第2話 山の主の使い
「……いつ来ても生命エネルギーが感じられなくて好きじゃねぇんだよな、この山」
「あの花……どう見ても普通じゃないだろ……気づかなかったのかねぇ、あの子は」
焦げ茶色の中で眩いほどに白く輝く花弁。凛とした空気を放つその姿は神々しくもあった。
それを遠目から眺めながら、琉葵は明るい黄緑色の瞳を細めた。
「……ま、しかしこれもいい機会かもしれないな……怪しいと思いつつも、今までずっと放置してきたんだから」
琉葵は呼吸を整え、懐から取り出した短刀で人差し指を軽く切った。若葉を彷彿させる緑色の血が滴る指を山肌に押し当てる。
血は土の精霊を司る神への供物だ。
山の主へ声を届けるためには、土の精霊の力を借りなければならなかった。
そうするには、まず土の精霊を司る神に精霊を使役する許可を得なければならない。
琉葵は目を閉じ、意識を指先に集中させる。
その脳内に金色の扉が浮かび、その扉が開かれる。
よし、神の許可がおりた!
「我が名は琉葵。緑王葵家の者だ。主と話がしたい。門を開けられよ」
琉葵の低い声音がしんとした空気を震わせる。
やがて琉葵の目の前の岩がグラグラと動き始め、そこに一体の生物が現れる。
それは真っ白い毛並みの兎だった。その中で、瞳と右耳の先だけが黒いのが目立つ。
「主の使いか……」
琉葵は呟き、地につけていた手を離した。
「我が主に、何用ですかな?」
兎は可愛らしく首を傾げ、琉葵に問う。
「うちのバカ坊主があの花触っちまってさ、困ってんだよ。どうにかしてくれ」
琉葵は面倒そうに兎に説明した。
「えっ……あの花って、もしかしてうちのあの看板娘にですか?」
兎は驚いたようにぴょんと跳び跳ねた。
「看板娘? まあ、どう呼ぼうと勝手だが、この生命力のねぇ山で咲いてる花はあれ一本だけだろ」
琉葵は顎で白い花を示す。
「あぁ、あの看板娘は強欲でしてね、他の花や緑の存在すべてが気に入らない、と枯らしてしまったんですよね! あはは!」
「あの花が? とんでもねぇな、なんだそりゃ」
「まあ、元が元なんで……あっ、しまった、口が滑った!」
兎はハッと口元を手で覆った。
「はぁん、元ねぇ……」
琉葵はにやりと意地悪い視線を兎に送る。
「あわわ……ちょっと姉さん、今の話は聞かなかったことにしてくださいよ」
「いいぜ……聞かなかったことにしてやるから、解毒薬よこせよ」
ほら、と琉葵は手を差し出す。
「そんなものありゃしませんよ! あはは!」
兎はさも可笑しそうに笑う。
「あんだと!」
琉葵はさっと兎を掴もうとしたが、兎はさっと身を翻す。
「あの花にはね、解毒薬なんてないんです……まあ、もう私が口を滑らせちゃったから、特别に教えますけどね」
兎はにやりと笑う。
「あの花の元は、我が主が囲ってる妖魔のべっぴんさんなんですよ」
「囲ってる? 愛人ってことか?」
琉葵は眉根を寄せる。
「愛人? あんな老いぼれにそんなもの……あはは! はっ、しまった、また口が滑った!」
「お前、アホか……それより愛人じゃねぇなら人攫いじゃねぇか……犯罪だぞ、それは」
琉葵は口元を手で覆う兎に、呆れたようにため息を吐く。
そのべっぴんさんってのが、うちの一族の者ならまた話が違ってくる……どうなんだ……
「んー……人攫い……なのかなあ? それだとなんかこう、悲劇のヒロインっぽいですよね?」
兎が首を傾げる。
「……いったいどんな感じなんだよ」
「いや! いやいや! これ以上はちょっと……」
琉葵はイラッとして兎を睨む。
ガツッ……
兎の右横にあった岩が緑色の太い茎に鋭く射貫かれ、ボロリと割れた。
「ぼ、暴力反対!」
兎は琉葵が放った攻撃に狼狽えた。
「お前さ、緑王の王族怒らせんなよ? 私なんか弱い方なんだからな、これでも! そんでもって、今回はうちのバカ坊主の命がかかってんだよ! わかったらさっさと解決策考えろ!」
次々と茎に射貫かれて割れる岩に、兎は飛び上がる。
「かっ、解決策は、一つしかありません! べっぴんさんを地下からひきずりだし、帰ってもらうことです!」
「ひきずりだす?」
琉葵は眉をひそめる。
「なんだその言い方は……その女は、お前の主に幽閉されてんだろ?」
「始めはそう思ってたんですけどね、私も」
兎ははぁとため息を吐いた。
「だいぶ前から主は骨抜きにされてましてね……おそらく今じゃ、会話もろくに出来やしないと思いますよ?」
兎の黒い瞳がつやりと光る。
「おい……そいつ……本当に妖魔か?」
嫌な感覚が琉葵を襲う。
山の主に囚われている哀れな女のイメージが一変し、主を誑かす魔性の女に変わる。
「人っぽく見えるから、妖魔でしょ?」
兎は首を傾げる。
「アホか! アヤカシとか魔族だってな、力ある奴ぁ人の外見に似せられるんだよ!」
「そうなんですか? まあ、もうアヤカシでも妖魔でも魔族でもなんだっていいですよ、この際……あのべっぴんさん、なんとかしてくださいよ!」
「あのなぁ、頼んでるのはこっちなんだよ……なんでお前が私に頼んでるんだ、おかしいだろ……」
言いかけ、琉葵はさっと顔色を変えた。
「空気が……」
琉葵は口と鼻を手で塞ぎ、眉根を寄せる。
先ほどまでは微塵も感じられなかった、爽やかで微かに甘い花の香りがあたり一面に広がっている。
「まっ、まずいですよ! 気づかれましたよ、これは!」
兎はおろおろし始めるが、やがてとろんとした目つきになり、動かなくなった。
幻覚?
琉葵は兎を抱え、宙に向かう。
山から離れてしまえば、ひとまずなんとかなる!
ぐんっ!
「なに⁉」
山に引き寄せられる足を見ると、緑の蔓が足に絡まっている。
あの花か!
琉葵が睨んだ先は、怪しげな薄紫の靄がかかっている。
足元に絡みついている蔓のような茎は、花の方から伸びていた。
ぎゅんっ!
突然、琉葵の体が勢いよく花の方角に引きつけられていく。
「まずいっ」
茎を振りほどけない琉葵の目に、まるで
さっき見た時は、あんなんじゃなかったのに!
くらくらする頭で琉葵は攻撃しようとするが、引き寄せられるスピードが早すぎてそれは難しそうだった。
切られる!
ダンッ! ブツリッ!
何かがちぎれる音が聞こえ、その足に液状のものが飛び散る感覚が生じる。
この幻覚の靄のせいか、痛みを感じない……
琉葵は薄い意識の中、ぼんやりとそう思っていたのだった。
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