マルチバースの義兄

木古おうみ

1、家族間の地雷を踏んだらさようなら

 マルチバースはクソだ。


「そんなことないと思うけどな」

 レジの中で鮫沢さめざわが答える。カウンターに山が乗ってるみたいだ。ボンレスハムみたいに見えるネルシャツと指紋のついた眼鏡。いつものことだ。


 俺は山ほど並ぶDVDの背表紙の間、SFとアクションの間を行き来する。

「あるんだよ。アメコミ映画はネタが切れたらマルチバースって言い出す」

「それ、マルチバースがつまらないんじゃなくネタ切れしたからつまらない映画になってるんじゃない」


 蛍光灯が点滅した。深夜のレンタルビデオ屋の店内は病人の顔みたいに青白い。

 俺や鮫沢なんか雇ってる店だ。人手も経費も足りてないのは仕方ない。


「だいたい何だよ多元宇宙って。宇宙が分岐するわけないだろ」

「いや、ちょっとの選択の違いで、いろんな可能性が分岐するって話でしょ。ヒーローが妻子を救えなかったせいで闇堕ちしちゃうとか」

「だったらパラレルワールドって言葉が先にあるだろ」


 鮫沢がコンビニで買ったコーヒーを啜る音が響く。

 スペースビデオショップ、と書かれたエプロンには新人の若葉マークと店舗責任者のバッチふたつがついている。少し多元宇宙っぽいと思った。

 鮫沢は俺ですら一ヶ月で覚えたゲームの買い取りを理解していないせいで研修が終わらない。だが、深夜勤務をしてくれる店員はこいつしかいない。そのせいだ。


「毎日こんな時間に来るなら夜勤入ってくれないかな」

「うるせえ、働くのと客としてくるのは違うんだよ」

 時刻はもうすぐ二十三時だ。くそ、アクションの棚にダークナイトがある。アメコミは全部SFに纏めることになってるのに。


「またお義兄さんが家帰ってんの?」

 俺は手を止めて舌打ちした。

「あいつの家じゃねえよ。名義は俺の家だ」

 自動ドアが開いて、死人の肌みたいな冷たい空気が流れ込む。鮫沢が余計なこと言いやがって。噂をすればだ。



勇虎ゆうと

 鉄を叩いたみたいな冷たい声だった。店の照明より青白い顔と手首以外肌を見せない黒いタートルネックと黒のジーンズ、ローファー。

 世界で一番見たくない奴が来やがった。


「お義兄さん、こんばんは」

 鮫沢が慌ててコーヒーをレジの下に隠す。奴は一直線に俺に向かってきた。


「こんな深夜に何してる」

 刀で切れ込みを入れたような一重の目が俺を見据えた。

龍治りゅうじさんには関係ねえだろ」

「ある。学生の深夜徘徊で責任を問われるのは保護者だ」

「血も繋がってねえくせに」

 奴は静かに息を吸う。嫌な兆候だ。俺は耳を塞ごうとしたが遅かった。


「だいたいインターンも卒論の準備もせず何を遊んでるんだ。この春休みが終われば三年生だぞ。退学するなら夜間なり通信なり進学すればいい。学費は出すと言っただろ。今やりたいことがないから、少しでも選択肢が増えるように卒業と安定した就職に向けて努力するべきだろ」

 いつもこうだ。無表情のままマシンガンみたいに喋る。どういう仕組みかわからない。俺はただ圧倒されるばかりだ。


「ごちゃごちゃ言うなよ! 第一退学するなんて一言も言ってねえだろ!」

「お前がいつも嫌そうに大学に通っているからだ。そんなに映画が好きならそれを仕事にできるよう専門学校に行けばいい」

「映画は趣味なんだよ! 仕事にしたい訳じゃねえ!」

「そんな馬鹿な」

「ゲーセンでワニワニパニックやってる奴がアマゾンで本物のアリゲーターと戦いたい訳じゃねえんだよ!」


 義兄は呆れたように首を回した。

「お前はいつもそうだ。もっといい大学に行けたのに近いから推薦で入れるからと楽な方に流れて、毎日不満げに過ごしてる。趣味は結構。それなら、ミニシアターも限定上映も多い東京に行けばよかっただろう。一人暮らしの金も出す。こんなショッピングモールのシネコンしかいない田舎で満足か? 夏はドラえもん、冬はワンピース、合間にマーベル映画をやるだけのゴミみたいな劇場で?」

「一生ドラえもんとワンピースとアメコミ映画だけ観て死んでやるよ! あんたみたいに金熊賞とかシッチェス・バビロニア祭りとか観るような高尚な趣味じゃねえからな!」

「シッチェス・カタロニア国際映画祭」

「うるせえ!」


 俺が思わず振るった手が龍治の胸に当たって、奴は少しふらついた。

 悪いと思ったが、罪悪感に負けたら終わりだ。俺は買取り不可品のカートのように義兄を自動ドアまで押しやった。

「こんなカスみてえな品揃えの店にあんたの観る映画はねえよ! とっとと出てってくれ!」


 呑気な音でドアが開き、分厚いガラスが俺と奴を隔てる。

 義兄はよれたタートルネックの襟を払うと、諦めたように踵を返した。



「帰れ、変態、エル・トポで抜いてろ!」

 入り込んだ寒気を温めようと動くエアコンの音が、溜息のように聞こえた。

 実際鮫沢が溜息をついた。

「言い過ぎ」

「あいつに対して? 品揃えに関して?」

「両方」


 俺はかぶりを振った。手の平に龍治の肋骨のゴツゴツした感触が残っている。顔を見ないようにしていたが、どんな表情をしていたかは想像できた。


「お義兄さん心配してたじゃんか」

「うるせえな。あいつが後ろめたいから勝手にやってるだけだろ」

 俺はろくに見もせずにDVDの背を指でなぞって歩いた。


 あいつがいなきゃ、いや、あいつの親父が俺のお袋と結婚しなけりゃこんなことにはなってなかった。


 俺の本当の親父は俺が生まれてからすぐ死んだ。

 ずっとひとりで俺を育ててきたお袋が、不動産屋の男と結婚すると言ったとき、俺は喜んだ。苦労してたお袋がやっと楽になれるんだと思ったからだ。


 お袋の結婚相手は実際すごかった。ぽんと新居を買って俺たちを住ませたくらいだ。

 だから、急に能面みたいな面した何考えてんのかわからない義兄ができようが、お袋が幸せならいいと思ってた。


 それなのに、お袋はぶっ倒れて、見つかった癌はステージ5で、俺が大学に入る前に呆気なく死んじまった。新しい旦那とその連れ子に気を遣わせたくないから、体調が悪いのも隠してたんだろう。

 お袋はそういうひとだった。


 あいつらが悪くないのは知ってるが、そう思わなきゃやってられない。



「それ、龍治さんが前借りてた」

 俺は我に返って足を止めた。自分じゃ選ばないアジア映画の棚だった。エドワード・ヤンの恐怖分子。

「ホラーかよ」

「違うよ」

 鮫沢はコーヒーの残りを煽っていた。


 取り扱いの少ない香港や台湾の映画は国ごとで一括りだから、タイトルだけじゃジャンルがわからない。俺はDVDを棚に戻した。


「お互い映画好きなんだから共通の話題とかないの?」

「趣味が違いすぎる」


 俺も最初はそう思って頑張ろうとした。

 高校時代、夜中目を覚ましたとき、真っ暗なリビングでブルーライトに横顔を照らされながら、龍治が映画を観ているのに出くわしたことがある。奴は確か今の俺と同じくらいの年だったはずだ。


 最初ギョッとしたが、こいつ映画なんて観るのかと少し親近感が湧いた。


 何観てるんだと話しかけると、奴は驚いたような顔で俺を振り返って短く答えた。

「ウォン・カーウァイのブエノスアイレス」

 監督も作品名も知らなかった。クラスじゃ一番映画に詳しかったのに。

「それ面白い?」

 義兄は無言で目を伏せた。

 お前に言ってもしょうがないと言われたように感じた。


 俺は嫌な思い出を振り切って顔を上げる。

「奴は俺を見ても勉強と就職と金のことしか言わねえよ。まともに兄弟をやる気なんか……」



 どこぉん、と映画でしか聞いたことのないような音が響いた。


 粉塵とガラスの破片が飛び散り、青い照明が一瞬で土埃色に塗り替えられる。

 自動ドアが飴細工のように砕けて、爆発と同時に何か黒くて丸いものが店内にすっ飛んできた。


「な、何だよ!」

 鮫沢がカウンターの中で叫ぶ。

 爆煙が立ち込める店内で、俺はアジア映画と韓流ドラマに挟まれながら呆気に取られていた。



 自動ドアを破って店内に飛び込んできた影がゆっくりと身を起こす。

 背中に乗っていたガラスが落ちて砕け、その男はふらついた。


 ネイビーのスーツの左腕が大きく裂け、血が溢れている。ひとつに纏めた長髪は埃で白髪じみていた。

 男が顔を上げると、右目蓋から頬にかけて三本走った傷跡が露わになった。


 服も髪の長さも違うし、あんな傷はない。だが、信じたくないが顔には嫌というほど見覚えがあった。


「龍治さん……?」

 男は化け物でも見たように目を見開く。

「いや、あんた、何して……」

 そいつは駆けてきて、目の前で膝を折った。


「若!」

「若!?」

 義兄らしき誰かは流血しながら俺の手を握る。

「またお会いできるとは……」

「さっき会って追い出しただろうが! 何の冗談だよ!」

「そうか、ここでも私は……」


 男は目蓋の傷を歪めて俯いた。

 さっき店から追い出したとき同じ顔をしてたんだろう。

 奴は血まみれの手を離し、俺を真っ直ぐに見た。



「聞いてください。私は貴方の義兄、竹松たけまつ龍治ではありません。私はマルチバースの龍治です」


 ヒビの入った蛍光灯がショートして火花を散らした。

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