エピローグ
エピローグ
結局、キャロの行方不明は単なる家出という風にして内々に処理された。
ただ、顕学院にどこかしらからの圧力があったようで、目立った罰則はなし。
本来、寮の規則をここまで豪快に破ったのなら、退学まで十分に考えられただろう。
また、お見合いの話も完全に白紙に戻ったらしかった。
お父さまとはじっくりと話をしたようで、『まだ完全にわかってもらったわけじゃないわ』と言ってはいたものの、ひとまずわだかまりはなくなったようだった。
何の変哲もない珈琲カップを傾けて、ふむ、とミスタ・ホームズが息を一つ。
本格的な冬を迎えつつある倫敦の街はかなり寒さが目立つようになっていた。
「……悪くないな。最初の時と比べたら段違いだ」
カチャリとカップをソーサーに置いてミスタ・ホームズは言った。
「コツを教えてもらったんです。ミス・レディーコートに、おいしい珈琲の淹れ方」
「流石、マメな顕学院の学生といったところか?」
茶化すような口調ではなかった。率直な感想なのだろう。
キャロとのことが落ち着いた今日。
私は久しぶりにベイカー通り221Bを訪れていた。
正直を言うと、もしかしたらこの場所にはもう来られないんじゃないか……この場所はなくなっているのではないかと思っていたのだけれど、そんな私の予感はものの見事に外れた。
閉まったままの一階の店に、二階へと続く階段。
上った先にある扉に鍵はかかっておらず、開けるとミスタ・ホームズは新聞を広げていた。
あまりにも変わっていない状況に呆気を取られていた私をミスタ・ホームズは一瞥すると、「来たのなら、珈琲を淹れてくれ」と頼んだのだった。
自分用にも淹れた珈琲を持って、来客用のソファへと腰を下ろす。
何となく会話の糸口が見つけられず、しばらく黙って珈琲を舐めていたが、それに見かねたようにミスタ・ホームズの方から口を開いた。
「嬢ちゃんの様子に変わりはないか?」
「え?」
「キャロル・ルイスと言ったか」
「ええ、特に変わったことは何も。あの時のこともはっきりと覚えていて……あやふやにもなってません。てっきり、あの時の記憶くらいは消えてしまうんじゃないか思ってたんですけど……」
「本来なら俺の放った弾丸であの少女は消える運命にあった。ベッティ・ハイドリッヒと同じようにな。それを、永遠の少女であるお前が直々に遮ったんだ」
そう言うミスタ・ホームズはどこか不機嫌そうに思えた。
「どこまで話したんだ、幻影都市について?」
「ほとんどしゃべってません。かいつまんで、ちょっと説明したくらいで」
もちろん、それだけではキャロの疑問は到底解決されなかっただろう。
キャロ自身にもあまりにも不思議なことがことが起こりすぎている。
それでもキャロは深く聞こうとはしなかった。
私としてもそれで良いのではないかと思う。何もかもを知っている、ということが必ずしも幸せであるとは限らない。
もっとも、今度はちゃんと不安にさせないように十分に気をつけている。
親友としての時間は長くとも、まだまだ『そういう関係』……つまるところ、恋人になってからは間もないから、お互いに距離の取り方がよくわからない。
おかげで、二人して手探りでおっかなびっくり。
キス一つするのだって心臓が破裂しそうなくらいに緊張してしまう。
それでも、手だけはちゃんとぎゅっと握っている。この手さえ離さなければ、もう二度とあんなことにはならないだろう。
「あまりキャロを不可思議なことには巻き込みたくないんです。訳がわからない存在なのは私だけで十分ですし。ただ、私がミスタ・ホームズの手伝いをしている、とだけは言いました」
「……無駄なことだな」
ミスタ・ホームズはポツリと言うと、カップを大きく傾けて一気に珈琲を飲み干した。
「無駄なこと?」
「ああ。お前は嬢ちゃんをちょっと助けただけのつもりだろうが、お前には紛れもない力がある。それはあの嬢ちゃんをはっきりと捉え、こちら側に引き寄せるには十分だっただろう。そして、幻影都市の申し子がそこまでして選んだともなれば、幻影都市もそれを受け入れざるを得ない」
どういうことだろうか?
疑問に思ったけれど、その言葉は呑み込んでおく。今はとにかくキャロが助かったというだけで満足するべきだ。
私はこれからもミスタ・ホームズの近くでこの倫敦という都市の幻影の部分を見ていくことになるのだろう。
わからないことがあったとしても、これから先、いやがおうにも知ってしまうことになるに違いない。今、焦ってそれを知ろうとする必要性はどこにもない。
ミスタ・ホームズは飲み終わったカップとソーサーを机に置くと、パイプを取り出して煙草を詰めた。火をつけ、味わうように息を吸う。
紙巻き煙草とは違って舌の上でしっかり味わうように堪能してから煙を吐き出した。
白い煙はゆらゆらと部屋の中をゆっくりと漂って、徐々に空気の中へと霧散していった。
「……ミスタ・ホームズ。幻影都市とは何なんですか?」
「今更だな。最初にここを訪れてから今日まで、お前が見てきたモノが幻影都市だよ。親愛なる女王陛下。そして、ドクター・ドイルや、その他幾らかの人間が模索して造り出した、人の可能性を無限に吸収して成長を続ける、約束された繁栄の都市。世界の中心だ」
「………………」
約束された繁栄の都市。
女王陛下に愛された、世界の中心。
どちらにしろ、私にはスケールの大きすぎるもののように思う。
そんなことを思いながら、ちびりと珈琲を飲んだ私の耳に階段を上がってくる一つの軽快な音が聞こえた。
……いや、一つじゃない。軽快な足音の後に、ぎしりぎしりと階段を軋ませながら上がってくるもう一つ別の足音がある。
来客?
ミス・レディーコートだろうか?
そう思うのと同時に、ワトソン専用の小さな出入り口からワトソンが我が物顔で入って来て、扉の向こうからは声が聞こえた。
『あ、ちょっと! 勝手に入って……って、ネコ用の入口があるってことはここがあの子の家で間違いないのよね?』
その声に思わず目が点に変わってしまう。
次いで、少し迷ったような間があってから、トントントン、と三つのノックの音。
『あの、すいません。下の扉を開けた者なのですが……』
ミスタ・ホームズを見やる。
しかし、彼は不機嫌そうな表情のままその言葉に返答するつもりはないようだった。
そうしている間に、ドアノブが回り、『鍵、開いてるのね……』という独り言が聞こえてくる。
ゆっくりと扉が開く。おずおずといった様子で顔を出したのは、この倫敦において私が一番と言っても良いほど見知った顔だった。
その顔が、「え?」と呆気に取られる。
「アリス……? どうして、アリスがこんなところに?」
「……いらっしゃい、キャロ」
こちら側に引き寄せるには十分だっただろう。
先ほどのミスタ・ホームズの言葉の意味は、こういうことだったのか。
彼女の告白を受け入れ、私がその手を取った瞬間から彼女も幻影都市を知る人物……もしかしたら幻影都市の一員となってしまったのかもしれない。
であれば、このベイカー通り221Bを訪れることが出来たって何の不思議もない。
一方のキャロは、奥に座っているミスタ・ホームズを見つけて、少しだけ顔がこわばらせていた。
……さて、ミスタ・ホームズは丁寧な説明をするつもりは毛頭ないようだし、ここは私が一から説明をしないといけないのだろう。
しかし、いくら一度幻影に呑まれたとはいえ、傍から聞く分には荒唐無稽な絵空事のようにしか思えない話を彼女は素直に信じてくれるだろうか? しかも、疑問や納得のいかないことがあったら、なぁなぁで済ませてしまうような私とは違い、しっかりと追及してしまうキャロだ。
もしかしたら、これは相当難しいことなのかもしれない。
「えーと……シャーロック・ホームズ探偵事務所にようこそ。キャロ、ひとまず珈琲でもいかが? こう見えても私、結構上手に淹れられるのよ?」
でも、こういうものはなるようにしかならない。
私に出来ることと言えば、知っているだけの真実を愛しい彼女に出来るだけわかりやすく話すことだけだ。
私はそう腹をくくると、ソファからゆっくりと立ち上がった。
幻想都市のアリス 猫之 ひたい @m_yumibakama
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