惑わなかった。最初に好きになったのが親戚のおじさんなんだけど、同性を好きになったことを戸惑わなかったんだよね。誰かを好きになるのが遅かったから、僕も誰かを好きになれるんだと嬉しくなった。好きになることと、性的に見ることが一つの流れだって分かってたから戸惑わなかったんだと思う。性的に見る相手が誰だろうと戸惑う必要はない。それを表に出すかどうかは、また別だけど」


 *


 記憶を辿っている間に他の作品の予告編も終わり、本編が始まった。映画の導入部を眺めながら、蒼の自宅にいた時のことをさらに思い出す。蒼と話したことで、自分が抱いている亜衣への想いを整理し、受け入れることができた。受け入れたところで、亜衣にとって自分がただの友人であり、亜衣には彼氏がおり、それを傍で見ている自分が苦しむことに変わりはないのだが。


 映画はほとんど楽しめず、友貴は映画館をあとにした。もう日が暗くなって街のネオンサインがけたたましい。


 電車の中でSNSをチェックしていると<都内に住む高校生が行方不明>というニュースが目に入ってきた。記事にはその高校生の名前が明記されており、間違いなく蒼のことだった。よく知っている人物の名前を、ネットニュース(しかも朗報ではない)で見るのは心がズシンと重くなる。蒼は学校から帰宅後、塾に行くと言って家を出たが、帰宅しなかったらしい。学校も当然ながら数日間欠席していたが、サボっているわけではないだろうと友貴は推測していた。蒼がいまどうしているか。家出か、事件か。友貴には見当がつかなかった。


 友貴の自宅からほど近い所に蒼の自宅がある。友貴は蒼の自宅の前を通り過ぎながら、2階にある蒼の部屋を確認する。蒼と友達になってから、いつの間にかそうすることが習慣になっていたが、今となっては確認する意味が違う。今夜も彼の部屋は暗いままだった。


 友貴は何気なく立ち止まり、蒼の部屋を路上から眺めた。すると蒼の部屋から影が動くのが見え、友貴は息を呑んだ。物音を立てないようにと本能が働き、友貴の身体は硬直した。


 静かに窓が開き、音もなく影が出てくる。蒼の家の裏手は住宅だから、このまま逃げるならこちら側の道路に出てくるだろう。友貴はブロック塀から門の方に視線を移した。だが物音がしたのはブロック塀の角からだった。2メートル近いブロック塀から人影が上がってきたので、蒼か?と友貴は疑問を持った。人影はブロック塀を乗り越えて、やはり音をたてずに道路まで降りた。その姿は蒼に比べてずいぶん背が高かった。

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