招かれて

希藤俊

第1話 招かれて

 冬の夜空は美しい。漆黒の空に瞬き、煌く蒼い星たち。哀しみ 喜び 怒り 憧れ、見上げる者の様々な想いを照らす。


 職場のビルの屋上。昼休みには職員の憩いの場となるベンチに、今夜は黒い影がひとつ浮かんでいる。


 今日は比較的穏やかな天気であったが、陽が落ちてからの夜はぐっと冷え込む。外気はキンと音がするほど凍てつき、吹く風も雪の香りさえするようだ。


 ベンチの影は、寒気に凍てついたように、もう既に数時間動かない。雲の合間からのぞいた蒼白い月が、黒い影に薄明かりを落とした。


 女性のようである。まだ年若く横顔は白く美しい。寒くないのか、白のブラウスに薄手の黒のカーデガン姿。清楚であるが、女性の美しさを際立たせていた。


 コートさえないまま、ずっと屋上のベンチに影を落としている。


 時計は既に23時を過ぎている。

 黒い夜風に長い黒髪がなびく。

 ずっと動かない。まるで石のように。


 何をしているのか。何を考えているのか。

何を待っているのか。


 毎日23時30分には、警備会社の見回りが回ってくる。時刻きっかりに屋上の出入り口のドアロックがカチンと回された。


 懐中電灯の光の筋が闇を切り分けた。

 強い光が屋上のあちこちを照らす。

 当然ベンチの上にも・・・・・


 強い光の先に女性の後姿が浮かんだ。


 警備員は右手で腰の警棒を軽く握りながら、左手で持つ懐中電灯の先に浮かぶ女性へ近づいていった。


 用心深くゆっくりと。ベンチの5メートル程度手前で歩みを止め、声をかけた。


 「もしもし、もしもし」


 誰もいるはずがない屋上である。施錠もされている。しかも時間も23時30分を回っている。


 動かない。懐中電灯の光の先の人影。右手で警棒を腰から抜き、さらにゆっくり近づいていった。


 「こちらを向きなさい」


 ちょっと震えがちの強い口調で、声をかける。光の先の女性の肩が少しだけ動いた。


 ベンチの3メートル手前で立ち止まり、再び声をかける。


 「何をしているんだ?」


 女性の影はすっと立ち上がり、北風に押されるように屋上の南端へ進んだ。


 「待ちなさいキミ おい」


 まるで誰かに助けを呼ぶような、警備員の声が音もなく闇に溶ける。


 停まらない。雪の上をすべるように。南端に進み、ビルと空の境目で立ち停まった。


 「ちょっと待てキミ、危険だぞ、待て」


 警備員の声は闇に溶け、足はその場に固く貼りついていた。


 そっと振り向いた。やさしく微笑んでいた。まるで警備員を招くように・・・・・


 女性は、ビルと空の境目から、空の領域にそっと足を運んだ。


 冬の弱い太陽が、寒々とした朝を引き連れてくるころ、昨夜の屋上の物語は既に終止符がうたれていた。


 ビルの玄関前に警備員が横たわっていた。左手に握り締めた消し忘れの懐中電灯の灯だけが弱い光を放ったいた。


 耳や鼻そして口から溢れさせていた。

 凍る灰色の道路を飾る紅い命を。


 右手がやさしい形を残していた。

 まるで愛しい人の手を求めるように・・・・


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