30.メッセージ


……美結氏はしばらく間、声を潜めて泣いた後、小さく「ごめんなさい」と呟いて、私に伝言を書いた紙を渡した。


『さようなら、私のママ』……か。


「……………………」


「あの、柊さん」


明氏が私へ尋ねてきた。


「美喜子さんのお腹の中にいる赤ちゃんは、これからどうなるんですか?」


「そうですね、原則では出産の後に、児童施設か、あるいは美喜子の親元に預けられますが……美喜子は親と絶縁状態なので、施設に行くことになるでしょう」


「施設……」


「気になりますか?明氏」


「……境遇が境遇なので。赤ちゃんには、何も罪がないじゃないですか……」


「……………………」


「できることなら俺たちが引き取ってしまいたいとも思いますが、俺たちもまだ学生……。ちゃんと育てられるかも分からないのに、ペットを預かるような感覚で引き受けちゃ、絶対いけない。引き受けるにしても、ちゃんと生活できる土台ができてからでないと……。想いが先行しすぎて無責任なことをしてはいけないと……そう思ってます」


「……そうですね」


「…………だけど、やっぱり…………その子のことを想うと、どうにも…………気持ちが沈んでしまいますね。どうか幸せでいてくれるといいのですが……」


「……………………」


「それから……その、城谷さん」


「うん、どうかした?明くん」


「父さんが死にたいと言っていた時…………どんな表情でした?」


「え……表情?そうね…………。その、いろいろ諦めてらっしゃるような、そんな雰囲気だったよ」


「……………………」


明氏はしばし黙った後、「分かりました」と言って、席を立った。


「お二人とも、本当にありがとうございました。このお礼は、いつか必ず……」


彼がそう言うと、美結氏も涙を拭いながら席を立ち、か細い声で「ありがとうございます……」と言った。


「明氏も美結氏も、そんなに畏まらないでよいのですよ。私たちは、ただ大人の仕事をしただけです」


「うん、千秋ちゃんの言う通りだよ。二人が一番頑張ったんだから、何も気にしないで?」


「……………………」


二人は黙ったまま頭を下げると、そのまま部屋を出ていった。明氏は美結氏の肩に手を寄せて、ぎゅっと寄り添っていた。


「千秋ちゃん」


「なに?」


「美結ちゃんは……お母さんになんて伝言を頼んだの?」


私は美結氏から預かった紙を、城谷ちゃんへ渡した。彼女はそれを見て、眉をひそめ……下唇を噛み締めた。


「美結ちゃん……お母さんから『産まなきゃ良かった』って言われたのに、それでもお母さんのこと……想ってあげてるのね」


「……子どもは、いつだって親のことを愛したいと思っている。だから虐待がなくならない。親に嫌われないように、子どもは一生懸命、言うことを聞いてしまうんだから……」


「……美喜子の方には、本当に愛がなかったのかな?」


「あるわけない。あんな母親……私は認めない」


「……私さ、本当に……本当に本当にか細い可能性だけど……美喜子も、よい母親になれた未来があったんじゃないかって気がするの」


「なんで?」


「美喜子は……驚くほど精神年齢が低くて、他人のことを省みない、子どもが喚くようなことばっかりする人だけど……。でも、子どもっぽさって、よい面として捉えれば『無邪気さ』とも言えるでしょ?」


「無邪気さ……」


「自分のやりたいことに夢中になれる無邪気さを持つのは、私は悪いことじゃないと思うの。もちろん美喜子の場合はやりすぎだし、見栄や体裁がいろいろ捻れちゃって酷い状況になっちゃったけどね」


「……………………」


「でも、その無邪気さを持ったまま……本来あの人が持つ長所を壊さないまま、上手く大人になれていたら。子どもと一緒に和気あいあいと遊べる、楽しいお母さんになれていたのかも……なんてことを、少しだけ思うの。美結ちゃんはもしかしたら、そのことをなんとなく分かっていて……さっき、泣いていたのかも知れない」


「……………城谷ちゃん、『あったかも知れない未来』なんて、考えたらキリがない。今、この場の現実をどう生きるか?私たちに必要なのはその気持ち……。それは城谷ちゃん、あなたが一番よく分かっているはずよ?」


「……そう、だね」


城谷ちゃんは、寂しそうに眼を伏せた。少しだけ言いすぎたなと思った私は……自分の太ももをぎゅっとつねった。


「未だに、『もし私の妹が生きていたら』とか、『あの子が無事でいられたら』とか、そんなことを……やっぱり思っちゃう。もちろん、そんな『あったかも知れない未来』なんて、千秋ちゃんの言う通り、考えたって仕方ないんだけどね……」


「……ごめん、城谷ちゃん。私……」


「ううん、いいの千秋ちゃん」


「……………………」


「……生きるって、大変だね」


「……………………」


私は眼を閉じて……静かな部屋の中に消え入るような声で、「そうね」と、小さく答えた。















……私は、美結のお出迎えのために、児童相談所へと向かった。


雨が降る中、私を乗せたバスはゆっくりと発進する。


「……………………」


お正月が明けて間もないというのに、最近雨が続いている。いっそのこと雪にでもなってくれた方が、変に濡れずに済むのにと、そんな風なことを思っていた。


……バスから降りて、傘をさし……美結から聞いた児童相談所へと足を運ぶ。入り口の前に児童相談所の看板があり、そこから先は小さな駐車場になっていて、その先に施設が建っている。


施設の自動ドアを通って、受付のお姉さんに「すみません、平田 恵実というものですが」と自分の素性を明かした後、美結のことについて尋ねてみた。


「ここに、渡辺 美結という子と、渡辺 明という方はいらっしゃいませんか?」


「ええ、おりますけど……本日出ていかれますよ」


「はい、私はその人たちの友人で、お迎えに来たんです。良かったら二人に、私が来たことを伝えて貰えませんか?」


「そうでしたか、分かりました。それではあと5分ほどお待ちください」


そう言われたので、私は一旦外に出た。車を10台ほど停められる駐車場に、車は3台ほどまばらにしか停まっていない。私はその車のない空いたスペースにただずんで、駐車場にある水溜まりへ雨が落ちて、水面を揺らす様をぼんやりと眺めていた。


「どうしよっかな……雨も降ってるし、中に入らせてもらおうかな。でも後5分だし……ここで待ってる方がいいかな」


なんて独り言をぼそぼそ呟いていた時、施設へと向かってくる二人組の姿が確認できた。一人は金髪の……いかにもチャラそうな人で、その隣には黒髪お下げの女の子。


「へー!これがジドーソーダンジョか!こんなとこに兄貴は1ヶ月近くいたのかよ!」


「そうだね、過ごす分には良いんだろうけど……ずっと家族がどうなるか分からないまま、不安を抱えていたはずだよね」


「今日はパーっと飯でも食いに行こうぜ!兄貴らもフラスト“ロ”ーション貯まってるだろーしよ!」


「フラスト“レ”ーションだよ、公平くん」


なんだか、本当に真逆と言っていいほど雰囲気の違う二人なのに、妙に仲良さげだったことに驚いた。


彼らは入り口を通過し、施設の方へと歩いていく。その様子を、私はずっと眼で追っていた。


「そー言えば、兄貴の妹ちゃんに会うのはこれで二回目かー?」


「そうなんだ。ボクは二人とも初対面だから、少し緊張してるよ」


「なーに平気さ!兄貴はやっぱスゲー良い一人だし、妹ちゃんもゼッテー悪い感じの子じゃなかったし、大丈夫だべ!」


兄貴?妹ちゃん?もしかして、明さんと美結のことを話してる?


「あの……すみません」


私は思わず、その二人に声をかけた。


「もしかして……渡辺兄妹のお知り合いの方ですか?」


「おっ!?そーだぜ!今日ここから出てくるって聞いたんで、出迎えに上がってんだよ!」


「あなたもボクら……じゃなくて、私たちと同じかな?」


「はい……。私は二人の友人です」


「マジかー!なんだよ奇遇じゃん!なら一緒に兄貴ら迎えにいこーぜ!」


「さっき受付に行ったら、『5分ほど待ってくれ』と言われました。それからまた数分経ったんで、もうそろそろ来ると思います」


「おう、そうか!じゃあここで待とうぜー!」


私たちは駐車場で、三人並んで二人を待った。その間に、お互いの名前と……渡辺兄妹とどういう関係なのかを語り合った。


「へー!じゃあメグっちは妹ちゃんのダチなんか!」


「ええ、まあ」


いきなりメグっちと呼んでくるこの藤田さん……。でも、わりとこういうタイプの人って苦手だけど、藤田さんはそこまで苦手じゃないかも。わりと気さくな感じだからかな?


「俺はバイト先の後輩でよ!兄貴には世話になったんだ!」


「あの……兄貴、というのは明さんのことですよね?なぜ、兄貴と呼ばれているんですか?」


「そりゃーよ!人生の兄貴だからよ!」


そう言ってサムズアップする藤田さんを、私と葵さんは苦笑して見ていた。


「でも……確かに、藤田さんの言われることは、分かるかも知れません。明さんはどことなく……お兄さんって感じの雰囲気がありますよね」


「へえ……公平くんが兄貴さん兄貴さんと慕ってるのはまだ分かるけど、メグさんもそう思ってるとなると、やっぱり兄貴分な感じの人なのかな」


葵さんは、とても落ち着いた物腰をされてる人だった。この人は私とどこか雰囲気が似てて、話しやすい。


「はい、時々……あの人が本当のお兄さんだったらいいなって、そんなこと……思ってたりします」


「おー?なんかメグっち顔赤くね~?」


「え!?い、いやそんなことありません!」


藤田さんはよくも悪くも、思ったことがすぐ口に出るタイプなんだろうな……。気を付けよう。


「それにしてもよ~、兄貴らの家、マジ何がどうなってんだって話だよなー!」


「そうだね、あの義理のお母さんと接していなきゃいけない境遇だったんだと思うと……きっと、いろいろ大変な想いをしていたんだろうね」


「ええ……そうだと思います。美結からも時々相談を受けたりしたことがあったので、多少は私も事情を知っていますが……」


「でもよ!ここから出られるってことは、あらかたややこしいのが片付いた時だって兄貴から聞いてたぜ!だからきっと!もう大丈夫なはずだ!」


「うん、きっとそうだね」


藤田さんと葵さんが、微笑みあっている。この二人って、どういう関係なんだろう……?


「……あの、つかぬことをお伺いするんですが、お二人ってどういう関係なんですか?それこそ、明さんと同じバイト先の友だち?」


「ああ、葵はオレの彼女!」


「え!?」


「実は俺と葵を繋げてくれたのが、兄貴だったりするんだぜ!だから俺は、兄貴にデッケー借りがあんだよな!」


……そっか、明さん。あなたって本当に……いろんな人のお兄さんなんですね……。


凄いなと思うのと同時に……ちょっとだけ、やきもちしてます。


「あっ。公平くん、メグさん。二人が出てきたよ」


葵さんがそう言って、施設の方を指差した。美結と明さんが傘を片手に、空いてる方の手を私たちに振ってくれた。


「兄貴ーーー!」


「美結!」


私たちが駆け寄ると、二人は少し気恥ずかしそうにはにかんだ。


「ごめんよ藤田くん、遅くなったね」


「何言ってんすか兄貴ー!オレいくらでも待ちますって!」


「メグ、久しぶり。来てくれてありがとうね」


「うん!本当に……!会えて良かった!」


藤田さんが葵さんを手招きして、美結と明さんの前に呼んだ。


「兄貴!ほら!オレの彼女の葵っす!」


「ああ、君が葵ちゃんか」


「公平くんが、いつもお世話になっております」


「いやいや、こちらこそ」


「なあ兄貴!せっかくなんで、みんなで飯食いに行きましょーよ!」


「そうだね、せっかくだもんな。どうかなみんな?」


「行こうぜ行こうぜー!兄貴たちも晴れて自由の身だからよー!シャバのうめー飯食いまくってくださいよー!」


「なーんか藤田くん、ノリがずっと『刑務所返りのヤクザを出迎える子分』なんだよなー」


なんてやり取りをして、みんなで笑っていた時。駐車場に、一台のパトカーが止まった。その運転席と後部座席から傘をさして出てきたのは……凛とした風貌をした女性の警察官と、よれよれのスーツを来た……眼に隈のある、髪が物凄く長い女の人だった。


「城谷さん、柊さん」


明さんがそう言うと、彼女たちは手を振った。


「そうか、今日から明くんたちは、おうちに帰るんだね」


「ええ、お陰様で。なにか、俺たちに用事とかありました?」


「いや、たまたま通りかかってね。明氏たちが出入り前でたむろしてるから、ちょっと寄っただけだ」


柊さんと呼ばれた女の人は、パトカーの方へと眼を切った。よく見てみると、助手席に誰かが乗っている。


「今から警察署に言って、隆一のヒアリング……その大詰めに入る」


「父さんの……」


明さんがそのパトカーの方へ眼を向けると、その場にいた全員が、同じ方向を向いた。


「なんすか兄貴?あそこにいんのが、兄貴の父ちゃんすか?」


「……ああ、そうみたいだ」


明さんは城谷さんと呼ばれた警察官へ、「少しだけ、父さんと話してもいいですか?」と尋ねた。


「話?」


「……たぶん、これからヒアリングだの取調べだので、父さんと話せる機会、しばらくなくなりますよね。だから……今少し、話せるなら……」


「……分かった。じゃあ、お父さんに尋ねてみようか?」


「お願いします」


そう言われた城谷さんは、パトカーへと戻り、助手席の窓をノックした。そして、窓越しに会話を少しすると……助手席のドアが空いた。


そして中から、スーツ姿の中年の男性が出てきた。雨もそこそこ降っているのに、傘もささず、ただ黙って明さんを見ていた。













「……美結。俺の傘、持っててくれないか?」


お兄ちゃんが私にそう告げる。でも、まだ結構雨が降ってるけど……いいのかな?


「雨、大丈夫……?」


「たぶん、“邪魔”になる」


「邪魔に?」


お兄ちゃんは傘を折り畳み、私に渡した。そして、みんなが見守る中……雨の降る空の下をお兄ちゃんは隆一パパの元へ歩いていった。


私たちに向けるお兄ちゃん背中が、雨に濡れてじんわりと染みていく。


「お兄ちゃん……」


「明さん……」


「なんだなんだ?兄貴、一体どうしちまったんだ?」


「公平くん、ここは静かに見守ってよう?兄貴さん、お父さんと何か話がしたいみたい」



ザーーーーー……



……雨音がこんなにもしているのに、なぜ今……空気が静かなのだろう。


お兄ちゃんと隆一パパを比べると、ややパパの方が高いけども、ほとんど変わらない僅差の背丈で、どちらとも一言も話さず、少しも動くことなく、ただその場に立っていた。


「…………父さん」


二人が向かい合ってから一分ほどした後、お兄ちゃんの方から声をかけた。


奇妙な緊張感に、私はごくりと息を飲んだ。


「あんた、死にたいんだって?」


「……………………」


「何もかもを諦めて、この世から去りたいって……そう言ったって聴いたけど」


「…………ああ、そうだ」


その瞬間、本当に私は……驚きのあまり口に手を当てた。『あっ!』と叫びそうになる声を押さえるために。


そう……お兄ちゃんは突然、隆一パパを殴ったのだった。お兄ちゃんの右拳が、パパの頬を捉えて右から左へと抜けた。がつんっ!という音が雨音に混じって聞こえるくらい、その力は強かった。


「明くん!」


城谷さんが止めに入ろうとするけど、隣にいた柊さんが手で制した。


「城谷ちゃん、大丈夫」


「でも……!」


「明氏を信じよう」


「……………………」


みんなが黙って見守る中、お兄ちゃんは右手でパパの胸ぐらを掴んだ。パパは口から血を垂らしていて……それが雨に濡れて落ちていく。それでも隆一パパは、ずっと黙ってうつむいている。


「……勝手すぎんだろ、父さん」


「……………………」


「死んで責任が取れると思ってるつもりか?俺と美結に詫び入れられると思ってるつもりか?舐めんじゃねえぞ」


「……………………」


「……父さん。俺が今まで、あんたに言いたかったことを……ここで全部……言ってやる」


パパは少しちらりとお兄ちゃんの方へ視線をやったけど……その後、また眼を伏せてうつむいてしまった。


「傷つけよ、父さん」


「……………………」


「母さんの死を、ちゃんと傷つけよ。なに済ました顔で終わらせてんだよ。あんたまだ、母さんを……渡辺 博美を愛してるんだろ?」


「……もう母さんは死んだ。だから…………」


「死んだから愛せないって?なに言ってんだよ。死んだかどうかなんて、些細なことだろうが」


「……………………」


「死んだ人間を愛しちゃいけないなんて、誰が決めた?決めたやつがいるならここに連れてこい。俺がぶん殴ってやる」


「…………………」


お兄ちゃんは胸ぐらを掴んでいる右手を、ぐんっと手前に引っ張った。隆一パパの濡れた髪が揺れて、雨水が飛んだ。


「このバカ野郎が!父さん!あんた一人だけが寂しがってるとでも思ってんのかよ!」


「……………………」


「俺だってさ!!寂しいよ!!母さんが死んで寂しいよ!!母さんを思い出す度に胸が苦しいよ!!雨が降る度に、母さんが死んだ日を思い出して、泣きたくなるよ……!!」


お兄ちゃんの声が、震えていた。こちらに背中を向けていて……顔は見えないけれど、きっとお兄ちゃんは今……。


「……父さん!俺は……!俺は母さんが死んでからしばらくは……学校から帰ったら、必ず台所を見に行ったよ!もしかしたら、そこに母さんがいるんじゃないか……!母さんが死んだのは夢で、台所に行ったらいつものように、そこにいてくれて……俺の好きなハヤシライスを作ってくれてるんじゃないかって!そう思って……!!」


「……………………」


「そして……!そしてテーブルに!母さんの好きなたんぽぽを飾ってるんじゃないかって!『綺麗ね』って笑う母さんがいるんじゃないかって!そう思って!毎日毎日!学校からの帰り道!俺はそんなありもしない空想をしていた!」


「……………………」


「でも!でも母さんはいない!もういないんだ!!どこにもいない!台所にも、テーブルのそばにも!たんぽぽの近くにも!!いろいろ不思議な話をしてくれた母さんは!!もうどこにもいない!!」


隆一パパがすっと眼を閉じた。私は……お兄ちゃんの悲痛な叫びに、声も出ないほど……胸を締め付けられた。まだ子どもだったお兄ちゃんが、台所で博美ママを探す姿を想像しちゃって……今すぐにでも、お兄ちゃんを抱き締めに行きたくなる。


「はあっ!はあっ!ぐう……ちくしょう……!!」


「……………………そうだ、明。もう博美は……どこにもいない。だから生きていることに、なんの価値がある?」


「…………!」


「こんな寂しさを抱えて……なんになる?博美のいない苦しみを抱えて……生きている意味なんか……」


「父さん!!」


お兄ちゃんは、両手で隆一パパの胸ぐらを掴んだ。そして、雨音をすべてかき消すほどの大きな声で、叫んだ。


「意味があるとかないとか!そんなのはどうでもいいんだよ!」


「……………………」


「確かに寂しいのは辛いよ!!!苦しくて仕方ないよ!!でも!!俺はそれで……それで良いと思えるようになったんだ!!」


「……………………」


「だって、寂しいって気持ちが強いほど!!悲しいって気持ちが大きいほど!!それは……母さんを愛していた確固たる!!絶対に揺らがない証だろ!!」


「…………!」


隆一パパが眼を見開いて、お兄ちゃんを見た。お兄ちゃんはさらに詰めよって、次々と思いの丈を爆発させた。


「愛していたからこそ寂しい!!大事だったからこそ悲しい!!そうさ!!寂しいと思える、悲しいと思えるのは素晴らしいことなんだと、俺はそう思う!!」


「…………明」


「だから俺は!!この寂しさに誇りを持ってる!!この寂しさを胸に!明日も生きようと思える!それは、俺の中に確かにある、母さんへの愛の証だからだ!!」


……お兄ちゃんの熱い気持ちが、この辺り全体の空気を包むように、その叫びは響いていた。雨の冷たい空気なんか少しも寄せ付けないくらいに……お兄ちゃんの想いは、熱かった。


「明くん……」


ふと気がつくと、城谷さんが泣いていた。口に手を当てて、眼を真っ赤にはらして震えている。そんな彼女を見て、そばにいた柊さんが肩をぎゅっと抱いた。


きっと城谷さんも……妹さんのことを想って、寂しい気持ちになったこと、何回もあるんだと思う。だけど今……その寂しさを肯定してくれるような……愛おしく想わせてくれるようなお兄ちゃんの言葉が、城谷さんには凄く刺さったんだと思う。


「明さん……」


「兄貴……」


「兄貴さん……」


みながみな、お兄ちゃんの背中を見つめている。


メグも涙目になって……その姿を見守っている。


藤田さんと葵さんは、きゅっと口をつぐんで……お兄ちゃんの言葉をじっと聴いている。


お兄ちゃん……あなたはずっと……自分と気持ちと戦ってきたんだよね。自分の寂しさと戦って……そして、戦うのを止めて、受け入れることで……誇りに思えるようになった。


そこに至るまで、果たしてどんな苦しみがあったのかな。どんな悲しい夜があったのかな。想像するだけでも、私は……泣きそうになるくらい辛いの。


だけど……それでもあなたは折れなかった。明日を生きようとしていた。本当に本当に、立派だと思う。腐らずに真っ直ぐに生きようとする……そんな、私の大好きなお兄ちゃん……。


「父さん!!あんたもちゃんと寂しい気持ちに向き合えよ!!つまんない昼ドラに巻き込まれてんじゃねえよ!!」


ずっと能面のようだった隆一パパの顔が、次第に歪んでいく。


「あんたは!俺も美結も無視した!!なにより一番!美喜子さんを無視した!!美喜子さん本人を愛してないくせに、渡辺 博美の幻影を追って結婚した!!俺は美喜子さんが嫌いだけど、そんな無礼な結婚をされたことに関してだけは同情する!!」


「明…………」


「寂しさを抱えて生きるのは、確かに辛い!!傷ついたまま生きるのは、苦しくて仕方ない!!だけど!愛するってことは!傷つくことを覚悟するってことだろ!!」


「……………………」


「あんたらしい本心が何か思い出せ!!あんたの寂しさときちんと向き合え!!」




愛することにビビってんじゃねえええええええええ!!!




…………お兄ちゃんは、肩で息を切らすくらいに、疲れきっていた。思いの丈を存分に……何年も積もり積もった想いを、今ここで出した。


気がつくと、雨が止んでいた。お兄ちゃんと隆一パパの全身が、雲の隙間から照らされる光に当たって、少しだけ輝いていた。


「……明、お前…………いつの間に……」


「……………………」


「いつの間に……そんなに、背が伸びた?」


「……!」


「母さんが死んだ時は……まだ俺の胸くらいしか背丈がなかったのに……いつの間に、お前……」


「……バカ野郎。気づくのが遅えよ…………」


「……………………」


隆一パパは眉間にしわを寄せて……ぽつりぽつりと話し始めた。


「お前は……目元が、昔から母さんに似ててな」


「……え?」


「博美もお前みたいな……優しい眼をしていた。でも、なんだろうな……今、こうして見ると……もうお前は、母さんに似ている子どもじゃなくて……渡辺 明という……一人の男なんだな」


「……………………」


「俺は…………お前に、ずっと負い目を感じてて……。博美の死に際に、お前を会わせられなかったことが、どうしても……悔やまれて……」


「……………………」


「俺の時間は……博美が死んだあの雨の夜から……ずっと止まっていた。もう動くことはないと……そう俺は……」


「父さん!もう雨は上がった!俺のことを気にする必要なんかない!俺は……俺はもう、一人の人間だ!後は父さん……あんたが動く番だ!」


「…………俺は…………」


「自分の気持ちと向き合って!何が本当にしたかったことか思い出せ!偽物の母さんを愛することが本当にやりたかったのか!?俺や美結を無視してまで、自分の本音を隠すことが、あんたの本当にしたかったことなのか!?」


「……………………」


「なあ!父さん!」


「……明、俺は……やっぱり無理だ。博美がいないという現実を、見たくない……」


「……!父さん!」


お兄ちゃんが隆一パパの両肩を掴んで、必死に説き伏せているけど、パパはずっと……下を見て黙っている。


……サア………………


そんな時、不思議な気持ちのよい風が……ふっと私たちの間を吹き抜けていった。


この風は……空から吹いているのかな……?



「……あ」



私は、空を見上げた瞬間……大きく眼を見開いた。手の力が緩んで、持っていた傘を落とした。



空には、虹がかかっていた。



厚い雲の隙間を割って光が差し込む美しい空に……虹がすっと橋のようにかかっている。


「博美ママ……!!」




虹には人に伝えたいメッセージがあるんだよ




「博美ママ……!!博美ママ!!」





『あなたらしさを思い出して』って、そう語ってるの





私は両手を口許に持っていき、ぶるぶると全身を震わせて泣いた。


「……母さん」


「博美……」


お兄ちゃんも隆一パパも、その虹を見つけていた。


「……………………」


「……虹だよ、父さん」


「……ああ」


「…………数年振りに、見たかもしれない」


「……………………」


「……父さん。母さんがさ、虹にはメッセージが……」


「ああ、知ってるよ。忘れるわけないさ……」


「……………………」


「……………………」


「……俺、この虹をさ……『母さんが天国から送ってくれたメッセージ』とか……そんなオカルトなこと言わないけど……でもさ……」


「……分かっているよ、明」


「父さん……?」


「……博美。君は、そこにいたんだな…………」


「……!」


「君が生きていた時に残したメッセージは……今も俺の胸に生きている」


「……………………」


「俺が君を忘れない限り…………君は、俺のそばに…………」


「…………父さん」


……親子はいつまでも、虹を見上げていた。


まるでその空の……さらに上にいる誰かを……見つめているかのように。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る