ベター・オレンジ

[短編] [ミディアム] [ファンタジー度★★★]

前日譚:『月と牙 吸血鬼短編集』の「Sweet Trick Bitter Treat」(同サイト内にあります)




 カランカラン……。バーの重たい木の扉が押し開かれ、取り付けられたベルがその音を響かせた。


「あら……」

 扉を外側から開けた女性はそう怪訝な声を放つ。この店を一人で切り盛りする、まだ「婦人」と呼ぶには年若そうな見目をした彼女。そのファーストネームを、ベリダと言った。

 彼女はそのグリーンの瞳で店内を見回した。今日は店を休みにしていた。店のおもてには「本日休業」のプレートを掲げていたし、それにたった今、鍵を差し込んで回し開けたはずだったのに、店内には明かりが灯っている。

 その理由わけ、あるいは正体は、すぐに知れた。

 カウンター、そこに並べられた背の高い椅子の内の一つ。真っ黒なスーツを着た男が一人。中肉中背のその男はこちら側に背を向けて掛けていた。薄型のノートパソコンを開いて、なにやら作業をしている。傍らには背の高いグラスが一つ。その中身の薄い琥珀色をした液体は残り半分ほどで、グラスの表面は結露していた。


「……来てらしたんですか」

 カツン、一つ乾いた高い足音を響かせながら、ベリダはその背中に声を掛けた。

「ボク、一応ここのオーナーだからね」

 首だけをぐるりと反らして振り向きざまに、男はそう言う。ヘラリと笑ったその顔は、年齢も国籍もはっきりとは窺えない、やけに印象の薄い男の顔で。だが〝凡庸〟を体現したような顔の中で唯一、赤い両眼だけが抜け目なくきらめき、男が只人ただびと、あるいはまとも・・・人間・・ではないことを物語っていた。



「……それは?」

 腕組みしつつ歩くベリダは、男のすぐ斜め後ろからカウンターの上、琥珀色の中身の入ったグラスに目をやった。レモンとチェリーの刺さったカクテルピックが、グラスの縁に掛けられていた。

「ジョン・コリンズ」

 男はそう歌うように、手をヒラリと二度振って節までつけて言ってのける。そしてその手でそのまま、己の胸元をポンポンとはたいてみせた。

この姿の・・・・ボクと同じ名前のカクテル。カクテル言葉は」

「〝気さくな関係〟」

 ジョン・コリンズと名乗った男が続きを言うよりも早く、ベリダはその答えを口にした。そして眉根を上げ、続けて言葉を綴る。

「ま、随分と粋ですこと悪趣味ですね


 そしてベリダはカウンターの中に入り、その後ろの棚、整然と並べられた酒の液量をザッと見回した。

「……わざわざ、この店で一番高いウイスキー使いましたね?」

「年中無休のこの店の、何世紀か振り・・・・・・の休みだ。何かあるといけないからね、店番くらいはしておこうかなって。……その駄賃ってコトでここは一つ、都合してもらえないかな?」

 ハハハと感情のまるでこもらない笑い声を上げながら、その男ジョン・コリンズはグラスに残ったカクテルジョン・コリンズの特徴的な飾り、わざとらしいほど真っ赤なチェリーの刺さったピックをひょいとつまみ上げた。そうしてそれを、自身の目の前にしげしげといった風にかざして見る。

「貴重な有給、有効に使えたかい?」

 男はそう言ってチラと視線をベリダに向け、フフと声を立てて笑う。かざしたチェリーの奥、それよりももっとずっとわざとらしい赤い瞳が、抜け目なく光っていた。

 ベリダがスッと息を吸って何か言葉を返す前。ジョン・コリンズ氏はぱくりとチェリーを口に放り込んだ。それから大げさな所作でカウンターに頬杖をついて、ベリダを下から上へ鷹揚に眺める。


「ヘェー、いいじゃん」

 そう軽薄な声が飛ぶ。

「ステキな仮装・・だね」

 その言葉でベリダは自分の格好を見下ろした。日付を超える前は、ハロウィン祭の日だった。魔女の格好。帽子もローブもマントも黒一色で固めた中で、普段はまとめ上げている黄金色の巻毛が帽子からこぼれ、目を引くような輝きを放っていた。

「……これが本当は〝正装〟だった・・・んですけどね」

 ぼそり、ベリダはそうつぶやいて。男は聞こえないフリをした。

「おかげさまで、良いお休みでしたわ」

 言いながらベリダはパチンと指を鳴らす。その装いが瞬く間に変化していった。金色の髪が波打ってひとりでに、きっちりとしたシニョンスタイルにまとめ上げられていく。それに合わせて服装も変わる。黒のトラウザーズに白いシャツ、ベストを身に着け、長いサロンエプロンを巻いた制服姿。首元にはせめて、気に入りのタイを。

 契約が結ばれ、雇われてここに来て以来、何世紀もシェイカーを振り続けている〝魔女〟のバーテンダーの姿が、そこにあった。



 ここは現世とは異なる異界、〝地獄〟の一画。そこに長年――とは言っても悪魔からすればここ最近の間での話なのだが――店を構えるオーセンティックバー・「悪魔の巣穴」。

 地獄の管理者たる悪魔たちが束の間の憩いの場として訪れる他、時には、現世の者との取引の場に使われることもしばしばだった。

 かくいうベリダもかつて、今彼女の目の前にいるこの悪魔との取引の際にここを訪れていた。死後の魂を捧げることを条件に、人間から魔女へと成るための取引。古城のぽつり佇む夜の森で一目惚れをした魔人と会って話をしてみたいがために乞い願った。もう数世紀は前のことだ。この今が、その結果だった。

 最も当時は、悪魔はその時代にわんさ・・・といた行商人の姿をしていて、ここも今のようなジャズ・ミュージックが掛かる中でカクテルを振る舞うバーではなく、旅人から村人までつどった者たちにエールを飲ませる、宿屋を兼ねた酒場だったのだけれども。

 しかし悪魔の赤い目。それだけはずっと変わらずにそこに在り続ける。かつてのその時から、今まさにこの時まで、そして未来永劫これからも。



 悪魔はその赤い両目を細め、カウンターに立つベリダに向かって言った。

「ねぇねぇバーテンさん、ボクに何か一杯作ってよ」

「……今はまだ厳密に言えば時間外なのですが」

 えぇー、と悪魔は間の抜けた声を上げた。

「自分でとっとと着替えておいてソレはないでしょ、つれないなぁ。あそうだ、キミにも一杯奢るからさ。良いだろ、それで?」

 悪魔からの持ち掛けにロクなものなんてない……。そうぼやきながらも、ベリダは準備を進めていった。

 棚から瓶を取り出し、きちりとメジャーカップで量り、シェイカーに投じて。流れるように優雅な、それでいて一切無駄のない動きだった。そこからシェイカーを手に、一定のリズムを刻む。

 そこに悪魔の言葉が差し挟まれた。

「時間外、ケッコウなことだよ。おあつらえ向きさ。今日はこれ・・を言いに来たんだから」

 そこまで言って言葉を止めて、ベリダが己の方へ目を向けた瞬間に悪魔は言う。

「ベリダ、もういいかげんボクのものにならないかい?」

 悪魔のその両眼が、薄暗い店の中、まるで揺らめく炎のように赤く光っていた。

「そうすればキミは、こんな場所に縛られずに、どこへだって好きなように飛んで行けるんだよ。正真正銘の悪魔の配下だからね。地獄のどこへでも、何なら、現世のどこへだっても。……な、すごいだろ、そうは思わないかい、ン?」


「……酔ってるんですか? もうこれ飲まずに、とっととお帰りになったらどう?」

 店内に響くリズムは乱れず止まらず。シェイカーの中カクテルを冷やす氷の温度のごとく、ベリダの声が男の言葉をあしらった。

 しかし悪魔ジョン・コリンズはそのままつらつらと言葉を続けていく。

「ハハ、酔ってなんかないし、ボクにはすべてお見通しなのさ。何てったって、ボクは悪魔なんだから。……ベリダ。キミ、今日元カレ・・・とケリをつけてきたんだろ?」

 ベリダはそう言った悪魔の前に、すっとグラスを差し出した。

 キリリと冷えたうすむらさき色。容れ物が違えば、それはまるで魔法薬のようにも見えただろう。その花の香りほのか漂うカクテルの夜空に、そっと浮かぶレモンピールひとかけ。冴える三日月の照りか、あるいは牙持つ魔人の微笑みか。目を引くようにそこに静か、輝いていた。

 その逆三角の中に湛えられた光景、自身の目の前に出されたショートカクテル。

 それを見て、悪魔ジョン・コリンズ氏は今度は心の底あるいは地獄の底、そこを揺るがし響いてくるような、大きな笑い声を上げた。

「アッハッハッハ! ベリダ! まぁキミときたら……! ヒーッ、大したヤツだよ、ハッハ!」

「どうも」

 ベリダは夜の空気のようにすましてそう答えた。

 カクテル、ブルームーン。そのカクテル言葉は、「できない相談」。

 それを差し出された雇用主たる悪魔は一つうなずいてグラスを手に取り、その強い酒をクッと飲み干した。

「うん、さすが〝魔女〟の手掛ける名品だ」

 そう言ってジョン・コリンズと今は名乗る悪魔は笑った。その手が「さぁ」とベリダに促す。

「では、キミも何か作ると良い」


 ベリダは心の中でつぶやいた。

元カレ・・・、ですって? いいえ、彼は……)

 彼女がその手に取るは、切り分けられた半分のオレンジ。それを絞ったフレッシュジュースに、とある地方の名産のビールの栓を開けて、その二つをグラスの中、合わせる。

 カクテル、ビターオレンジ。カクテル言葉は……。それ自体には、ない。

 ジョン・コリンズ氏はそれに黙って、また一つうなずいた。彼がどこか一仕事終えたような満足げな顔をしていたことに、果たしてこの店の中、いったい誰が気づいただろうか。



 ベリダがそのグラスを傾けて口をつけたその時。扉から、ノックの音が響いた。

「もう今日は終わりなんです」

 そう声を掛けるが、再びノックの音が店内に響く。ベリダは怪訝な顔をしてグラスを置き、歩いて行って、その細い腕で重い扉を開けた。

 ついさっきまで音がしていたそこには誰の姿もなく。地獄にもかろうじて届く朝の太陽の鈍い鈍い光だけが、薄暗い店内にただ差し込んで。

 だがその下、彼女の足元に、白百合の花束があった。ベリダは呆然とそれを拾い上げた。


「ほーん、白百合。白百合ねぇ」

 悪魔の声が飛んできた。かと思うと、ジョン・コリンズ氏はカウンターの上に広げていたPCを閉じて片手に持ち、戸口の方へと歩いて来ているところだった。

「いったいどこの誰が、こーんな地獄に白百合なんて贈ってくるんだか」

 そののんびりと間延びした声に、からかう調子をにじませて。

「あーあ、ボカァそのにおいはどうも好かないね。まるでよくできた香水みたいじゃないか」

 そう言って、悪魔はニヤリと笑って見せた。

「ここはとっとと退散しますかァ。じゃ、お疲れさーん。明日からまたよろしく頼むよ、店長サン」

 その軽薄な声と共に悪魔はバーの扉をくぐり、ヒラと手を振って店を後にした。



 拾い上げた花束に、うつむいて顔をうずめる。きつく結い上げた金色の巻毛が、ふっとほつれて一房ひとふさこぼれ。百合の花が、口づけをするかのようにその髪と触れた。

 強い香りの陰にかすかに――ベリダのほんの気のせいかもしれないが――蜘蛛が好んで巣を張りそうな古めかしいにおいが紛れていたようで。

 ベリダは華奢な肩を細かく震わせ、顔をうずめたままその花束を抱きしめた。


 彼女がそっと唇だけで口にした誰かの名前。鏡などには決して映せず、自身の瞳の中でこそ輝くきらめき。それは悠久の時を経たとしても、いつまでもいつまでもきっと、色あせることはないだろう――






お題:ハロウィンの短編。カクテル言葉を用いた短編。

前日譚:『月と牙 吸血鬼短編集』の「Sweet Trick Bitter Treat」(同サイト内にあります)

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