山頂に咲くその花に触れてはいけない

鹿嶋 雲丹

第1話 ただ一つだけの花

 山頂に咲く、その花にだけは触れてはならない。

 それは、妖魔の一族である“緑王りょくおう”の民の間で語り継がれてきた話だった。

「近づくなって言われると、逆に近づきたくなるんだよね」

 一人の少年がその山頂に降り立つ。

 少年の成りはまるで十歳前後の人間のようだ。丸い大きな瞳は明るい黄緑色、髪の毛は少し癖のある深緑色だ。

 その容姿は、彼が緑王と呼ばれる妖魔一族の民である証拠だった。

「うわあ、なにここ! 一面茶色だらけじゃん!」

 きょろきょろと辺りを見回して、少年は叫んだ。

 周囲の山は緑豊かで、高山植物も数種類咲いている。この山だけが、異様で不気味な雰囲気を醸し出しているのだ。

 その焦げ茶だらけの山肌に、まるで胸を張るかのように気高く咲く花が、少年の目に飛び込んでくる。

 高さは十センチ程で、花びらの形は岩桔梗によく似ていた。

 それはまばゆい程に白く輝き、茶色い風景の中でひときわ目立っている。

「きれいだ……」

 美しく気高いその花に、少年は瞳を輝かせた。

『山頂に咲く、その花にだけは触れてはならない』

 脳裏にそう語る長老の顔が浮かんだが、少年はすぐにそれを打ち消した。

「あんな話、迷信に決まってるよ……」

 少年は花に顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。

 爽やかで微かに甘い香りが少年の鼻孔をくすぐった。

「いい匂いがする……この花、他の山には咲いてないんだよなあ……土が特殊なのかなあ?」

 少年はうっとりとした表情で呟き、なにも考えずにその花に手を触れた。

「痛っ……」

 その瞬間に湧き上がった鋭い痛みに思わず手を引っ込め、少年は眉根を寄せて痛む手のひらを見つめる。

「棘があるわけじゃないのに……なんだろう?」

 だが、ほどなくしてその痛みは消えてしまう。

『山頂に咲く、その花にだけは触れてはならない』

 里の長老のしわがれ声が少年の頭にぐるぐると回り始める。

 その場に立ち尽くす少年の胸が、サッと冷たくなると同時に体がカッと熱を帯び始める。

 その熱は少年の身に異常事態が発生したことを知らせるシグナルであった。


「はあーあ、めんどくさい……なんでこの私が、わざわざ動かなきゃならんのかねぇ……なんの得にもなりゃしないってのにさ」

 切れ長の明るい黄緑色の瞳は、彼女のやる気のなさを如実に表していた。

 深緑色の短い髪の毛はストレートで、一部だけ伸ばした部分をシンプルな飾りで括っている。

琉葵りゅうき様、本当に申し訳ありません」

 リュウキ、と呼ばれた緑王の娘は申し訳なさそうに肩をすぼめる若者を睨みつけた。

「まったくだ! お前の弟があの花に手を出したりするから!」

 琉葵から怒鳴りつけられ、若者は更に体を縮ませる。

「長老から口酸っぱく言われてただろうに……あの花にだけは触るなって……反抗期か? お前の弟は?」

「は、反抗期というか……ちょっと猪突猛進なところがありまして……」

 男は言いにくそうに言った。

「……で? 様子は変わらずか?」

 琉葵は鋭い眼差しを男に向ける。

「……はい……高熱を出したまま下がらず、妖力はどんどん失われています」

 男の表情は苦しげなものだった。

「我が一族の薬担当、かずら家の薬を使ってもどうにもならないんだものな……」

 琉葵は忌々しげに呟いた。

 その脳裏には葛家の年若い双子の兄妹の姿が浮かんでいる。

「あいつらの薬が効かないなら、もうお手上げだろ」

「そっ、そんな!」

 あっさりと匙を投げる琉葵に男は顔色を失った。

「……って言いたいとこだけど……」

 はぁ、と琉葵は大きなため息を吐いた。

「民の困り事を解決するのも、王族の勤めだからなぁ……しっかしなんだって私の当番の時にめんどくさそうなのが回ってくるかなぁ……姉様や陽葵ひきの時に起きりゃあ良かったのに」

 ヒキ、とはあおい家三姉妹の末娘で琉葵の妹である。

「……桜花おうか様がいらっしゃれば……」

 男は俯き、呟く。

 その一言に琉葵はキッと目を見開き、畏まっている男の胸ぐらを掴んだ。

「貴様、桜花姉様のことを口にするんじゃない!」

「……も、申し訳ありません……つい……」

 琉葵の脳裏に気高く優しい笑みを刻む女が浮かぶ。

「桜花姉様は、私がただ一人憧れ、尊敬する女性なんだ!」

 ……それを、あの男が……あの男さえいなければ……

 琉葵は言葉を飲み込み、悔しげに歯を食いしばった。

「……私が男だったら……絶対に桜花姉様を奪い取ってやるのに!」

 琉葵は叫び、男の胸ぐらを掴んでいた手を離した。

「り、琉葵様、どうか弟をお救いください! お願い致します!」

 乱された襟元を直しもせず、男は平伏し琉葵に懇願する。

「……チッ、わかったよ」

『……琉葵……私が留守の間の守りは任せたぞ……民の声を聞き、手を貸すのも我ら王族の勤めだからな……』

 凛とした微笑、凛とした声音。

 緑王一の強さを誇るさくら家の一人娘、桜花。

 憧れてやまない彼女から託された思いを、無下にはできない。

「ありがとうございます!」

 男は瞳を潤ませ、額を床につけた。

 それを横目で見つめ、深いため息を吐きながらも琉葵は覚悟を決めていたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る