4、世界で一番騒がしい夜
速い車でトンネルを駆け抜けたみたいに周囲の光景が一気に流れる。
雨粒に反射する赤いネオン街。紫煙と硝煙。中華テーブルに広がる血。濃い化粧とものすごいスリットのチャイナドレスで脚を組むお袋。お袋に座られている知らない中年男性。
頭の芯がガンっと揺れ、映像が止まった。
「何か……見たくねえもんも見た!」
「勇虎、大丈夫?」
鮫沢が指紋だらけの眼鏡で俺を見上げる。
辺りには変わらず立体駐車場と銃口が広がっている。
頭が妙に冴えていた。マルチバースの義兄が片手を挙げるのがスローモーションで見えた。俺は短く告げる。
「鮫沢、下がってろ」
隙をつけるのは一瞬だ。
俺は鮫沢の足を払った。悪いが、銃の射線から逃してやったから勘弁しろと思う。
鮫沢に巨体がひっくり返り、黒服たちの注意がそっちに向く。
俺はその瞬間に地を蹴った。
俺と義兄を隔てるセダンの車上に駆け上がる。ボンネットにはさっき奴が撃ち落とした監視カメラが乗っていた。
駐車場の警備員がパチモンのトカレフを構える。俺は足首のスナップを効かせてカメラの残骸を蹴り上げた。
ぶん、と唸って飛んだ監視カメラは警備員の顔面に吸い込まれた。鼻血を撒き散らして警備員が倒れる。死んではいないはずだ。
俺はボンネットの上を滑る。まだ事態を飲み込めていない黒服たちが慌ててこちらを向く前に、俺は奴らを蹴り飛ばした。
吹っ飛んだ男ふたりが後ろの奴らにぶつかって列が乱れる。
俺はボンネットから飛び降りる。狙うのは警備員が落とした銃だ。
俺は勢いのまま滑り込もうとしたが、それより早く臥龍の靴先が銃を抑えた。くそ、わかってやがる。
臥龍は唇の端を吊り上げた。視線が交錯する。
「虎が目覚めたか」
「さあな」
あの銃を狙うのはやめだ。背後に影を感じた。
前転して避けると、銃声が連続して聞こえた。流石に分が悪い。
俺はまた車を飛び越えた。
赤のスポーツカーの影に構えていた奴の片膝の上に飛び乗り、顎に膝蹴りを食らわす。
銃をもぎ取り、スポーツカーの窓越しに二発打った。ガラス窓に銃痕の花が咲き、黒服どもが倒れる。
車の影から出ようとしたとき、ダダダダダ、と銃声が響いた。
深夜に出歩きそうもない婆さんが二丁の銃を構え、電動カートで突っ込んでくる。
「何で婆さんまで手下にしてんだよ!」
電動カートは最高速度で近づいていた。くそ、避けるには敵が多すぎる。
婆さんが加速したとき、傍に停車してあったワゴンカーの扉が急に開いた。カートは避ける間もなく衝突し、婆さんが吹っ飛んだ。
「鮫沢!」
ワゴンの中から鮫沢が誇らしげに身を乗り出す。
「鍵空いてたから入れたんだけど、免許持ってない!」
降り注いだ銃声がワゴン車を蜂の巣にする。俺たちは咄嗟に車内に隠れたが、これじゃ埒が開かない。
「マルチバースで運転できる勇虎はいないの?」
「お袋のスリットはもう見たかねえ! 椅子の男誰だよ!」
「何の話!?」
フロントガラスにヒビが入る。
マルチバースには頼らない。映画に頼ろう。
車にフェティッシュがありそうなSABU監督の映画にはよくマニュアル車のギアチェンジがあった。
「よし!」
俺は見よう見まねでギアを弄り、アクセルを踏んだ。
車が後ろに向けて発進した。鮫沢が悲鳴をあげる。
「マルチバース駄目じゃん!」
「マルチバースのせいじゃねえよ、俺のせいだ!」
「何で? 余計駄目じゃん!」
叫んでも車は止まらない。駆け寄った黒服たちが暴走する車輪に次々薙ぎ倒されていく。
割れたフロントガラス越しに、呆れた顔の義兄がショットガンに弾を込めるのが見えた。まずい。
「鮫沢、伏せろ!」
俺がハンドルに突っ伏す寸前、臥龍が引鉄を引いた。撃ち抜かれた衝撃で、ワゴン車が馬のように前輪を持ち上げる。
立体駐車場のレーンを越え、隣接のゲームセンターの壁が見えたとき、視界が回転した。
目の前にデカいゴリラがいた。
勿論偽物だ。確かボールを当てて点数を競うゲーム。
お袋と義父が婚約したとき、俺と龍治も連れて行かれた気まずい熱海旅行で、ホテルのゲーセンに同じものがあった。あのとき、龍治はわかりやすく俺に勝ちを譲ろうと明後日の方向にボールを投げていたっけ。
「勇虎、しっかり!」
鮫沢の声に我に返った。
目の前には血をべったり塗ったハンドルがある。鮫沢が俺の両肩を掴んで車から引き摺り下ろした。
「大丈夫? デコの血ヤバいよ」
「大したことねえよ……」
一回転した車は壁を突き破ってゲームセンターの中に飛び込んだらしい。何でもありかよ。
割れたガラスを払って、額に手を当てる。出血は派手だが傷は深くなさそうだ。
壁の鏡を覗いて俺はぎょっとした。左頬に猫のひげのような二本の古傷が浮き出していたからだ。
マルチバースとシンクロしてる、義兄と同じ状態ってことか。
鏡越しに店内に雪崩れ込む黒服たちが見えた。
まだ残っていた学生が急な惨事に右往左往するのを押し退け、こっちに向かってくる。
「鮫沢、巻き込んで悪かった。今度こそ帰れよ」
答えを聞く前に俺は駆け出した。
銃声。クレーンゲーム機が爆ぜ、中のぬいぐるみが綿を撒き散らす。
俺はゲーム機越しに黒服の脚を撃った。倒れた奴に引っ掛かって更にふたり倒れる。
後ろ歩きで俺との距離を測りながらピストルを構える男が見える。背後に気をつけろよ。
俺は奴の真後ろのパンチングマシーンを撃った。バネが吹っ飛び、巨大な拳が男の後頭部をぶん殴った。
「眠れる虎、降伏しな!」
飛び出した女がサブマシンガンを連射した。
「その名前やめろよ!」
くそ、弾幕で反撃に出られない。
俺は近くに倒れた男の懐から水平二連式散弾銃を取った。弾を装填し、女の頭上を狙う。
ショット。
女の近くにあったのはバスケットボールゲームだ。まずゴールが落下し、女の上にボールの雨が降った。
飛んだボールが当たったのか、コインゲームから大当たりの音が流れ出し、ゴリラが猛り狂う。めちゃくちゃだ。
音と光の洪水を、黒尽くめの男が無言で割ってくるのが見えた。臥龍だ。真打が来やがった。
俺は振り返らずに一気に駆け出す。
銃声が轟き、レトロゲーム機が煙と火花を噴いた。くそったれ。
俺はとにかく走り続けた。閉じた自動ドアを銃底で殴りつけ、暗いエントランスに出る。
銃声は追ってこない。代わりに足音が聞こえる。狙い撃つより追い詰めようと思ったのだろう。
視線を傍にやると、ガラスの向こうに黒服たちの残りが見えた。
一階から抜けられさそうだ。それに鮫沢の退路を確保してやりたい。
俺は停止したエスカレーターを駆け上がった。
段差を散弾が貫く。もう来たのかよ。
俺は上りと下りのレーンが交錯する場所にわざとらしく植えられたヤシの木の枝を掴んだ。
思い切り身を振り、別のレーンに移動する。
表記も見ずに飛び込んだ階の最奥まで駆け、緑の扉を肩で押し開いた。
そこはボーリング場だった。
無人のレーンにシューズと汗と洗剤の匂いが満ちていた。
ぼんと音を立て、緑の扉が傾げる。中央の穴からショットガンの銃口が覗いていた。
「来やがったな……」
遮蔽物がまるでない。これじゃ狙い撃ちだ。
俺は銃を構えて後退った。ドアを蹴破って現れた義兄は不敵な笑みを浮かべた。
「降伏する気になったか? お前は銃で俺に勝てたことがない」
「知らねえよ」
「マルチバースの記憶を得たならわかるだろう」 「いや、お袋がチャイナドレス着てた辺りで見るのやめて……」
「馬鹿な」
臥龍は呆れたように目を見開き、すぐに微笑を戻した。
「そうか、そういう奴だったな」
仰々しい龍の刺青に反して、眼差しが寂しさと慈愛に満ちている気がした。俺は考えを振り払って聞く。
「あんた、俺を別宇宙に連れ帰るって言ったよな。かよ。そっちの俺は死んでるんだろ」
「できるさ。マルチバースとのシンクロを解かなければやがて精神は同化し、存在が融合する。今のお前は俺の宇宙のお前も繋がる」
「訳わかんねえ……」
言いかけて俺は息を呑んだ。
「じゃあ、あんたと臥龍とシンクロし続けてる、ここの龍治は!?」
「これが続けば消えるだろうな」
臥龍は長い髪をさっと払った。黒髪が闇に溶け込む。
「何で……」
「こちらの義兄は不要だろう?」
臥龍は平然と答えた。
「別宇宙とシンクロするには精神を無にすることだ。こちらからの侵攻も虚無状態の自分ではないとできない。普通は就寝時のため侵攻は深夜になるが……この身体は起きたまま虚無だった」
マルチバースの義兄は自分の胸を叩く。
まさか酷い突き返し方をしたせいで頭が真っ白だったから、龍治は乗っ取られたのか?
じゃあ、俺のせいじゃねえか。
「勇虎、銃を捨てろ。この宇宙の俺より俺の方が上手くやれる。今度こそひとりで死なせはしない」
手を差し伸べる臥龍の瞳は光を吸って空洞のように見えた。
俺は銃を下に向けた。そして、奴の元に放った。
衝撃で暴発した銃は火花を噴き上げ、天井を穿った。
臥龍の顔から笑みが消える。
「交渉決裂という訳か。何故だ?」
「俺のせいで義兄が消されたら夢見が最悪だからな。臥龍にはその身体から出ていってもらう」
俺は拳を握った。
「あと、映画の趣味が合わない」
義兄は犬歯を覗かせた。
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