いつかにいっか〈下〉
[短編] [ミディアム] [ファンタジー度★☆☆]
※3分割して投稿しています。こちらは「上・中・下」のうちの「下」です。
俺はまた布団から起き上がって、〝この日〟は起き抜けに点けてみたテレビ画面から開いた番組表をぼうっと眺めていた。
「……あ」
俺ははたと気づく。
「ああーっ!」
別に何てこともない。本当に何てこともないことだけど……。
何てことだろう。〝今日〟は、追っていたアニメの放送日だった。どうも何かを忘れてると思ったんだよな。最早それどころじゃなくて、忘れていたこと自体も忘れていたけど。
そして俺は思う。もしかして、これか? と……。
先週の予告から、ずっと追っていたヤツの正体が今回の放送で分かるんじゃないかってワクワクしてたんだ。その内容もピッタリだ。そう、まさにこれ以上ないってほどふさわしいじゃないか!
ケータイ画面で改めて時刻を見る。まずいぞ。俺はわしわしと頭を掻いた。これは急いで買い物を済ませないと間に合わない。
今日は、絶対に、早く帰るんだ……! このアニメを、見るために!
淡い、でも確かな期待を胸に、俺は曇り空の下、出かけて行った。
スーパーに向かう途中でふと、アニメ見るだけならスーパーに行かず部屋でずっと待っていれば良かったんじゃ……という考えもよぎったが、でももうかなり歩いて来たんだし、このまま行くかと、俺は歩調を速めて進む。
わかめスープ、カルパス、ミントガム。いつの間にか俺の中で定番になったラインナップを入れたカゴをレジ台に置く。軽い軽い買い物カゴ。カタカタと鳴る乾いた音。
「あっ……、し、少々お待ちください……!」
レジ台の向こう側から慌てたような声がして。
「す、すみません。さっき変なとこ押しちゃったみたいで、レジ動かなくなってて……」
初心者マークをつけた、黒髪の大人しそうな女子が困りきった顔で言う。
「多分直せると思うんですけど、今はちょっと……。すみません……!」
「あー」
俺は曖昧な言葉を発する。悪いけど〝今日〟は急がなきゃ。雑談はナシだ。そのための一言を口に出すのに、しかし俺はちょっとためらう。
やがてレジは異音とレシートを吐き出し始めた。……ここで別に何も具体的なことを言わなかったとしても、そんな変に思われるような時間の長さではなかったんだな。
「あわわわ……」
そううろたえる女子を前にして。
「あー」
妙な緊張感が拭えず、俺は再び曖昧な声を出す。わしわしと頭を掻いて。そして息を吸い、これまでになかった
「じゃあ、領収書でお願いできませんか」
え、と声を漏らして彼女は顔を上げる。俺は指を伸ばして、異音とレシートを吐き出し続けるレジの下の引き出しの方を差し示した。
「領収書の冊子、その辺りにないですかね。それでどうにかなるんじゃないかなぁって……」
電卓での手計算、領収書への書き込み。念のため、買われていった物を控えておく用に彼女のケータイで写真も撮ってもらった。これでぬかりはない。
まだレジが異音とレシートを吐き出している最中に、俺は会計を終えることができた。手書きの領収書を受け取る。
そうしたら。
「そっか、レジの決まった通りにする以外に、そういう方法もあるんですね……!」
彼女はなぜか、いたく感心したようにそうポツリつぶやいて。ポツリと一粒、涙をこぼした。彼女はそれをサッと拭う。
正直、ここまで長く顔を合わせていなければ、彼女が涙をこぼしたことに俺は気づかなかっただろう。そして、ここまで長く顔を合わせていても、今の何がそんなに彼女の琴線に触れたのかは、まるで分からなかったが。……ま、〝長く顔を合わせていた〟のはループをしていた俺だけ、なんだけどな!
彼女の見せたあの反応を不思議には思ったが、それを追及するわけにも当然いかないので、俺はそのままスーパーを後にした。何よりも〝今日〟は、急がなくてはならない。
まだそこまでおかしな色には染まっていない曇り空の下を、ビニール袋をガサガサいわせ、安アパートに向かって走っていく。
そういえば〝今日〟は、彼女があのスーパーでバイトをしているわけを聞かなかった。……ま、もうループの中でさんざん聞いたことだし、別に良いんだけどな。
帰ってきて即、テレビの元に向かう。狭い部屋だからわずか数歩だ。同じ日なら物の位置は戻らない。リモコンは机の上だ。ギリギリだが放送時間に間に合うことは、道すがら信号待ち中にチェックしたケータイ画面で分かっている。だから
リモコンのボタンを押す。テレビ画面が光って、それに吸い込まれるように、俺は。
「マジか…………」
見るも鮮やか、きれいな流れで膝を折った。台風ニュースの特番で、アニメ放送は延期になっていたのである。あー、くそっ!
その日の夜、気まぐれに俺は起きててみることにした。いや、寝つけなかったっていうのが本当のところだろうか。テレビも点けず……というか、どうせ点けても台風のことしかやってない。それはさっき痛いほど身に染みて分かったから!
そして。ガックリもきていたが、同時に、妙な充実感もあったんだ。
彼女のあの涙が、妙に印象に残っていた。あのたった一粒ポツリ、ようやくこぼれたような涙が。……あれは悪い涙ではなかったはずだ。きっと。
その時突然。ポツリ。雨が空からこぼれて、窓ガラスを叩く音。
「おお……?」
そこから見る見るうちに雨が降り出した。ザンザンと音の鳴る恐ろしい台風の雨風のはずなのに、俺の耳には、それはまるで高らかに鳴り響く拍手のようにも聞こえたんだ。
その音に包み込まれるようにして、俺は布団の中で静かな眠りにつくのだった。
● ◎ ○
「……ん?」
俺はハッと我に返った。
「聞いてた? まだ眠い?」
「あー、ごめん」
わしわしと頭を掻く俺に向かって、呆れと笑いの混じった声が続けて言った。
「台風、来るって」
四十インチ、古くなってそろそろ買い替え時のテレビは、朝のニュースを映し出している。ダイニングテーブルには、わかめスープ、ウィンナー二本、トーストには焼き海苔を乗せた、我が家の定番朝食が。
「きょ、とま
息子がぶんぶんと短い腕を振りまわして言う。覚えたての「とま
小さな店ながらそこの店長を務めている美容師の妻。とても明るい色だけど違和感のない、オレンジがかったブラウンにきれいに染めた髪を、まだ朝なのでセットはせずにゆるく一つに縛っている。昔から変わらない明るく朗らかな笑顔が、今日もまぶしいなと思った。
俺はわかめスープの入ったマグカップをコトリと置いた。
「あー」
そう声を出してから、じゃあ、と俺は切り出す。この前の日に確か全部使い切っていたはずだ。
「俺が買って帰るよ、パスタソース。あの袋のやつで良いんだろ?」
ありがと、と妻は頷いて、続けて言う。
「あと、もうすぐ歯磨き粉が切れそうだからそれも一緒にお願い。いつものミント味のね」
妻は息子を保育園に預けがてら徒歩で出勤。俺は家から少し歩いた駅から電車での通勤。いつも通り玄関で、みんながみんな互いに手を振ってから歩いていく。今日は片手に傘を持って。
この電車は、俺が大学時代を過ごした学生街を通り掛かる。車窓から俺の住んでいた安アパートはてんで見えないが、妻の実家の一軒家、その立派な屋根は遠目からもよく見えた。
……妻の実家と妻自身が和解できて、ホント良かったよな……。いつもの代わり映えしない通勤の風景ながら、この日は久々にそう思いを馳せて、俺は流れていく景色を眺めた。
妻と出会ったのも、あの学生街の中でだった。とは言え、妻はそれこそこの電車で美容学校に通っていたので、同じ学校というわけではなかったけれど。
小ぎれいだったりボロっちかったりするアパートたちと、たまにある一軒家。それらの立ち並ぶ、街路樹の植わった道。
そこで通りすがった女子のカバンから何かが落ちたのが、目の端で見えた。緑色にピカピカ光る何か棒状のもの。とっさにそれを拾って、俺は落とし主に声をかける。
とても明るい色だけど違和感のない、オレンジがかったブラウンにきれいに染まった髪。それをパッと風になびかせて、それと同じように明るく朗らかな顔で、その女子は振り返った。
「あっ、ありがとうございます!」
そう言いながら、まだ封を開けていない小さく軽いミントガムを俺の手から受け取る女子。その目が一瞬大きく見開かれたように見えたのは、多分、俺の気のせいだったんだろうけど。
それから道ですれ違う度に、会釈しあって、少しずつ雑談もして。そうして会話を重ねていくうちに二人は親しくなっていった。それが妻とのなれそめだった。
会社帰りにスーパーに寄って帰る。会社と駅との間に、チェーン店の大きめなスーパーが新しくできたんだ。
広い店内。初めて来るところだと売場の勝手が分からないな。そこらにいる店員に訊ねることもできたが、せっかくだからぐるりと周ってみようと思って、買う物を探しつつ棚の間を歩く。まだ雨も降り出していないことだしな。
歯磨き粉、ミントのしっかり利いたやつ。まずはこれを買い物カゴの中に入れる。次に目が留まったのはわかめスープの素。これには学生時代からずっと世話になっているな。まだ家にストックがあるから今日はいらない。そしてあった。お目当てのパスタソース、シンプルなトマト味。これも随分と長くある商品だよな。大学時代にも買った記憶がある。
ミントの歯磨き粉とパスタソース。それらの入った軽い買い物カゴを、いくつも横並びになっているレジ台の内の一つに乗せる。並んではいたが、列の進みは早かった。軽快なレジの音、発行されるレシート、滞りなく進む会計。
再び電車に乗って帰る折。夕暮れ時の曇り空の下、そこにある学生街をまた遠目に眺めて、そういえば、と俺は思った。
自分の安アパートで大盛りパスタを作って
あの個人経営の小さなスーパーは、俺の住んでいたアパート同様、電車の窓からは見えないが、あの頃を懐かしむように俺は目を細める。あそこにはよく買い物に行ってたな。というか、そこくらいしか買い物場所がなかったような……。
あの店長、まだ店に立っているんだろうか。俺が夕方の遅い時間に買い物に行く度、制服エプロンに「店長」と名札をつけた、お人好しそうな白髪交じりのオジサンをよく見かけたものだ。
でもある日、レジにいたのが店長じゃなかった日があった気がする。いや、そういう時はけっこうあったんだとは思うけど、その中でも、ちょっとだけ印象に残っているような日が。
大きな台風の予報があって、……その台風自体は、当初言われていた進路から外れ、海の方に抜けて大した被害は出なかったんだけど……、その台風が来る直前の時に。
「マズったなぁ、遅かった……!」
だらけきった生活をしていた俺は、台風の来るギリギリになって慌ててそのスーパーに駆け込んだんだった。
その時確かレジが盛大に故障して……。おびただしいレシートとけたたましい機械音の最中、バタバタと買い物をした……、気がする。
俺はクスリと笑った。あれも、このくらいの秋口の出来事だったような。
風も強まりいよいよ降り出してきそうな折。俺はどうにか雨風に見舞われる前に、家に帰り着いた。
玄関を開ける否やきゃあきゃあと歓声を上げて駆け寄ってくる息子を抱き上げ、扉の開けっ放しのリビングに向かう。
「どうしたんだ、ずいぶんゴキゲンじゃないか」
「おひる、ままとおにぎ
「台風来るって予報あったし、早めに店を閉めてきたんだ。保育園も早帰りの子、多かったよ」
俺はその声の方に目をやる。先ほどまで息子と遊んでいたであろうパズルを手にしながら、妻はそう言って微笑んでいた。
「ああ、絶対その方が良かったよ。もう今、空もかなり雲で暗くなってたし。またひどく降るみたいじゃないか」
息子を下ろし、次いで買い物袋をテーブルの上に置いた。中で物がカタンと軽い音を立てる。この後すぐ使うであろうパスタソースを取り出しつつ、俺は今日電車の中でふと思い出したことを妻に話してみた。
「これ、改めて見たらどうにも懐かしくてさぁ」
そこから、個人経営の小さなスーパーでの思い出を俺は口にする。ま、雑談ってやつだな。
「私、そこでバイトしてたよ」
妻はふいにそんなことを言った。
え、何だって? と俺は目を見開く。妻は続けた。
「あの、結局行かなかった大学の学費のためにねー。……あれ。私、前に言わなかったっけ?」
言ったような気がしたんだけどなぁ。妻はそう言ってあっけらかんと笑う。
「一日だけだったけど、私もそのスーパーに思い出があってさ。あのね……」
俺は妻のその話の続きを、身を乗り出すようにして待った。とても気になる……。その時突然。俺の腹が鳴った。バカでかい拍子抜けする音だ。本当にまったく、ちょっとは空気を読んでほしい。
「あー」
俺は照れくさくなって、曖昧な声を発した。わしわしと頭を掻いて、次の言葉を綴る。
「じゃあ、食べながらゆっくり聞かせてほしいな。時間もあることだし、な」
それに妻は、にっこりと笑って頷いた。
雨がポツリと一粒窓に落ちて、そこから見る見るうちに降り出した。ザンザンと音の鳴る恐ろしい台風の雨風のはずなのに、不思議と俺たちの息子はその音を怖がらないで、きゃあきゃあと歓声を上げる。それにつられてか何なのか、俺の耳にも、それはまるで高らかに鳴り響く拍手のように聞こえた。
この雨も、明日の朝にはすっきりと上がる。それからはひと足先に。台風一過の晴れ渡る空のような明るく朗らかな妻の笑顔が、俺の目にはとてもとても、まぶしく映ったんだ。
※3分割して投稿しています。こちらは「上・中・下」のうちの「下」です。
お題:プロット交換・「雨(台風含む)」を題材とした短編
~いただいたプロット~ (Marks_Lee様)
台風前のボーイミーツガール
起 台風が来る前にスーパーへ買い出しへいく。店員は一人しか見当たらない。
承 会計を済ませようとレジに進むと、その店員は入りたてでレジの操作が覚束ない。
転 他の客も見当たらないので軽く話すと大学へ行くためのお金を貯めているらしい。
結 後日そのスーパーへ行くとその店員は辞めていた。
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