2、義兄の異常な愛情

「何言ってんだ……」


 粉々の自動ドアから突風が吹き込み、中古スマホ買取の広告たちが宙を舞った。


「マルチバース!?」

 いつの間にかカウンターから這い出した鮫沢が裏返った声を上げる。マルチバースの義兄を自称する不審者は神妙に頷いた。


 俺は苛ついて奴の肩を掴む。

「いい加減にしろよ! 今更歩み寄りか? ふざけすぎだろ、店めちゃくちゃにしやがって!」

「歩み寄りでこんなことしないと思うよ……」

 鮫沢が呟いた。そりゃそうだ。だが、そうじゃないならこの状況はどう説明する。


 三本傷の龍治は目を伏せた。その表情は嫌というほど見慣れていた。

「やはり、この宇宙でも私は貴方と上手くいっていないのですね」

「だから、宇宙だ何だって……」



 空気が破裂したような音がして、何かがすごい勢いで頰を掠めた。

 俺の顔の真横、イップ・マン 継承の背表紙に黒い丸穴が空いて、煙を上げていた。

 銃撃だと気づくのに時間がかかった。


 鮫沢が遅れて悲鳴をあげる。

「敵襲です!」

 自称・龍治が俺と鮫沢を壁に押しつける。無数の銃声が響き、店内が激しく震動した。


 鼓膜がキーンと鳴って、銃声が遠くなる。

「若、耳を塞いで口を開けてください!」

「だから、その若って何だよ! ていうか、何だよこれ!」

「マルチバースからの刺客です!」

「何だって!?」


 男はネイビーのスーツを探った。血塗れのジャケットから現れたのはデカい拳銃だった。

 鮫沢が目を見張る。

「デザートイーグルだ!」

「デザートイーグルです」


 男は古傷が走った右目を細め、躊躇いなく数発撃った。

 くぐもった悲鳴が聞こえ、自動ドアの残骸に血飛沫が広がる。薬莢が足元に転がって、俺のスニーカーのゴムが焦げた。


「殺したのかよ!」

 スカーフェイスの龍治は銃口にふっと息を吹きかけた。

「全員ではありません。まだ数名残っています」

「そういうことじゃねえよ! 頭おかしいだろ!」


 男はDVDの棚の影から様子を伺う。

「裏の事務所まで一旦退きましょう。アダルトコーナーから抜けます」

「何で店の構造を知ってるだ」

 奴は少し目を伏せて笑った。

「私の宇宙の貴方が教えてくれたんですよ」

「また訳のわかんねえ……」



 雷みたいな銃声が轟いた。

「若、危ない!」

 三本傷の龍治が俺を突き飛ばす。床に突っ伏したとき、ぼふっと嫌な音が聞こえ、頬に生温かい雫がかかった。


 義兄らしき男は二発銃を撃った。自動ドアの影から白髪の男が現れ、人形のように倒れた。

 首が奇妙に捻れて、青のカーペットに赤い染みが広がる。

「嘘だろ……」


 マルチバースの龍治は銃をしまうと、腹を抑えて荒い息をした。

「行きましょう」

 俺は奴に手首を掴まれる。汗でぬるりと湿った感覚が伝わった。

 俺は何もわからずにアダルトコーナーに向けて駆け出した。


 照明が壊れた店内は暗いが、通路に無数の穴が空き、焦げた匂いを立てているのはわかった。

 後ろから鮫沢がついてくるのを確認しながら、黒い暖簾を潜る。


 スーツの男は息を切らしながら、迷わず従業員しか知らない搬入口に辿り着いた。

 ドアには鍵がかかっている。

「失礼」

 男はまた銃を取り出し、ドアノブを撃った。 


「合鍵持ってるのに……」

 ぼやく鮫沢と俺を内部に押し込み、龍治は肩でドアを閉めた。



 埃くさい事務所はいつも通りだった。

 仄明りの中、出しっぱなしの電気ストーブの上に扇風機が乗っていて、盗難防止用の装置をつけていない新作のDVDが山積みになっている。


 自称義兄はドアに背を預け、崩れるように床に座り込んだ。

「龍治さん、大丈夫ですか?」

 鮫沢がペットボトルの水を差し出す。

「ありがとうございます……」

 義兄は水を飲み干し、空のボトルを鮫沢に返そうとして落っことした。憔悴してるのがわかる。



 俺は平静を装って前に立った。

「で? 説明しろよ。マルチバースが何だって?」

 男は三本の傷を歪めて呻いた。


「……貴方たちならマルチバース自体の説明は不要ですね?」

「アメコミとかの……」

 鮫沢がおずおずと頷いた。俺も首肯を返す。


「私は数ある可能性によって分岐した宇宙のひとつから来ました、若……」

「だから、若って何だよ!」

「勇虎さん、貴方は私の宇宙では暗黒街の頭領の後継者なんですよ」

 気が遠くなった。こいつは完全にイカれてる。


「日本の暗黒街って何処だよ! 歌舞伎町か?」

「この街です」

「ゲーセンも夜十時には閉まるど田舎が!」

「貴方の御母堂が造り替えたんですよ」

「お袋が……?」

「ええ、私は貴方の御母堂が三年前に癌で亡くならなかった世界線の宇宙から来たんです。彼女が暗黒街のトップでした」


「……お袋は普通の主婦だぞ」

「貴方の宇宙ではね。ですが、彼女はある天賦の才が持っていました」

「天賦の才?」

「地上げです」

 俺は言葉を失った。


「私の父と再婚し、父の不動産会社を手伝うようになって、彼女は凡ゆる土地を転がし、瞬く間に巨万の富を築きました。ウォール街の資産家に匹敵するほどに」

「ウルフ・オブ・ウォールストリートだ!」

 鮫沢が割り込んだ。


「最早不動産屋とは呼べません。彼女は裏社会の秩序をも崩し、警察すらも抱き込んで、この街を起点に暗黒街を作り上げました」

「ゴッド・ファーザーだ!」


「彼女は目に見える土地だけでは満足せず、多元宇宙への侵攻を目論みました。そして、マルチバースへのアクセスを可能にしたのです」

「Dr.ストレンジだ!」

「ちょっと黙ってろ!」

 俺は頭を抱える。

「何で不動産屋が宇宙にアクセスできるんだよ!」

「NASAも買収したからです」

「嘘つけ!」


 義兄は苦しげに首を振った。

「マルチバースにアクセスしたのは彼女だけではありません。対立する組織も膨大な知識を得て強化され、無数の刺客が彼女を襲ったのです。貴方の御母堂は凶弾に倒れました」

「ジョン・ウィックだ!」

 鮫沢は懲りずに騒ぐ。俺は俯いた。


「それで?」

「御母堂亡き後、私たちの組織は二つに割れました。彼女の直系である貴方と、彼女の右腕だった私。どちらを後継者にするか。血で血を洗う争いに刺客との闘争も続き……」

「新しき世界だ……」

 鮫沢は声を抑えていった。



「マルチバースの同一存在とは精神をリンクさせることができる。私は貴方を守るためにこの宇宙に来たんです」

 義兄は俺の手を握った。俺はそれを振り払う。

「信じられる訳ねえだろ……」


 義兄は力なく微笑んだ。

「少しのかけ違えて未来は大きく変わります。私は若と最初に会ったとき、きっと上手くいかないと思ってました。ですが、時間をかけて本当の兄弟のようになれた」

「都合いいこと言いやがって……」

「何故私がこの店の構造を知っているのかわかりますか? 貴方が招いてくれたからです。若が夜勤のとき、私たちはこの事務所に忍び込んで一緒に映画を観たんです」



 俺は少し黙ってから聞いた。

「あんたの好きな映画は?」

「ターミネーター……」

「嘘つけ、偽モンが!多元宇宙だろうが、あいつがブロックバスターなんか観るか!」


 俺が勢いよくどつくと、義兄が呻いた。

 触れた腹が嫌に柔らかく、生温かい。濡れた手の平を眺めるとべっとりと血糊がついていた。


「龍治さん! マルチバースの……」

 俺は思わず屈み込む。奴のネイビーのスーツの腹は血で真っ赤に染まっていた。

 俺を庇って撃たれたんだ。頭から血の気が失せるのを感じる。



 義兄は笑みを繕った。

「大丈夫です。この身体にダメージは受け継がれず、元の宇宙の私に与えられるだけです。精神のリンクを断てばこちらの私は元通りです」

「じゃあ、あんたは……?」

「戻ってすぐ治療を受けますよ。死んだとしても、もう一度貴方に会えた。思い残すことはありません」


 俺は唾を呑み込む。

「そっちの俺は……」

 義兄はまた悲しげに目を伏せたが、すぐに表情を引き締めた。



「これからも刺客が訪れるでしょう。マルチバースの記憶を駆使して、我が身を守ってください」

「そんなこと言ったって……」

「できます。貴方は暗黒街で生きた強い男だ。そして、次の私が来ても信用しないでください。別の宇宙の私は貴方を狙うかもしれない」


 龍治は俺の肩を強く握る。

「中でも顔に龍の刺青がある私が来たら、絶対に近づかないでください。奴は臥龍と呼ばれたマルチバースで最も危険な私だ」

「わ、わかった。わかった。他には?」

「最後にもう一度、『兄さん』と……」


 義兄の手が離れた。

 血塗れのスーツが黒のタートルネックに変わり、顔の傷が消える。

 龍治はぐったりと倒れ込んで気絶した。



 事務室に静寂が戻った。


 鮫沢が辺りを見回す。

「どうすんの……?」

「どうって、逃げるしかねえだろ」

「龍治さんは?」

「置いてもいけねえけど信用するなって言われたし……おい、起きろよ」


 俺は義兄の肩を掴んで揺らす。

 奴は途端に目を開いた。



 その顔の右半面には黒い龍の刺青が浮き出していた。

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