【短編】卒業式のユメ 〜潜水服の優等生は、まどろみの世界で指揮棒を振るう〜

シロヅキ カスム

Chapter 1

雨降り、車のなかで Ⅰ

『午後、四時をお知らせします』


 ポーン、と玉のねるような小気味よい音が聞こえた。

 続いて、軽快なボサノバ調のBGMがスピーカーから流れ出す。ご機嫌なミュージックに満たされて、車のなかの空気も少しは明るくなるかと――俺は期待した。


 窓に打ちつける雨のうっとおしさを、さわやかに乾かしてくれるのではないかと……。


「ハァ、もうそんな時間なのね」


 重たいため息が、俺の期待をくじく。

 前の運転席で、ハンドルを握る母がぼやいた。


「やっぱり夕方の――ましてや日曜じゃ、道路も混み混みになるわよねぇ。あーもう! さっきからぜんぜん、車が動いてくれないじゃないの……」


 母のぼやきに引っぱられて、俺は顔を上げる。

 手にしていたスマートフォンはそのままに、運転席と助手席の合間へ視線を向けた。


 タイミングよく、ワイパーが邪魔な水滴を拭き上げる。

 フロントガラスから見えた空は、朝の時と変わりない。一面、灰色の雨雲に覆われていた。その下で、二車線の道路にはブレーキランプの真っ赤な光がびっしり列をつくっている。まるで合わせ鏡でも見ているかのように、その赤色は道路の奥へ延々と続いていた。


「お母さん、あたしノド渇いちゃった」


 助手席に座る、小学生の妹が足をばたつかせた。動かない車と外の景色にすっかり根を上げてしまったようで、母とおなじく憂うつな声を沈ませる。


「さっきのショッピングモールの自販機で、ジュースでも買ってくればよかった」

「水ならあるわよ? ほら、お母さんのでよかったら」

「水はイヤ。ジュースがいいの、冷たい炭酸ジュース!」


 年の離れた妹は、小さな頭を座席の枕に押しつけて腰を浮かせる。いわゆるブリッジ状態だ。後部座席にいる兄の俺と一瞬目が合うも、むすっと唇をとがらせるだけで特になにも言ってこなかった。


 俺もなんとなしに体をゆする。自宅に到着するまで、まだまだ時間がかかりそうであった。


(座席の背もたれでも倒すか……)


 俺は、足元のレバーに手を伸ばす。レバーを引きながら、背もたれに体重をかけていこうとして――。


「ちょっと、頼人よりと!」


 突然、母が小さな悲鳴を上げた。

 同時に背中のほうから、メリメリと紙かなにかが潰れるような音がした。


「後ろ、後ろ! 荷台に買ったものを乗っけてあるの忘れたの?」


 母の言葉に「あっ、いけね」と、俺はすぐ背もたれの位置を元に戻した。


「シートを倒すのはいいけれど……あんたのお祝い返しのお菓子とか、私の新しいスーツもあるんだからね。お母さん、あんたのためにもう一度買い物に出かけるのは、ごめんよ?」


「悪かったってば。それじゃ、後ろの荷物を移動させるか」


 俺はくるりと身を反転させて、両膝を座席の上に乗せる。天井に頭をぶつけないよう気をつけ、腕をのばして……パズルよろしく、後ろの荷物を動かしていった。十分に背もたれを倒せるよう、スペースをつくっていく。


 食料品の入った買い物バック。これは俺のとなりの席に置くことにしよう。手提げをつかんで、荷台から引っ張り上げようとした――その時、妹の声が割り入った。


「お兄ちゃんったら。荷物を移動させる前に、ちゃんと散らかしたものを片付けないとダメだよ?」


 妹のけげんな視線は、俺のとなりに向けられている。

 妹の言うとおり、後部座席は散らかっていた。スマホケースが入っていたプラスチックのパッケージや、携帯会社の各種サービスのパンフレットなどが散乱している。

 

「お母さんがいつも言っているじゃん。散らかっているところに荷物を乗せるんじゃありませんって」

「そ、それくらい俺にだって、わかってんよ……」


 媚びを売る妹に、母は「あらあら。お兄ちゃんとちがって、えらいわねぇ」と声を弾ませる。

 そんな二人を白けた横目でいちべつしてから、俺は一旦買い物バックを下ろす。言われたとおり、ささっと後部座席を片付けてやった。


 片付け……と言っても、足元に落ちていた通信会社の紙袋に、物をすべて押し込んでいくだけであったが。

 おかげで十秒もかからなかった。案の定、母からは呆れたため息が聞こえてくる。俺は気に留めず、さっそく買い物バッグを自分のとなりへと移動させた。


 どぷりっ、水が揺れる音がした。バッグのなかには二リットルペットボトルが入っていた。なるほど、どおりで重いはずである。


「あっ、それ炭酸ジュースだ!」


 先程ノドが渇いたとうめいた妹が、ペットボトルを見て目を光らせた。俺は慌てて、助手席から振り向く妹の前に手をかざす。


「ダメだ、ダメ。こいつは明後日の、部活の集まりに持っていくんだから。うちに帰ってもぜったいに飲むんじゃないぞ」


「えーっ、お兄ちゃんのけちんぼ!」

「わがまま言っても無理。これだけは俺、ゆずれないからな」


 年齢が五つも離れているだけに、これまでも年長者として妹には色々と譲歩してきた。しかし、さすがに今回ばかりは通用しない。なにせ、ただの集まりでないのだ。母だって、きっと今回ばかりは俺の味方をしてくれるあろう。

 俺は、ちらっと運転席のほうを見やった。


「集まりって……部活の追い出しコンパって言ったわよね。田中くんのマンションでするっていう話しの」


 部員みんなでお邪魔して、迷惑じゃないかしら?

 と、残念ながら母は、まったく別のことを切り出した。


「ハメを外して大声で騒いだりしちゃダメよ? ほかのマンションの住人さんもいるんだから、その辺わかっている?」


「平気だって。あいつんとこマンションの一階だし。それに、その日は両親とも仕事で出かけているから、ぜんぜん気にしなくていいって、田中も言ってたよ」


 ミラー越しの、母の眉間のシワがより深くなった。「気にしなくていいわけないじゃないの、まったくもう……」と、いつものように、お小言がはじまりそうな雰囲気を察した俺は、慌てて話題を変えることにした。

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