第5話 内緒話

 こんなはずじゃなかったんだ……

 昔はこのじじいも、爽やかな風がよく似合う美しい男だったのに……

 初めて出会ったその時、その焦げ茶色の瞳をきらきらと輝かせ、『私の妻になりませんか?』と声を掛けてきた。

 上位魔族であるこの私を、妻にだと?

 見れば男も只者ではない。

 外面は私と同じように人間に見えるが、内包するものが違いすぎる。

 男は自らを『この緑豊かな山の主です』と名乗った。

 青々と茂る木々、それらに実る数々の花と実。それらを食す動物や鳥類、昆虫などの生命体も数多く存在する。

 そして、足元に咲く白や紫などの可憐な花。

 この山は、生命力に満ちていた。私がこの男と出会ったばかりの頃は……

 男の申し出にしおらしく頷き、私は男の妻となり山で暮らした。

 地下では眩いばかりの宝飾品で飾られた私の為の部屋がある。

 森の実りと引き換えに交換したものばかりだ。

 森は枯れた。男もだ。

 もちろん、それは私が生気を吸い取ったせいもある。

 次第に山での暮らしに飽きてきた私は、この岩だらけになった山に一輪の美しい花を咲かせることにした。

 一面茶色の世界には、その白く清廉な美しさがより際立つだろう。

 この私のように。

 いつかこの花にひっかかった若い男を誑かして、ここを捨てよう。

「あなたを、いつまでも愛してるわ」

 干からび、丸まった背にそっと手を回す。

 もはや口をきかなくなって久しい山の主が、小刻みに震えている。

 あの妖魔の男……うまそうだった……

 宙に浮かび、青紫色の靄をその身から漂わせ、白い花弁を鉛弾のように打ち込んできた男。

 もう一度会いたい……

 その姿をうっとりと思い浮かべながら私は笑い、山の主に偽物の愛の言葉を囁やき続ける。

 この男を捨てる、その時まで。


「囮になれだあ?」

 璃蘭は琉葵と兎を前に渋面を作る。

「嫌だよ」

 璃蘭は即答した。

「あのバカ坊主を救うためだ。それに、どうやらべっぴんさんらしいぞ、ターゲットは」

 ビシッと手の中の縄を引張り、琉葵は嬉しそうに笑った。

「信用ならねぇな……特に琉葵、お前のその楽しそうなつらは特に信用ならねぇ」

「いやいや、ホントですって。妖しさバンバン、若くて美しい男大好きなべっぴんさんなんですから! あなたも妖しい魅力満載ですから、お二人が並んだらさぞかし絵になりますよ! なので、ぜひ餌に! あっ、口が滑った!」

 慌てて口を塞ぐ兎を妖艶な流し目で見やり、璃蘭は考え込む。

「考えてやってもいいが……ただではなぁ……」

「なんだ、褒美が欲しいのか……なら、バカ坊主の兄貴に請求しろよ」

「無理言うな……そうだな、俺の当番代わってくれ……五回で勘弁してやる」

 璃蘭の言う“当番”とは、民の悩み事相談に対処する王族の子に与えられた務めである。

「五回は多いだろ……一回でいいじゃん。色気あるべっぴんさん、お前大好きだろ……それを拝めるんだぜ……陽葵ひきに内緒で」

「うっ……確かに、そこは大きい……」

 璃蘭は呻く。

 琉葵の妹で璃蘭の妻でもある陽葵は、とても嫉妬深い。

 結婚前に璃蘭が作っていた側室リストも、その目の前でにこにこと笑って八つ裂きにした。

 そして璃蘭の馴染みの女一人一人に手土産を持参し、にこにこと笑って手切れさせた。その全身から殺意が滲み出ていたのは言うまでもない。

 ちなみに攻撃系一家である葵家で、一番の力を持っているのが陽葵だ。

 さらに一番穏やかそうに見えるのも陽葵だ。

 我が妹ながら恐ろしい……怒らせるのはやめよう……

 琉葵は、璃蘭が色目を使った女に静かに怒る陽葵を何度も目の当たりにし、その度に心にそう誓っていた。

「べっぴんさんは男に餓えている、お前は女に餓えている。こりゃベストマッチングってやつだ!」

「陽葵には絶対に言うなよ」

「じゃあ、当番の交代は一回な! よし、善は急げだ! 行こう!」

 琉葵は縄と兎をひょいと抱えると、意気揚々と飛び出す。

「仕方ないか……」

 はあ、とため息を吐き璃蘭がその後に続く。

 誰もいなくなったその場に強い風が吹き渡り、草むらがざわざわと音をたてる。

 木の陰で気配を消していた女の美しく長い髪が、さらさらと風に揺れた。

 その表情は陽だまりのように穏やかで、その全身からは見た者を凍りつかせるほどの殺意が滲み出ていたのだった。

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