8.嫌な予感

「ふああ…………」


俺は、寝ぼけ眼を手で擦りながら、上半身を起こした。


「……………………」


壁掛けの時計を見て、時間を確認する。今は朝の6時35分……。まだ登校の準備をするには全然余裕あるな。


「……ん?あれ?俺の部屋に壁掛けの時計なんかあったっけ?」


よく見ると、布団もピンク色だ。あれえ……いつの間に俺のベッドはピンクになったんだっけ……?


「……んん……お兄ちゃん……」


「!?」


俺は、心臓が跳び跳ねて、胸を突き破って出てくるかと思うほど驚いた。なんと隣で、美結が寝ていたのである。むにゃむにゃと寝言を話してる美結は、見かけよりも幼く見えた。


いや、もちろんお互いパジャマを着てる。……あれ?いつの間にこっちで寝てたんだ?


「あ、そうか……昨日確か……」


美結が『だきしめて』ほしいって言ってきて、その後……一緒に寝てほしいって言われたんだっけ。


「……………………」


……俺は、美結の身に起きた粗方の境遇を聞かされて、本当にやりきれなくなった。境遇を代わってやれるなら、いくらでも代わりたいのだが……そうもいかないのが現実。


寝ている美結の頭を、俺は静かに撫でた。坊主頭のチクチクする毛が、手の平を小さく突っついた。


個人的には、彼女が坊主の内に警察へ相談しに行きたい。不幸中の幸い……というと語弊があるかも知れないが、坊主はいじめをされたという分かりやすい物差し……物的証拠として警察に見せやすいからだ。でも、もちろん美結の意思を無視することはできない。美結が第三者に打ち明ける決心ができるまで、俺はじっと待つことにしよう。


「……ん」


おっと、しまった。頭を撫でたのに気づいて、美結を起こしてしまったみたいだ。彼女は小さく欠伸をすると、「どうかしたの?」と俺に訊いてきた。


「いや、ごめんな。ちょっと……美結の愛らしい寝顔を拝見してただけさ」


「え……?やだ、恥ずかしい」


美結が頬を赤らめて、布団で顔を隠した。


なんてこった……俺の妹はこんなに可愛かったのか。


「ははは、可愛いなあ美結は」


「や、止めてよ……可愛くなんかないよ。私、坊主だもん……」


「坊主か坊主じゃないかは関係ないよ。美結自身の仕草、心が可愛いって話!」


俺は、なるべく明るく答えるよう努めた。ここはかなりデリケートな部分だと思う。変に『坊主でも可愛いよ』とか、容姿の良し悪しに関して触れるのは良くないと思ったんだ。


「も、もう……。そういうとこずるいよね……明さん」


「ん?」


まさか本名で呼ばれるとは思わなかったので、俺は思わず聞き返した。


「明……で、いいのか?」


「いやだった……?」


美結が、眼から上だけを布団から出し、愛らしい眼で俺の回答を伺っている。いや、マジで可愛いなウチの妹は……。わざとか?わざとなのか?


「全然、嫌ってことはないけど……寝言で俺を『お兄ちゃん』って言ってたから、てっきりそう呼ばれるものとばかり……」


「!!」


美結はまた布団に被り、しかも身体を俺から真逆の方へと向いた。俺からは美結の背中だけが見える状態で、彼女は呟いた。


「…………お兄ちゃんって、呼んでもいい?」


「……ああ、たくさん呼んでくれ」


「……………………」


美結は、こっちを見ることはなかった。俺は丸まった彼女の背中を撫でて、「そう呼んでくれて、ありがとうな」と返した。


彼女は……本当に小さな声で、「ありがとうは、私のほうだよ……」と呟いた。




「………………」


通学中のバスの中で、車内をぼー……と眺めながら、俺は美結のことを考えていた。


これから俺は、どうしていくべきなんだろう……?美結の決心がつき次第、警察に連絡して学校を調査してもらい、いじめっ子たちや先生にしかるべき処分を取ってもらうってとこまでは、何とかしてやりとげるつもりだけど……問題はその後……。全て片付いた後に、美結とどう接していくかだよな。


学校に行ける自信が出るように、頑張って励ますようにするか……学校へ行かなくていいよと、寄り添う形を取るか……。


「……バカ、何考えてんだ」


俺は自分の頬を、小さくピシャリと手で叩いた。


学校へ行きたいと思うかどうかは、美結が決めることだ。俺がどっちかに先導し、促すようなことをしちゃいけない。俺がそういうことをすると、美結にいらぬ期待を背負わせてしまう。


だから、俺が本当にやるべきことは……美結に目一杯、大好きだと伝えることだ。たぶん、それ以上もそれ以下もいらないと思う。


「……帰りに、アイスでも買って二人で食うかな」


俺は、なんとなくこれからの自分のやるべきことを固めながら、「そう言えば美結は何のアイスが好きなんだろう?」と考えていた、そんな時だった。


一人の女子学生が、バスから降車するために席を立った。セーラー服を着ていて、高校生にしてはわりかし幼い顔立ちだったので、おそらく美結と同い年くらいの中学生だろう。


透明感のある白いショートヘヤで、眉や鼻筋が人よりも細くて、なんとなく詩集とか読んでそうな、そういう繊細そうな少女だった。


彼女がバスから降りる際、鞄から何かが落ちた。それは、彼女がつけていた猫のキーホルダーだった。


「あ、今落ちましたよー」


俺がそう言って声をかけたが、彼女には聞こえておらず、そのままバスを降りてしまった。俺はどうするか迷ったが、さすがに目の前で落ちたのに何もしないのもどうかと思い、そのキーホルダーを取って自分もバスを降りた。


「すみませーん!これ、落としましたよー」


俺はスタスタと歩いていく少女の背に声をかけた。彼女はようやく気づいてくれたようで、こちらに振り返り、「私……ですか?」と尋ねた。


「ええ、ほらこれ。キーホルダー」


「あ!わざわざすみません……ありがとうございます」


「いえいえ!良かった良かった」


彼女に無事渡せて胸を撫で下ろしていたその時、俺が乗っていたバスが横を通りすぎていった。


「あ……バス、戻れなかったかあ」


間に合えば、キーホルダーを渡してからまたバスに乗り込もうと思ったのだが、さすがにダメだったか。運転手さんに一言いっておけば良かったなあ。


「もしかして、私のために……降りる駅じゃないとこで、バスを降りたんですか?」


彼女が申し訳なさそうにそう訊いてきたので、俺は笑って返した。


「大丈夫です大丈夫です!ここからちょっと走れば学校に着けるくらいには来れたんで!」


「ちょっと走ればって……。もし、遅刻とかしちゃったら……」


「まー、そん時はこう、あれです。女の子助けてて遅れましたってカッコつけておきます」


俺はなるべく、冗談っぽい感じで答えた。彼女が変に罪悪感を抱かないようにするためだ。彼女はクスッと小さく笑ってくれた。


俺は彼女にぺこっと会釈をして、走り出した。今日の俺、中々カッコいいじゃん?なんて自画自賛していた矢先、石にけつまづいて転んだ。後ろをちらりと見ると、彼女が俺を心配そうに見てた。完全に転ぶ一部始終を見られた。


「さ、冴えねえなあ~……俺って」


いろいろと自分にガッカリしながら、俺は学校へと走っていった。









……私にキーホルダーを届けてくれた人は、素敵な笑顔で走っていった。


真っ直ぐな道を走っていく彼の背中を、私はぼんやりと見つめていた。その途中、何かにつまづいて転んでいたので、少し心配したけど、「冴えないな~俺って」と自虐する独り言を聞いて、なんだかクスッとまた笑ってしまった。


私より年上っぽい見た目だったけど、年下の私にも丁寧に喋ってくれて、気の良い感じの人。でも、どこか抜けてて可愛らしい。私の好みの性格の人だったので、ちょっと朝から嬉しくなった。ああいうお兄さんっぽい彼氏がほしいなあ。




「……ちょっとー!遅いよー!」


「ご、ごめん……」


私は、走って乱れた呼吸を、なんとか元に戻していた。


私がいるのは、南高校。今日はオープンキャンパスの日で、中学三年生の私は、友だち三人と一緒にこのオープンキャンパスに参加しようと約束していたのだ。


高校の正門前で待ち合わせだったんだけど、みんなにはずいぶんと待たせちゃったみたい。


「ちょっと……降りるバスの駅、間違えちゃって……」


「ほらー!だから一緒にママの車で送ってもらおうよって言ったのにー!」


「うん……帰りは、お願いします」


私は友だち三人と、他にオープンキャンパスへ参加を希望していた他校の人たち数十人と共に、学校の先生に案内されていろいろと見学して廻った。


内装はそこまで中学校と変わらないはずなのに、周りの人がみんな大人びて見えて、私の目にはカッコよく映った。


長い廊下を、ぞろぞろと中学生が歩いていく。その様子を南高校の先輩たちがじろじろと見ている。それはちょっと恥ずかしかった。


「……あれ?」


すれ違い様に、とある人を見つけた。朝方、私のキーホルダーを持ってきてくれた、あの人だった。


「あの!」と、私は立ち止まって思わず声をかけた。その人は私の顔を見ると、「あれ!?同じ学校だったんですか!?」とすごく驚いていた。


「あ、いえ……今日、オープンキャンパスで、こちらに来てるんです。えと、朝方はありがとうございました」


「いえいえ、全然全然。オープンキャンパスか!なるほど。じゃあ、この学校を受験する予定なんですか?」


「はい、美術部が盛んなので、第一志望にしてます」


「なら、ここ合格したら、俺は先輩になるんですね」


「はい。私、あなたの後輩になりたいです」


「ははは!なんかその言い方、ちょっと恥ずかしいなあ!」


彼は頬を赤らめて、後頭部を掻きながら照れ臭そうにはにかむと、優しい声色で一言告げた。


「それじゃあ、また会いましょう」


そうして、少しだけ手を振って、彼は去っていった。また会いましょう……て、なんだか素敵。私がこの学校に合格するってことを、信じてくれてるみたいで……。


私はその言葉が嬉しくって、去っていく先輩の背中を、ずっと見つめていた。


「ちょっとー!メグー!」


数歩先にいる友だちに呼ばれたので、私は駆け足で友だちの元に向かった。


友だちは私に向かって「さっきの人誰?知り合い?」と訊いてきた。私は最初、キーホルダーの件を話そうかと思ったけど……「うん、そんなとこ」と言って濁した。私だけの思い出として、胸に留めたかったから。


「……あ、名前訊きそびれちゃった。次会ったら、ちゃんと訊かなきゃ。それに、私の名前も覚えてほしいな」


私は頭の中で、自己紹介の練習をした。


えーと、私の名前は平田 恵実です。先輩のお名前、教えてください。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る