ブルード家の肖像

[短編] [ダーク] [ファンタジー度★★★]




 屋敷の薄暗い廊下を私はただ一人歩いていた。すすけた赤い絨毯の上を、一歩一歩ゆっくりと。くぐもった足音。それが、闇に飲まれてはっきりと見ることができないほどに高い石造りの天井に、そしてそこに張られた蜘蛛の脚のような梁にぶつかり、反響する。幾重にも幾重にも、どこまでもどこまでも。ガラリとした空間に響き渡る途方もない数の足音。私はまるで、何人もの亡霊たちとこの廊下を歩いているような気がした。

 そう感じるのもまったく突飛なことではない。私は石の壁に掛けられた絵のうちの一つに目を向けた。そこに描かれた顔が眼光鋭く私を見返す。ここにいるのは私の直系の先祖たち。この場所は、歴代の当主の肖像画とその彼らが最期使っていた剣が飾られている、ブルード家の画廊ギャラリーだ。


 初代、二代目、三代目と、廊下を進むにつれて時代がくだっていく。その顔を見るだけで、彼らにまつわるありとあらゆる話が心に浮かんでくる。幼少から慣れ親しんできた物語の数々が。

 黄金期と呼ばれた時代の、三枚の堂々たる肖像画。絵の入っていないからの額縁は〝許されざること〟をして報いを受けたと伝えられている十三代目のものだ。熾烈な後継争いの末に椅子を勝ち取った十八代目の肖像画は険しい表情を浮かべている。

 数々の伝説に心が躍る一方、廊下を進むにつれて或いは時代が下るにつれて、私は辺りの暗さが増していく感覚を覚えずにはいられなかった。次第に深まり押し寄せてくる闇を掻き分けるようにして歩みを進める。

 曽祖父の代、祖父。次は当然私の父。そしてその次は……。


「父上」

 後ろから声がした。大きくも小さくもなく、ただ、あまりにはっきりした声が。その一瞬で私の周りの足音が掻き消され途絶える。私の全身は強張っていた。私が肩越しに後ろを振り向いたのは、廊下に声が数回反響してぼんやりと消えかけはじめた頃。私の視界の端に男の影が入り込む。それは、紛うことなき私の息子の姿であった。

「食事の時間です」

「そうか」

 そうか、と声が一度反響するかしないかの間に、息子は画廊の扉を閉めそして私の視界からいなくなった。


 重い扉の閉まる音。そうか、という私の声。そのどちらもが闇に飲み込まれた後で、ようやく私は強張った体を緩めた。ゆっくりと体の向きを変える。そうした私の正面に来るのは、画廊の出入口と、その上にはめ込まれたステンドグラス。

 ステンドグラスには静かな微笑みを浮かべる女神が描かれていた。思わず溜め息が出てしまうほど美しいものだが、この女神にはとある奇怪な伝説がある。この女神が我が一族に呪いをかけたのだと。【父親殺しの呪い】を。

 だが所詮それは単なる御伽話でしかない。ただ、そのような言い伝えが古い時代から今の今までまことしやかに囁かれてきているのは、我が一族のことながら何とも不気味なものである。

 私はそのまま一歩二歩と、出入口に向かって歩き出した。私の体はどんどんと時代を上っていく。扉に手を掛け、私は肖像画たちに別れを告げた。


 呪いだろうが何だろうが、【父親殺し】は我が一族のしきたり。長きに渡ってこの地の領主を務めるブルード家の者に脈々と受け継がれてきた伝統。

 そう。ここに飾られているのは、息子に殺された者たち――正当に家督を譲り渡した者たちの肖像だ。




 広いダイニングルームに、ナイフとフォークが皿と触れ合う音のみが響く。私はチラと向かい側、長机の端に目を向けた。息子は丁度フォークを口に運ぼうとしているところだった。一瞬、目が合ったような気がした。しかしそれは私の気のせいだったのだろう。息子はそのまま肉の切れ端を口に運び、フォークを下ろした。

 息子の表情は動かない。笑いもしなければ怒りもしない。息子の顔の上で動くのは、燭台の炎の揺らめきが作る陰のみ。

 デザートのソルベ。味はしなかった。いや、ここ最近は味を感じられたことがない。冷たさだけが喉を通り過ぎていって、食事は終わった。食後のコーヒー(息子は紅茶なのだが)もそこそこに、私と息子はどちらからともなく席を立った。


「ヴィクトール様、明日のご予定ですが……」

 席を立つとすかさず、老僕のデュドーが節くれ立った指をさすりながら私の前にヒョコヒョコと現れた。その態度は忠犬とでも言うべきだが、彼のギョロリとした目玉から私はいつもトカゲを思い起こしてしまう。デュドーは続けた。

「まずはじめに、いつも通り諸々の報告書にお目通し願います。そして西の砲台が完成いたしましたので、その竣工式にご出席を。その後に東隣の領主殿の使いが来られることになっておりますので、そちらもよろしくお願いいたします。それから……」

 彼の曲がった腰と白髪のまばらになった頭を見下ろしながら適当に声を返す。

「ああ、分かっている」


 そしてこの時私は、いつものように耳をそばだてていた。

「ウォレス様、明日でございますが……」

 部屋の向こう側では、こちらと同じように息子がその下男のジトゥリと話をしている。老僕デュドーの枯れ木が軋むような声の合間にその会話を聞くのだ。息子の予定を知るために。……息子が、いつ空き時間となるのかを知るために。


「午前には領地内の視察と剣の稽古。昼食を挟み、午後は歴史の講義、といった予定でございます」

「分かった。ありがとう」

「それと、ウォレス様……」

 視界の端でジトゥリが息子に耳打ちするのが見えた。こうなるともう当然聞き取れたものではない。私は内心、苦々しく思った。

「――様。ヴィクトール様、お進みください」

 デュドーの声にハッと顔を上げると、そこにはすでに扉が老僕の手によって開かれていた。我ながら未練がましいとは思いながらも、勿体に勿体を付けて扉をゆっくりとくぐる。しかし無情にも、私の通り抜けた後の扉は直後デュドーによってあっさりと閉められた。

「うん、じゃあやはり当初の予定通りに進めよう、ジトゥリ」

 扉の軋む音の合間に、そう言う息子の声が僅か聞こえたような気だけがした。




「では、おやすみなさいませ」

 老僕の声と共に寝室の扉が閉められた。私はフッと息を漏らす。束の間の一人の時間だ。

 いや〝一人〟ではないか。私はベッドの横に飾られた絵を見て表情を緩めた。絵の下の棚には白い花が生けられ、額縁の中では妻が穏やかな微笑みを浮かべている。

 妻が早くに逝ってしまったのは実に不幸なことではあったが、ある意味でそれは幸運なことだと言えるかもしれない。妻は幸せなうちに、私と息子の間に【継承の儀】の文字がちらつくようになる前に、亡くなったのだから。

 いつの頃からか、私は息子を不気味に思うようになった。そうなってしまったのは、妻が亡くなってからか、息子が成人の儀を終えてからか。息子が何を考えているのか分からないのだ。ともすると、何か得体の知れないものにすら見えてしまう。

「なぁ、お前ならどうしていた? もし今もお前がいたらどうなっていたのだろう。もし今も、お前が生きていたのなら……」

 私の泣き言を、妻は変わらぬ優しい笑顔で黙って聞いてくれた。妻が生きていた頃は、その前で弱音など絶対に吐かなかったのだが。……私も、弱くなったものだな。

 自嘲気味に笑って明かりを消す。妻の顔が闇の中に沈んでいった。今度こそ、本当に〝一人〟だ。


 様々な考え事が頭の中を巡っては中途半端に消えて行く。つまり、心に僅かばかりの引っ掛かりを残して。

 息子のこと。東からの使いのこと、妻のこと、我が領地の未来のこと、息子のこと。竣工式……は適当にやり過ごすとして、他の領地との関わりのこと、一族の歴史のこと、それからまた、息子のこと……。

 そうして私は、いつしか眠りの中へと落ちていった。





 剣と剣の触れ合う音が響く中庭。その横を私はデュドーを従え歩いて行く。庭にいるのは剣の腕に覚えのある私の部下たち、そして息子だ。私はふと足を止めた。

 息子は剣さばきも鮮やかに、周りを囲む剣士を次々と倒していく。たった一薙ぎ、風の通り過ぎるが如く剣を振るうだけで何人もの剣士が倒れ伏す。気がつくとその場に立っているのは息子だけになっていた。

 ジトゥリが息子の元に駆け寄って行った。そして息子に何やら耳打ちする。その声は何故か、私の耳にもはっきりと聞こえてきた。

「さすがです、領主様・・・

「うん。ありがとう、ジトゥリ」

 息子がこちらを向いた。息子は甲冑を着ているが兜は着けていなかった。しかし、まるで兜を着けているかのようにその表情は見えない。

「父上、相手をお願いします」

 息子の声が聞こえた。大きくも小さくもなく、ただ、あまりにはっきりと。心臓がドクンと跳ねた。全身が強張っていく。横を見る。そこにデュドーの姿はなかった。顔を戻す。目の前には、もうすぐそこに迫った息子の姿。手に握られているものは、剣と盾ではなく巨大なナイフとフォーク。息子は銀色にきらめくフォークを振り上げ、表情のない顔で一思いに私を突き刺した。





 ……気分は最悪だ。私はこれで何度目になるのか分からない大きな溜め息をついた。昨晩変な夢を見たせいだ。今日はすこぶる調子が悪い。竣工式をさっさと切り上げ、私は帰路を急いだ。東隣の地からの使いが来る前までにはどうにか調子を取り戻さねば……。


 応接間に向かうため屋敷の中を足早に進んでいく。その途中、剣と剣の触れ合う音が聞こえてきた。私は思わずギョッとした。中庭で、息子が部下らを相手に剣の稽古をしている。

 いや、あれはただの夢だ。そう自身に言い聞かせ、だがその一方でいっそう足を速めて、この場から離れようとする。中庭に面した箇所を抜けるまでには随分とかかる。ええい、いったい柱をあと何本通り過ぎれば良いというのだろうか! この時ばかりは、私は我が屋敷の広さを恨んだ。

 稽古は佳境に入った頃のようだった。実戦形式の試合稽古が始まる。見るまいと思いながらも、横目で見ずにはいられない。甲冑と、当然のように兜も身に着けた息子の相手をしているのは、剣士のうち一人だけだ。そう気づいて私は幾分ホッとした。

 相手に向かってヒタと据えられた息子の剣の切っ先。沈黙。それも束の間。光の反射、くうを切る音。次の瞬間、息子の剣の切っ先は相手の喉元すんでのところで静止していた。

 見事な腕前だ。私は喉から漏れる感嘆の唸りを抑えることができなかった。何せ私も同じように剣の鍛錬を積んだ一人だ。後進が素晴らしい技術を身に着けているという事実に喜びを覚えないわけがない。それが己の息子ならば尚更だ。


 いつの間に歩調が緩んでしまっていたのだろうか。息子がふとこちらに目を向けたような気がした。息子は己の前の剣士に合図をし、剣を下ろす。途端に不安が私の胸をよぎった。先程までの喜びの念があたかも嘘だったかのように消え去り、代わりにお前の本心はこっちだろうと私を嘲笑うかのように夢の内容が脳裏をよぎる。息子は言うのだろうか。私に向かって「父上、相手をお願いします」と。そして私は、今日、この場で……。

「行くぞデュドー」

 横にいた老僕をせっついて私はその場を後にした。




 一日の仕事を終えてようやくホッと一息つく……前に、私にはもう一つ神経を尖らせなければならないことが残っている。目の前に前菜の乗った皿が置かれる。一日の最後に私を待ち構えているのは、家族での夕食の時間。目の前の物を胃の中へと移していく作業。いずれ私を殺す者を目の前にして。

 昨晩見たあれはただの夢だ。今日一日の間、幾度となく自分に言い聞かせてきた。だがしかし、いつか息子が私を殺すというのは紛れもない事実。やり方はどうであれ、息子はいずれ私を殺すのだ。私の前で食事を取っているこの若い男が……。

 皿の上を片付け次の皿そしてまた次の皿へ。いつもと同じように味など感じやしない。ただただ皿に乗った物を腹に詰め込んでいくだけだ。早くこの場から逃れ自由になりたい。いつもよりも遥かに強く私はそう思った。空になった皿が下げられ、次の皿が運ばれてくる。

 運ばれてきたのは肉料理。それを前に私は固まった。並べられたカトラリーの中で最も大きいナイフとフォーク。それを手に取る息子。息子は銀色にきらめくフォークを持ち上げ、表情のない顔で一思いに突き刺した。肉を。

 私の喉から、思わず呻き声が漏れた。誰にも、特に息子には聞こえていないと良いが。この気持ちを悟られたくない。誰にも。


 私は一つ咳払いをして席を立った。給仕たちが銘々その顔に焦りや戸惑いの表情を浮かべる中、私は料理の乗った長机に背を向けて部屋の外に出る扉へと歩きはじめた。

 部屋の隅で待機していたデュドーがヒョコヒョコとやってくる。私は老僕にチラリと視線を投げかけるとぶっきらぼうに言った。

「デュドー、私はもう行く。もうたくさんだ」

「大丈夫でございますか領主様。お顔の色が悪うございます」

 そう声を掛けてきたのはデュドーではない。デュドーの後ろについて、不安げな表情を浮かべる息子の下男ジトゥリだ。

「良いジトゥリ。お前はお前の主人のことだけ心配していろ」

 私はそう言い放ちシッシッと追い払うように手を振った。そしてグイと顔を背けると、そのまま大またで歩き去る。ジトゥリまで苦手になりそうだった。いや、もうすでにそうなっているかもしれない。

 当主となるブルード家の者には特別な付き人が付く。幼少の頃から当主となった後もずっと。配偶者とはまた違う、強い信頼関係を結ぶ相手……。

 何も言わずに私の前をヒョコヒョコと歩いて行くデュドーの曲がった腰と白髪のまばらになった頭を見ながら、私はそう思いを馳せていた。





 灰色に見える城壁。空を見上げても広がるのは同じ色。曇天。薄ら寒い早朝の空気。絶好の日和だ。父の墓参りをするには。私は第二十一代目当主のウルバノの墓前に立ち尽くしていた。今の空のようにのっぺりした灰色の石版に目を落とし、私は考える。


 死が怖い、そうブルード家の現当主が思うのは許されることなのだろうか。今この場ではっきりと言おう。私は死が怖い。死に伴う底知れぬ闇が怖い。死に付き纏う逃れ得ぬ冷たさが怖い。息絶えること。無になるということ。その全てが震えるほど怖い。私は嘲ることすらできない。それを少なくとも一人に確実にもたらしたブルード家の現当主が、そう思うことを。


 しきたり。ここに私を存在させ、そして私を苦しめるもの。しきたりを絶つことはできるのだろうか。この長らくの伝統を……。身勝手な考えとは分かっていながらも、私はこの考えを捨てることが出来ないでいた。いや、第一、何が身勝手ということになるのだろうか。

 そう思う一方で、しきたりを破ることに恐れを抱いているのもまた事実。しきたりを破ろうとした者は女神に滅されるという伝承がある。ただの迷信だと思いながらも、心のどこかで本当なのではないかと信じて・・・いる自分がいるのだ。現に、しきたりからの脱却を試みたと伝えられている歴代当主はみな悲惨な最後を迎えている。


 となると私に残された道はやはり一つしかない。息子に殺される道しか。しかし……私は息子に殺されることができるだろうか。一番の心配事はそれだった。

 今日の稽古を見る限り、息子の腕はもう私を越えただろう。それが嬉しくも哀しくも、そして恐ろしくもあった。その一方で、まだ息子に追い越されてはいないと信じていたい気持ちもある。……まぁそんなことはどうでも良いのだ。それよりももっとずっと恐ろしいことがある。万が一息子の力が及ばなかった場合、私は息子を返り討ちにせずに、殺さずに、いられるだろうか。私を殺そうとした相手を。


 我が父も同じように思っただろうか。我が父はその生涯に満足していただろうか。だがそれらはもう訊けない。私が殺したのだから。のっぺりした灰色の墓石。この下に我が父の遺体が眠っている。胸に一つ、大きな穴を開けて。

 果たしてこれで良かったのだろうか。果たしてこれで良いのだろうか。果たしてこのままで良いのだろうか。果たして……。何度頭の中で疑問を反芻しても答えが返って来ることはない。誰も答えをくれない。答えが、これで良いという答えが欲しい。




「デュドー、頼みがある」

 同じ日の朝。歩きながら私はデュドーの背に声をかけた。「何ですか」と老僕は振り向いた。

「今日一日、息子の後をつけてもらいたい」

 デュドーの足がピタリと止まる。私はあわやぶつかりそうになった。老僕の口が真一文字に引き絞られる。む、何だその顔は。

「お言葉ですがヴィクトール様……」

 老僕のカサカサした声が廊下に響く。

「それは越権行為となることです。いくら私が忠実なしもべなれども、それをお受けすることはできませんな」

 カッと感情が駆け巡る。それは怒りなのか羞恥なのか。

「エウフェミアの時は良かったではないか」

 私は思わずそう口にした。妻の名を、昔のことを。そう、私は一度頼んだことがある。知り合ってしばらくの頃、彼女が私をどう思っているのかを推し量る手がかりを得たいと願って。

 老僕は「あれも本来はならぬことでして……」と口の中で呟いた後、再び渋い顔になって言った。私の目を真っ直ぐに見て。


「御子息をうたぐりたいのですか。それとも信じたいのですか」

 再びカッと感情が駆け巡る。これは先程と同じ感情なのだろうか。私は言葉を返せないでいた。老僕は続ける。

「それすらも、しもべに任せるようでしたら……」

 デュドーは言葉を途中で止め、あからさまに溜め息をついた。主人に対して無礼極まりない態度だ。しかし私は老僕を咎められなかった。デュドーはふいと向きを変えて首を左右に振りながら歩き出す。私はその背に声をかけることも、その背を追いかけることもできず、黙ったまま廊下に立ち尽くしていた。




 それから数日後。私は一人、小さな部屋のソファに腰掛けていた。人を待っているのだ。今回あえて格式ある応接間ではなく、簡易な談話室でと私は指定した。横にデュドーはいない。この場には来なくて良いと言っておいた。

 こういう時、先に着いて気持ちを鎮めようとするとかえって落ち着かないものである。何度となく部屋の時計に目をやっているが、まだ約束の時間にならない。私は所在なく腰に差した剣に手をやった。そしてこの時私は改めて気づく。今日私は剣を差してこなかったのだと。そしてその理由は。

 扉が開かれた。遠くの方から鐘の音が聞こえる。約束の時間ちょうどだ。部屋に入って来る足音一つ。話し合いの相手、そして今日私が剣を差してこなかった理由。息子だ。


 今日この場に来るにあたって、鏡の前で随分と迷った。剣を持って行くか否か。つまり、もし戦いになった時に私が応戦するか否かだ。突き詰めて言えばこれは私の問題ではない。向こうの選択だ。私が考えてもどうにもならないこと。相手次第の話。

 しかし私が剣を帯びるか帯びないかで私の考えは伝わる。息子にその気がまだ無いのに剣を帯びて行けば、最後に僅かばかり残っている(と願いたい)信頼が切れるかもしれない。ただ、その一方で息子がこれを絶好の機会だと考えてしまう可能性もある。

 父親として息子と話すこと。それは果たして実現できるのだろうか……。

 様々なことが頭をよぎる中。息子は席に着いた。位置の都合上息子が剣を差しているかどうかは見えない。息子の視線が私に注がれているのを感じる。何か言わなければ。私は組んだ両手に視線を落としたまま口を開いた。


「……最近、どうだ?」

「はい。おかげさまで、健康に過ごしています」

 無難な答えだなと思った。声が硬いとも思った。少なくともジトゥリと話している時よりは硬い。私の意図を量りかねている、といった感じか。

「そうか」と答える。そして訪れる沈黙。息子の言動を分析するのは良いが、それよりも話題を探さねば。しかし、他に何を話せば良いのだろうか? 私は急に頭の中が真っ白になった。私は今日いったい何を話そうとしていたのだろう。他にも話したいことがたくさんあったはずなのに、それが何一つ思い出せない。頭の中ではああもスムーズに会話ができていたのに。

 私はにわかにこの場の居心地の悪さを感じはじめた。いや、思い出したと言う方が正しいだろうか。ソファに触れている部分がむずむずする。これは恐怖というより気恥ずかしさだ。


「で、では今日はこれで……」

 もう耐え切れない。私は何かしら言葉を呟きながらそそくさと立ち上がった。

「ま、待ってください父上!」

 息子の声が部屋に響いた。私はピタと動きを止め視線を向ける。私の視線の先で、息子も私と同じような中途半端に立ち上がった姿勢になっていた。その呆気に取られポカンと開かれた目と口。ああ、久しぶりに息子の表情が動くのを見たな。呑気にもそんな感想が浮かぶ。そうして私の前で息子の表情が再び動いた。今度は、何か決意をしたような顔。

「私からも、お話があります」

 それを聞こうと姿勢を正したところ、息子は続けざまに言った。

「また後日、日を改めて……」




 息子の指定した日。私は再び鏡の前で剣を手に迷っていた。今度こそ剣を持って行くか否か。しかし……。一度も二度も同じこと。ならば今回もそうしよう。話をすると言った以上、息子は話をしに来るのだと信じる。そう意志を固め、私は剣を置いて部屋を出た。


 指定された時間の少し前。私は扉の前で立ち止まった。大きな扉。「今度はぜひ応接間にて」と頼まれたのだ。デュドーが扉を開き、恭しく礼をする。デュドーは部屋の中に入らない。今回も私は、話し合いの場に老僕を連れて行かないことにした。

 部屋に入る。息子はすでに先に来ていた。そしてその隣には、美しい女性の姿が。

「父上、紹介します。私の愛する女性ひと、ディアマンテです」

「……フッ」

 張り詰めていた緊張が解けると同時に、思わず笑みが零れた。そう、息子からの話とは婚約の報告だったのだ。今までの心配はいったい何だったのだろうか。目の前の若い男は得体の知れないものなどではない。照れくさそうな笑みを浮かべつつも真っ直ぐな目をした、紛れもない私の息子だ。




 その日の夕食は、彼女も交えた三人でなごやかに始まった。美しい彩りの前菜を口に運ぶ。

「美味い……」

 感嘆の溜め息が声と共に漏れる。久しぶりに感じた味だ。心の底から料理が美味いと思える。前菜から始まりスープに魚、肉料理、デザートの薔薇のソルベ、そして食後のコーヒーと、私たちは心ゆくまで食事を楽しんだ。フィアンセを隣にした息子の顔が輝いて見えたのは、燭台の炎の揺らめきに照らされているからだけではないだろう。


 名残を惜しみつつも夕食の時間を終えて席を立つ。それぞれの付き人がその頃合いを見計らって主人の元に向かった。そうして明日の予定を確認する。ただし今日は離れた場所で別々に、ではない。隣りあって共に、来たる明日の予定を。

「明日は皆様方で朝一番に、エウフェミア様の霊廟に伺うことといたしましょう」

「ご婚約のご報告に、でございますね」

「ああ、そうだなジトゥリ」

「分かったよ、デュドー」




 後日しばらくして。私は再び、ブルード家の画廊を一人歩いていた。息子の結婚式も無事に終わり、日々が多少なりとも落ち着いてきた頃である。


 父ウルバノの肖像画の隣の額縁。その前で立ち止まる。私の肖像画はつい先日完成したところだ。我ながら素晴らしい出来だった。画廊に飾られるのをこの目で見られないのが、唯一の心残りらしい心残りであるな。いや、もしかしたら見られるかもしれない。ここを通る領主の足音に重なる亡霊の一つとなって。




 柱の並ぶ廊下。そこではデュドーとジトゥリが話をしていた。私がそこに歩いていくと二人はこちらを振り向く。私はおもむろに口を開いた。これを伝えるのなら今だと、そう思って。

「デュドー。今まで長い間、世話になったな。ありがとう」

 デュドーの動きがピタリと止まった。見る見るうちに、その目の周りが赤く染まりはじめる。

「な……にをおっしゃいますか、ヴィクトール様。この老僕め、己の仕事をしたまでですぞ……!」

 目から涙が溢れ出すのをデュドーは必死で隠そうとする。それを穏やかな気持ちで見つめてから、私はジトゥリに顔を向けた。

「ジトゥリ。息子を、ウォレスを頼むぞ。これからも」

 ジトゥリは「はい」と誇らしげに顔を輝かせた。彼は息子の良い付き人であり続けるだろう。もう何も心配はいらない。




 私は静まり返った中庭に出た。良い月夜の晩だ。深呼吸する私の横を、涼しい夜風が通り過ぎていく。絶好の日和だ。私は一人満足げにうなずいた。視線を風の通り過ぎて行った方にやる。そこには一人立つ息子の姿がある。中庭には私たちの他に誰もいない。誰も入って来てはならないことにしたのだ。【継承の儀】は父子おやこ二人きりでしたい。少なくとも、私の代は。

 私は息子の方へと歩き出した。今度はしっかりと、手に手に剣を携えて。それから腰に差した剣を抜く。

 そうして私は、真っ直ぐに息子と向き合った。





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