DEEP TALK
ムト★ピカ
Chapter 1 ●相棒ヘム・トーキン
ダイシュナルはレギュレーターのマウスピースを点検しながら、16枚目のログ・フロッピーをビジュアルモニターにインサートした。
ジジッ! というノイズを発して、モニターにグリーンの文字データがうかびあがった。
2992年10月4日、ダイブ・メモリー003254SZ
ダイバーA: ギル・ダイシュナル コード002
ダイバーB: ヘム・トーキン コード105
ダイブ・ポイント…………………………バリアント・シーグル
潜水難易度…………………………………………ランクJ
水深…………………………………322ファゾム(約600m)
水温……………………………………………7.8℃→1.2℃
水圧…………………………………………………… 60bar
減圧停止………………………………10回/TOTAL 38分
エアー消費量(毎分)…………………………002=315l
105=470l
残留窒素…………………………………… 002=0.7
105=120
滞底時 …………………………………………………180分
ex. 002 ギル・ダイシュナル/ナークス症状あり、一部記憶欠落
原因:ナークス状態のため、自己防御本能の作動による可能性あり、
以後要注意
(メディカル・オペレーション・コマンド)
マインド・コントロールの再審査を1ウィーク以内に受け、
結果を再登録せよ。
ex. 105 ヘム・トーキン/ベンズ(減圧症)状態に陥る。
原因:減圧停止時間、不充分のため。
(メディカル・オペレーション・コマンド)
1ケ月の減圧トレーニングを義務づける。なお、ダイバーランクを
ダイブマスターより、Cランクダイバーへ降格する。
ダイシュナルはチッと舌をならし、モニターを消し、手にもっていたレギュレーターをおもいっきりソファーに投げつけた。「クソッ! メディカル・オペめ……だいたい、このダイブは始めっから危険すぎたんだ。オレだって、トーキンだって……いや、どんなベテランダイバーだって、この任務は遂行できなかったさ。それをCランク降格だって言いやがる………トーキンがかわいそうだ」 はきすてるように、そう独りごちた。
1ケ月間の減圧トレーニングは良しとしても……彼には相棒の降格が、どうしても納得できなかった。
トーキンがCランクへ落ちるということは、もうトップダイバーである自分とは、バディペアを組めなくなってしまう。
彼はトーキンを唯一信頼していたし、バリアントの事故だって、トーキンが相棒でなかったらこんなものですむはずはなかった。
そして、さらに重要なのは、相棒がトーキンでなければ、とっておきの能力が生かせなくなるということだった。もちろん、この能力についてはメディカル・オペレーション・センター(M.O.C.)には未登録で、2人以外に知る者はいないのだ。ダイシュナルは、そんな思いをめぐらせながら、相棒が隔離されているM.O.C.の減圧室へすっ飛んでいった。
今日こそ、M.O.C.の頭でっかちに一発かましてやるつもりで……。
ダイシュナルたちゼロナンバーのトップダイバーのプライベートルームには、常にM.O.C.との間にホットラインが接続してある。ホットラインは直径3メートルほどのエアーパイプで、パイプ内のエアプレッシャー(空気圧)で体を運ぶシステムである。文字通り、すっ飛んで行けるのだ。
ダイシュナルはエアパイプが二股に別れる地点で〈VISIT to M.O.C. 〉という表示のある左側のエアルートに入った。心地好い風が、ふわっと彼の体を持ち上げる。
そのまま200 メートルほど行くと、ひときわ目立つ〈M.O.C.〉の赤い発光文字が見えてくる。彼の身体は自然にスピードを落とし、エアハッチの手前でゆっくりと着地した。
メンバー登録カードヲ提示セヨ”
毎度おなじみの機械的なボイスが流れた。
「ああ、わかってるよ、めんどくせーな……いちいち」
“タダイマノ音声ハ認識サレナイ。メンバー登録カードヲ提示セヨ”
まさしく機械ならではの一方的な繰り返しである。
短気な彼も、子供の頃からこの機械の声とつきあってきたせいか、
今ではすっかり無視できるほどに無感情になれた。
これは、彼がマインドコントローラーとして稀な天才の持ち主であることの裏付けにもなるわけだが……
この話は、またの機会にすることにしよう。
ダイシュナルは無表情でカードを差し込んだ。
ピピッ!
“メンバーズ・コード・ナンバー002 ……ランク: トップ・ダイバー……ネーム: ギル・ダイシュナル……確認。ゲートヲオープンスル。スミヤカニ通過セヨ"
一連の儀式を終えると、彼は足早にメディカル・オペレーション・センター(M.O.C.)の中へと入っていった。つきあたりを右へ曲がれば、そこに相棒のいる減圧室がある。だが、彼はそれを左にまがった。
彼に会うためには、主治医であるドクター・レム女史の同行を必要とするのである。だから、まず当直室に行き、レム女史を口説かなければならなかった。
レムという名は本名ではなく、彼女の愛称である。彼女は10年ほど前に、メイルピー国際科学賞を受賞したが、愛称はその時の研究内容にちなんでいた。
レム女史のライフ・ワークともいえる研究課題とは、圧力40bar を超えた状態における脳細胞の覚醒と昏睡。そしてその時に誘発される断続的なレム睡眠の、根本的な解明である。つまり、レム睡眠の “レム" がそのまま彼女の愛称となったわけだ。
今では、M.O.C.の中でも彼女の本名を正確に知る者は数少ない。
ダイシュナルも、むろん知らない一人である。もっとも彼女自身はそれをまったく気にしていない。むしろ「レム女史」と呼ばれることを、無邪気に喜んでいるようなところがあった。
ダイシュナルは当直室のインターホンを押した。
「ドクター・レム、ダイシュナルです。相棒の様子を見にきました。ご同行願いたいのですが」
しばらく間をおいて、レム女史の妙に色っぽい声が返ってきた。
「あら、ダイちゃん……。あなた、このあいだの再検査の結果、ちゃんとメモリーに登録した? どーせまだなんでしょ。ダメよ、さっさとしなくちゃ。ゼロナンバーはダイバーのお手本なんですからね……。
ま、とにかくセイフティロック解除するから、勝手に入ってちょうだい、
2Fの研究室の方にいるわ……じゃあ」
「わかりました」 ダイシュナルは短く答え、ぶ厚いオートロックのドアを開けて研究室へ足を踏み入れた。
2階の研究室に上がると、白衣姿のレム女史が、巨大な水槽に見入っていた。水中では、シー・ゴリラが恍惚とした表情で熟睡している。が、背後のダイシュナルの気配に気づくと、彼女はすぐに振り返った。
「さあて……、ヘム・トーキンに会いに来たってわけね? ま、おかけなさいよ。……実は私の方も、一度あなたとゆっくりお話したかったの。私、以前からあなたたちのペアに特別興味があったのよ」女史は思わせぶりに肩をすくめ、含み笑いを浮かべた。「とにかくメディカル・オペレーションのデータ報告では、どうしても解答が得られない……不明瞭な部分が多すぎるのよ。
あなたたち、何か隠してるでしょ」
女史は、テーブルの上のポットから2つのカップにコーヒーを注ぎながら、ゾクッとするような流し目でダイシュナルを見つめた。
思わず、息を呑むダイシュナル……。
トーキンの降格に意義を申し立てようと、息巻いてやってきたはずだった。だが逆に思わぬ追求をうけ、当初の勢いはいっぺんに失せてしまった。
女史は改めてなにかを確信したかのようにうなずいて、話を続けた。
「特に……この間のダイブは、とっても変だったわ。そう、バリアント・シーグル……あそこで、いったい何があったの? それに答えるまで、あなたとトーキンを会わせるわけにはいかないわ」
今度はちょっと意地悪な目で、ダイシュナルを見る。
「隠しごとなんて、めっそうもない。ちゃんとM.O.C.のメモリーに結果は登録しましたし、それで全てですよ。変な勘繰りはよして下さい。オレにだって、トップ・ダイバーとしての自負くらいはありますよ。だけど、ランクJのダイブなんて、いくらゼロナンバーだってそうそう体験してませんし ……。第一、オレとトーキンをピックアップしたのは、そっちのコンピュータですよ。M.O.C.のお墨付きのベスト・カップルだったわけでしょ!」
ダイシュナルの頭の中で、M.O.C.に対する小さな不満分子がぶつかりあい、今にも核分裂でも起こしそうだった。
ふーっと長い溜め息をついて、レム女史はなだめるように言った。
「わかるわ……。ダイちゃんは、ちゃんとやる事はやってくれるし、誰の目から見ても一押しのトップダイバーよ。私だって、あなたの報告に不信感を持ってるわけじゃないの。ただ、メディカルデータを採取するために、今度PCCBスーツをテスト着用してもらったでしょ? その記録を分析してみたら、どう考えたってあなたたち一度死んでるのよ……。
それも、ちょうどダイちゃんが記憶を失っていたっていう、あの間にね」
「し、死んでたですって?! …… それ、どういうことです?」
《死》という言葉に度胆をぬかれ、ダイシュナルの怒りは一瞬にして吹き飛んでしまった。「どうもこうも……」女史は肩をすくめた。「とにかく、データはそうなっているんですもの。だから、ダイちゃんの失われた記憶っていうのが戻れば、その間に何があったのかわかるはずなのよ。……死んでいる間の記憶が、ね」
女史は、バリアント・シーグルのダイブメモリーをモニターに写し出した。ダイシュナルのプライベートルームにあったフロッピー・メモリーとは違い、M.O.C.のメインコンピュータと直結しているモニターには、その記録の詳細までが完璧に写し出されていた。
「さあ、順を追って思い出していきましょう」女史の口調ががらりと変わり、患者に対するドクターのそれになった。女史は、ダイシュナルの目がモニターに釘付けになっているのを確認しながら、ゆっくりと話しはじめた。
「まず、この計画の目的からよ。ここにあるように、目的は大きくわけて4つあるわ。
最初にマイクロ水中衛星の設置——この作業はちょっと細かいけど、あなたのテクニックならまったく問題なかったはずね。結果もここに出てるけど、設置後の機能安定状態も申しぶんないわ。
次に、未確認物体および生命体に関するすべての記録報告。
この項目も非常に高いレベルに達している。これだけ密度の高い観察力は、ダイちゃん得意のマインドコントロールの成せるわざ……さすがね。感心、いえ感動すべきレベルよ。
そして問題が3つめ。異常海流・異常水温・異常圧力などの環境異常に関する記録報告。この第3項目と、最後の第4項目——超減圧スーツPCCBのモニターテストのデータを合わせて分析すると、不可解としか言いようのないナゾが出てきたの。
まず、二人が事故にあう20分前から始まる、水深250ファゾム辺りでおこったこの異常海流——約30ノットね。……ダイちゃんの報告によれば、この海流で一気に280ファゾムまでもっていかれた……そうね?
まあ、それ自体はそんなに珍しいことじゃないけど、問題はその時のトーキンのPCCBスーツの記録なの。ちょっと、これ見て」
レム女史は、モニターの画面を切り換えた。
「特にここよ。ATP(アデノシンミリン酸)の保有率がとても高いのに、これじゃ呼吸数と酸素の消費量が過多なのよ。いくら深海だって、消費エネ
ルギー値が高すぎるし、血圧は逆に低すぎるでしょ。まるで、深海で鉛のボール使ってラグビーやってるようなものだわ。でも、もっと奇妙なことに、同じ状況下のあなたのPCCBスーツの記録には、何の異常も表れてないのよ。ということは、トーキンの身にだけ何かが起こったってことでしょ? それも、とっても体力を消耗するような何かが……。
ダイブ開始から97分14秒————下降急流にのまれて12秒後。ねえ、この時の彼の様子をもう一度思い出してみてくれないかしら。ダイちゃんの方は平常値だったんだから、何か覚えているはずよ。これはトーキンの治療にもとても大事なことなの、わかるでしょ。どう? 思い出せる」
ダイシュナルは、額にうっすらと汗を浮かべた。
「記憶ははっきりしている。……オレたちは真暗闇で急流にのまれて、下に吸い込まれるマリンダストの渦の中に引き込まれていったんだ。
すでに肉眼での視界はゼロだった。で、オレとトーキンは赤外線マスクと音波反射ソナーを併用して、外界を探知しようとした。急流と多量のマリンダストの障害があったから、シビアなところまでは自信がないが、急降下しはじめてから20秒後には、オレとトーキンの間は18メートルに広がってしまったんだ。もちろんトーキンの方が下にいた……」
「ちょっとまって! それじゃ当然、トーキンの方が水圧加重を余計にうけていたことになるわね。……おかしいわ。PCCBの記録だと、2人の受けている水圧加重は、この時点でほとんど同じなのよ……どうしてかしら」
ダイシュナルはムッとして言い返した。
「PCCB、PCCBって、いったいそんな記録が何だっていうんだ。
オレはオレの記憶の通りに話してるんだぜ。前例のないテストスーツの記録なんか、信用できるもんか! それとも、科学者としては、現場にいたダイバーの証言より、あのソフトシリコンのちゃんちゃんこの方が信用できるってわけかい!」
「まって、ちょっとまってよ。そう、感情的にならないでよ。気持ちはわかるけど……。私だってPCCBが完璧だなんて思ってないわ。そもそも、ダイちゃんの記憶とPCCBを含むM.O.C.の記録との矛盾を解くことが、この事故の原因解明のカギになるんじゃなくて?」
女史はコーヒーを一口飲み、モニターの画面を再び切り換えた。
その画面を見ながら、女史は解説した。
「このグラフを見て。2人の比較がよく出てるでしょ。ダイちゃん(A)に較べてトーキン(B)の脳波パルスは、45barあたりから急上昇してる……。
これはきわめて危険な徴候よ。普通の人間ならとっくに気を失ってるわ。この水圧45barが深度250ファゾムだから、ちょうどあなたたちが急流に巻き込まれた時点と一致してるわけ。
そのあと、300ファゾムで、ダイちゃんの記憶が12分40秒途切れるのよ。
このラインが途切れているところがそうよ。同じタイミングで、いいえ、正確に言えばダイちゃんの記憶断絶にオーバーラップして、23分12秒間、トーキンの脳波が覚醒中のβ波から突如PGO波に変化してるの。この細かいバイブレーションが、それを表してるのよ」
「っていうことは?」
ダイシュナルは興味をあらわにして、レム女史をのぞきこんだ。
「ということはね、このPCCBの記録に間違いがないとすれば、あなたたち二人の思考がどこか遠くにすっとんじゃってるってことなの。さっき二人が死んでるって言ったのは、つまりそういうことよ。私は、トーキンの脳波の急激な変化にダイちゃんの脳波がシンクロして、どこかへ持っていかれちゃったんじゃないかしら、って推測しているの。ただ問題は、平常時(50barを超えてるんだから、あまり平常とは言えないけど)の人間の脳波が起こす変化にしては、この現象はあまりにも突拍子もないってことなのよ。この変化を誘発する何らかの外的要因がなければ、私の推測は成り立たないの。何かとても、ふつうじゃ考えられないくらいの出来事が……」
その時、シー・ゴリラの入った水槽のサーモスタットが電子音を鳴らしはじめた。
ピコーン ピコーン ピコーン ピコーン …………
熟睡していたシー・ゴリラが目を覚ましたのだ。
「あら、もうお目覚め」
女史はそうつぶやいて、固形のカプセルフードを2つ、水槽の中に打ち込んだ。
プシュー プシュー
シー・ゴリラは、寝起きとは思えぬ俊敏な動きでそれをキャッチすると、パリパリと食べ始めた。
「あなたも昔は、眠ることなんかなかったのにね」女史はガラスごしに微笑むと、サーモスタットの音を止めダイシュナルの前に戻った。
「さあ、これで私の方は全部話したわ。今度はあなたの番よ、ねえ、お願いだから……。ここで聞いたことは、もちろん全部私一人の胸にしまっておくわ。……ダイちゃんが言いたくないんだろうってことくらいは、わかってるの。ずいぶん前から気づいてはいたのよ。でも、私はあなた自身の口から直接聞きたいの。信じてもらえないかもしれないけれど、私もあなたたちのペアを大事にしたいと思ってるのよ。だから今までは黙ってた。
そして今も、M.O.C.の人間として聞こうとは思ってないの。あなたの友人の一人として、教えてほしいのよ」
包み込むように熱心に手を握られ、それでもダイシュナルはまだ迷っている風だった。が、やがて、彼は重い口を開いた。
「……あなたを、信用するよ。でも念を押させてくれ。絶対に他言無用だよ」
「いいわ」
「…………。ヘムとオレは GALVAダイビングスクールの同期生だった。
当時オレは特待生でバリバリだったが、ヘムは体が弱く、健康維持のために時々スクールに顔を出す程度だった。そう、忘れもしないよ。ちょうど4度めの外洋講習の時だった……。
オレはヘムと初めてペアを組んだ。———深度100ファゾムを超えたあた
りだった。突然やつが話しかけてきたんだ……ヨ・ロ・シ・クって……。
どういうことがわかるかい? 水中じゃ、もちろん肉声は届かない。
ヤツは、つまり、脳波交信(テレパシー)ってのを使ったわけだ。もし地上でだったら、オレは間違いなく飛び上がって逃げてただろうね。
オレとヘムは、それからも何度もペアを組んだ。最初は、多少なりとも気味が悪かったさ。でも、そのうちオレは気づいたんだ。水中で思考がはっきり伝わるってことは、画期的に有利だってことにね。ペアを組んでいる時、オレたちは何度も交信を繰り返し、やがて自然に交友を深めた。
いつしかオレは、その能力を評価しこそすれ、気味悪さとか恐れとかはまったく感じなくなっていった……。
当然のことのように、オレたちはトップで卒業した。当たり前だ。
オレたちには他の連中には絶対に持てない武器があったわけだからな。当然、オレたちはこのことを、固く二人だけの秘密にした。
ヤツは脅えていたんだ。もし脳波交信能力が公けになれば、間違いなくモルモットにされる。その恐怖がわかるかい。
オレだって、最高のバディペアであり、今や親友でもあるヘムを、そんなことで失いたくはない。誰にも漏らさない……絶対に。そう二人で心に誓ったんだ。
M.O.C.に登録する時も、この事はもちろんひた隠しにした。さいわい、ヤツの能力は水中でしか使えなかった。だから、どの検査でも発覚はしなかった。M.O.C.のカルテをどうひっくりかえしてみたところで、出てくるわけがないさ。
今度のバリアントでも、オレたちは急流に巻き込まれながら交信していた。ふたりの距離が18メートルあったっていうのも、交信による情報だから自信があるんだ。PCCB記録との矛盾は、たぶんあの渦のせいだと思う。あの渦は、遠心力でかなり外方向にGが働いていたし、通常海域の水圧とはまるで状況が違ってた。……あの渦には多量のエアーが混ざっていたんじゃないかな」
パン☆ と女史が手を打って叫んだ。
「それよ! そういうデータにも残っていない小さな事実が大切なのよ。そうだったの……、それでわかってきた。トーキンの能力はともかく、あのATPの過剰保有率と運動量の異常————あれは、急に圧力から解放されたせいだったのね。圧力解放に気づかずに同量の運動をすれば、当然運動過剰になるわ。あなたは18メートルも上にいたから、その圧力解放に出会わなかったわけ。だら二人の圧力加重が同率なのに、トーキンのPCCBにだけ、あんな異常な運動量が記録されたんだわ……」
まるで知恵の輪をうまく解いた子供のように喜ぶ女史……。しかし、それを横目で眺めながら、ダイシュナルはまだ釈然としないようだった。
「だが……それだけじゃ、まだこの数値は大きすぎると思わないか? オレも異常減圧に出会ったことはあるけど、それだけでこんなに消耗しつくすはずはないんだ。…………もしかしたら、あの過剰な脳波交信のせいだったんじゃ……」
女史の表情が、スッと強張った。
「今、なんて言ったの。過剰な脳波通信って何。ダイちゃん、あなた彼から何を伝えられたの」
困惑した表情で、ダイシュナルは目をふせた。
「何と聞かれても……。あんなメッセージは今まで受けたことがないんだ。ヤツの脳波通信は、たいてい視覚的(ヴィジュアル)メッセージと言語的(ロゴス)メッセージの二重奏でオレの頭に流れ込んでくるんだ。それが、あの時だけは……なんて言うのか……ヘタクソないくつかの言語(ロゴス)と、ノイズの入ったビデオ画像みたいな不完全なヴィジュアルメッセージだけだったんだ。それが、一度にどっとオレの頭に流れ込んできた。そうだっ!! きっとオレの脳は、その多量の情報を受け切れずにオーバーヒートしたんだろう。記憶を失ったのは、そのせいじゃないか?」
「そのメッセージ、今ここに描ける? 覚えているだけでいいから」
そう言って、女史は急いでボードを手渡した。
ボードを押しつけられ、ダイシュナルはこめかみに手を当てて目を閉じたまま、何かを描き始めた。
「……目に入ってきたのは——正確に言えば“脳に”だけど——こんな映像だったと思う。画像が荒れていて、よくわからないところもあったけど、大体こんなもんだ。まだ他にも、何か細かい……そう、古代文字みたいなものがあったような気がするんだが……」
底の方に残った最後のコーヒーをすすりながら、女史はダイシュナルの描いたヴィジュアルメッセージを、M.O.C.の解析コンピュータにインプットした。
「ありがとう、ダイちゃん。恩に着るわ。さて、この分析には、ちょっと時間がかかりそうだから……。その間にあなたの本来の目的を果たしに行きましょうか。そっちも話してくれたんだから、こちらも約束ははたさなくちゃね……」
「ああ……、そうだった。お願いします」
夢から覚めたように言うダイシュナルに、女史は急に真剣な顔で言った。
「でも、今会っても、彼はまだ16barの減圧室の中よ。ガラス越しにしか会えないわ」
「それでいい」
「意識だって、まだせいぜい20%くらいしか回復してないんだけど……。でも、たぶんそれでもいいのね。あのバリアント以来のご対面なんですものね……。多分、親友の顔だけでも確かめたいんでしょ? ……ちょっと妬けるわね」
最後の方は呟くような女史の言葉に、ダイシュナルは軽くうなずいた。
減圧室の巨大な鉄扉を開けると、ガラス越しにヘム・トーキンの横たわるベッドが見えた。
トーキンは目を固く閉じ、深いノンレム睡眠に入っている。
手前にあるメディカルセンサーがδ波の脳波を表示し、それを示していた。
「トーキン……会いたかったよ。なあ、また一緒に潜ろうな?」
ダイシュナルは目にうっすらと涙を浮かべていた。
「おまえをCランクになんか行かせやしないさ。どうしてもって言うんなら、オレがランク落としたっていいんだ。絶対に、一緒だよ。
これからだって……。トーキン、早くよくなれよ。また、酒でものもうぜ……」
ガラスに額を押しつけ、ダイシュナルは眠り続ける友を見つめた。
まるで、以前と同じように脳波交信でもしているように、いつまでも心の中でトーキンに話しかけ続けた。
と、その時—————
ア・ワ……イ・キ・テ・ル……ア・ワ・ノ・ウ・ズ……タ・イ・ヨ・ウ・ノ・ク・ニ……モ・ド・レ・ナ・イ……ジ・カ・ン……ト・マ・ル…………タ・ス・ケ・テ……ミ・ズ・ガ……ナ・イ……ア・カ・イ・オ・ト……キ・コ・エ・ル……ダ・イ・シュ・ナ・ル…………タ・ス・ケ・テ……
メッセージだ!
トーキンのメーセージがダイシュナルの脳に流れ込んで来たのだ。
ダイシュナルは、驚きで一瞬叫び出しそうになったが、危うく声を押し殺し唾を飲み込んだ。そして傍らのレム女史に悟られないように、心で返事をした。
『トーキン! なんて言ったんだ、トーキン! 答えてくれ! おまえはもう助かってるんだよ。ここはあの海じゃない、M.O.C.の減圧室だ。しっかりしろ。早く意識を戻すんだ……トーキン!』
この時、メディカルセンサーが、今までのδ波とはうって変わったPGO波をキャッチした。なにげなくセンサーに目をやったレム女史が、びっくりしたように叫んだ。
➡️continue to next time
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