5.小さなやり取りと、大きな愛
「やっべ!!寝坊した!!」
俺は、昨夜遅くまで起きていたわけでも、アラームをかけ忘れたわけでもない。
けたたましく鳴るアラームを消した上で二度寝し、最悪の時間まで起きなかっただけなのだ。悲しいほどに間抜けな自分をぶん殴りたくなった。
急いで着替えを行い、鞄に教科書をぶっ込んで部屋を出る。
「ん?」
外側のドアノブに、ビニール袋がかかっていた。ひょっとして、昨日俺が美結の薬を買いに行った袋と同じものだろうか?と思いながら、その袋の中を確認した。
中には、昨日ドラッグストアで買った薬のレシートと、1000円札が1枚に、100円玉が4枚、そして50円玉が2枚あった。全部で1500円……俺が買った薬と同額のお金が、その袋に入れられてた。
「……美結め、マック買ってこいってこき使うわりにねえ……」
意外と律儀なやつ……なんてことを思いながら、俺は金を財布に入れて、一階へと降りた。
「あら、おはよう明くん」
食卓には、美喜子さんがいた。食パンにピスタチオジャムを塗って、オレンジジュースをコップに注いでいる。
そんな、ちょっと洋風で小洒落た朝食の風景を、美喜子さんはスマホの写真におさめていた。
「………………」
後ろを通った時、美喜子さんのスマホの画面が見えた。彼女はSNSにさっきの写真を投稿し、『みんなのために今日も朝ごはん作った♪忙しくて、いつもより手抜きになっちゃったかも汗』なんて文面で投稿していた。
だが、準備しているのは自分の分だけである。俺は彼女に気づかれないようにため息をついて、挨拶を返した。
「……おはようございます、美喜子さん」
「もう、明くんってば。ママで良いのよ?」
「すみません、まだ慣れないもので」
「いつになったら慣れてくれる?」
「……早めに慣れるよう、努力します」
そう言いながらも、たぶん……この先一生慣れることはないんだろうなと、心の片隅でそう思った。
美喜子さんはスマホを眺めながら、「そうそう、明くん」と言った。
「私、またしばらく旅行に行ってくるから、よろしくね」
「……ええ」
「あ、あと隆一さんもしばらく単身赴任なんですって」
隆一……というのは、俺の親父である。いつも家にいない親たちが、さらにいつもより帰ってこないということを、美喜子さんは話している。
もう俺は、今さら二人に何も期待していない。美喜子さんは、自分の美貌とSNSのいいね数しか気にしてないし、親父は親父で……仕事を言い訳に、家庭から逃げてるだけの人だ。
(母さんが死んだ時から、何も変わらない……)
俺はもう、朝食を食べることは諦めた。腹はもちろん減っているし、健康的にも食べた方がいいのは分かってる。だが、美喜子さんのいる食卓で、一緒にご飯を食べる気になれなかった。
「えー、元素記号は今度のテストに出ますのでー、あー、みんな勉強しておくように」
理科の授業中。
完全に見た目おじいちゃんの飯田先生が、しわがれた声でぼそぼそと授業を進めている。
クラスのみんなは、真面目にノートを取ったりしているが、俺は……非常に間抜けなことに、腹の虫が鳴らないようにすることで頭がいっぱいだった。
(くう~!!腹減ったーー!キツイ!キツイぞー!)
朝方やっぱり食っておけば良かったと、俺は心底後悔した。空きっ腹を誤魔化すために、腹をさすってみたり、深呼吸したり、生唾を飲んでみたりといろいろ試したが……成長期の青少年が持つ食欲は、そんなチャチな誤魔化しでは倒せなかった。
そして、いよいよ減り具合もピークになり、ぐ~と鳴る腹の音が鳴り始めた。寝坊といい、朝飯食わずといい、なーんか今日は俺、間抜けな日だなあ。
(くそお……まだ11時かよお……!)
空腹の絶望感に苛まれながらも、俺は頭の片隅で別のことを……美結のことを考えていた。
「………………」
左の頬が赤く腫れていたのは、一体なんだったんだろう?小さい頃に友だちと喧嘩してお互い殴り合った時に、あんな風に腫れたのを覚えている。
(もしかして、美結が喧嘩を……?まあ、あれだけ生意気な性格だったら、喧嘩の一つや二つもするだろうよ)
ただ、なんとなく思うのは、それが友だちとの対等な喧嘩だったら良いなということだ。
対等……つまり、お互いに本音を言いあって、ついつい喧嘩に発展し、あんな感じになったけど……また友だちとして戻れる関係性、という状態。それなら俺も心配はしない。
だがもし……そうでないとしたら。
(今パッと考えられる可能性は、5つある)
1.単なる事故
何かしら……例えば階段から落ちたとか、そういう事故によって起きたもの。
2.友だちと喧嘩
さっきも言った通り、仲直りできる相手との喧嘩ならベスト。
3.先生の体罰
厳しい先生からのビンタなど。でも、たぶん一番可能性は低い。今の時代、体罰に対する処罰は厳しい。ちょっと小突いただけでもニュースになる。先生もあれだけ頬を腫らせるほど殴ったら即クビだ。そんな先生がいる可能性はそこまでないはず。
4.彼氏からのDV
彼氏がいるのかどうかすら知らないが……もしいたとして、彼氏からそういうことをされている場合も、ありえなくはない。まあ、美結だったら即やり返しそうだが。
5.いじめ
一番考えたくないが……当然、これもありえる。生意気な性格を快く思わない奴らが美結を殴る。可能性としてはあり得る話だ。
まあ、一番はただの事故であってほしいな。せめて喧嘩……仲直りできる相手との喧嘩が良い。
でも、こうして思考を巡らせても、結局本人から真実を確認しないとなんの意味もない。やはり、ここは本人から事情を聴いてみるのが一番かな……?
(……いやいや、必要か?それ)
俺は腕を組んで、眼を閉じた。
そう、どうせ訊いたって無駄だろう。ほっといてよと言われて終わる。それがいつものノリだし、そういう未来しか見えない。
実際、その頬どうした?と聴いても、無視されたじゃないか。薬もあげたし、俺がこれ以上気にかけてやる必要なんて……
「え~、この……電気分解もテストに出るから、勉強しておくように~」
飯田先生の言葉に、クラスメイトの一人が気だるそうに文句を言った。
「えー?先生、また今回もテスト範囲広くないですかー?」
「そうだな……広く取るぞ」
「やだ~!面倒臭いですって~。先生いつもテスト範囲広く言って、実際は全然狭かったりすること多いじゃないですか~。無駄に勉強するのヤなんですよ~」
「無駄なことなんてあるもんか。やること自体に価値がある……」
先生のセリフに、クラスメイトたちは大笑いした。「ちょ!カッコよすぎ!」「ひゅーひゅー!先生イケメーン!」と、先生の言葉を揶揄する野次が飛んだ。
「…………………」
ただ一人、俺だけはその先生のセリフが……頭の中に別の意味を持って残ることになった。
俺は、ふう……と、腹の中に貯まった空気を吐き出した。そして、ノートを少し千切り、その切れ端に【あること】を書き連ねた。
ぐ~~~
「……やっぱ、朝飯食っとくべきだったなあ」
俺は頭を掻きながら、空きっ腹を押さえて呟いた。
……帰宅後、俺は美結の部屋の前に立っていた。バクバクと心臓が鳴る音が、身体を伝って聞こえてくる。
正直言って、俺が今からやろうとしていることは、彼女からしたら迷惑千万でしかないかも知れない。それに、俺も……「兄」とも「明」とも呼んでくれず、いつも「あんた」としか言わない妹のことなんて、気にかけなくても良いかも知れない。だけど……
『無駄なことなんてあるもんか。やること自体に価値がある』
「……そうだ、無視されたっていいさ。どうなろうが、ちゃんと気にかけるべき……だよな」
彼女が辛い想いをしているか、していないか、そんなことは一度置いておいて。まず気にかけること、心配していることを伝えること、それが……今俺が、兄としてできることだと思う。
俺は、例の薬を買ったビニール袋の中に、あの授業中に、ノートの切れ端に書いたメモを入れて、袋をドアノブに下げた。
そのメモには、『薬のお金、ありがとう。頬は大丈夫か?』とだけ書いてある。
返事が来ても、来なくてもいい。そういう風に想いながら、俺は自分の部屋に入った。
……翌朝、目が覚めた後に、俺は部屋を出てみた。すると、美結の部屋側のドアノブにあった袋が、こちらの部屋側のドアノブに移動していた。
袋の中を確認すると、俺が昨日入れたノートの切れ端があった。それを見てみると、自分が書いた『頬は大丈夫か?』の下に、小さな文字で『うん』と追記されていた。
「………………」
やけに嬉しくなった俺は、思わず頬を緩ませながら、一階へと降りた。すると、もう既に学校へ行く準備が完了している美結がいた。
制服に着替え、鞄を持って玄関へと向かう途中だった。彼女と俺は目が合ったので、俺が「おはよう」と言うと、黙って彼女は会釈した。
「お、ホントだ。頬の腫れ、だいぶひいたな」
「………………」
「じゃあ、気をつけてな。行ってらっしゃい」
「……………行ってきます」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、彼女は呟いた。そして、玄関を出て、学校へと向かっていった。
「………………」
俺は洗面台に行き、片手で歯磨きをしながら、メモに書かれた小さな『うん』の字を、じっと見つめていた。
そして、もう一度自分の部屋に帰り、シャーペンでその『うん』の下に、『それは良かった。その頬は、何かにぶつけたのか?』と書いて、あのビニール袋に入れ、美結の部屋のドアノブに下げた。
「お兄ちゃん、これ……今日の分」
そう言って、美結は俺の部屋に入ってきた。手には、小さなノートの切れ端がある。
それを受け取って見ると、『今日はたくさん勉強したよ』と書いてあった。
「お兄ちゃん、またお返事ちょうだい?」
「…………あの~、美結?」
「なに?」
「その~…………このメモのやり取り、いるかな?」
「え~?なんで?お兄ちゃん嫌?」
「いやほら、これ……俺が薬を買った時のさ、ビニール袋に入れてお互いのドアノブにかけるやつ……。あれから始まったメモのやり取りだけどさ、今はフツーにお互い喋れるし……いるのかなあ?って」
「もう、お兄ちゃんは分かってないなあ。私、このやり取り大好きだったんだから」
美結はそう言うと、一旦自分の部屋へと戻り、もう一度こっちに帰ってきた。手には、お菓子の詰め合わせが入っていた四角い空き缶を持っており、その中には、今まで俺とやり取りしたメモがたくさん残っていた。
「ずっと取ってあるの、お兄ちゃんとやり取りしたやつ。ほら、これ一番最初にお兄ちゃんがくれたの」
そう言って、俺に見せてきたメモには、『薬のお金、ありがとう。頬は大丈夫か?』と書いてあった。
「おお……懐かしいな。この時は、まだ美結と上手く話すことさえできなかったからなあ」
「私が悪いの……。私が、お兄ちゃんのこと無視したり、邪険にしたりしてたから……」
「いいって、気にするな。昔のことだ」
俺が美結の頭を撫でると、彼女は照れたようにはにかんだ。そして、そのたくさんのメモの中からある一枚を取り出した。
「ほら、お兄ちゃんこれ……」
「ん?」
俺はそれを受け取って、どんな文字が書いてあるか確認した。そこには、こう書いてあった。
『俺、お前に何かしてやりたい』
「………………」
「お兄ちゃん、これ、続き……」
俺はさらに、美結からメモを受け取った。
『だきしめて』
「………………」
そのメモは、他のメモより少しだけくしゃくしゃになっている。これは、涙に濡れた跡だからだ。
「えへへ……私の、ちょっと恥ずかしいけど、すっごく……大事な思い出」
「………………」
「悲しいし、苦しいし、辛いことたくさんあったけど……でも、私……」
美結が、少し泣きそうになっているのを察して、俺は彼女を抱き締めた。
……このメモのやり取りをしたのは、今から3ヶ月前のこと。美結が…………本当に、独りぼっちになりかけた頃だった。
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