ブラッディ・ライアー

 しんと静まり返ったリビングに、暖炉の中で薪が弾ける音がパチパチと響く。

 時計をちらりと見るが、もう時刻は十五時を回っていた。私はため息を吐きたい気持ちをどうにか堪えて窓際にちらりと目をやった。

 父がパイプを吸わない人だからと伝えたからか、ミス・レディーコートは家に入ってから一本も紙巻き煙草を口にしていない。それが一層彼女を焦らしているように思えて、どこか申し訳なく思ってしまう。

 紙巻き煙草一本で今の空気がどうにかなるとは思えなかったけれど、それでも一応の沈黙の理由にはなるだろう。

 マグカップに入った冷めた珈琲を飲んで目を閉じる。

 この沈黙はいつまで続くのだろう?

 そう思ったのが、彼女に伝わったのかもしれない。


「あの坊や……マクベス君って言ったかしら? 彼、本当に信用に足るだけの子だったの?」


 疑うわけじゃないんだけどね。

 そう付け加えてミス・レディーコートはカップに口をつけた。


「たかが十シリングとは言え、スラム区での十シリングは中央区の十シリングとは価値が違うわ。持ち逃げされたって可能性は?」

「ないと思います。一応公立学校の時からの付き合いですし、彼の人となりはそれなりにわかっているつもりなので。少なくとも、そういう嘘をつく子じゃありません」


 だが、ミス・レディーコートが思わずそう言いたくなる気持ちも十分に理解出来た。

 昼過ぎと言ったのに時間はもう夕暮れが近くなりつつある。これが見ず知らずの相手だったらば、十中八九騙されたと思っているだろう。


「まぁ、仮にあの子が嘘を言っていなかったとしましょう。それでも、ここでこうしていても時間は無為に過ぎていくだけよ? 私もいつだって付き合えるってわけじゃないし、出来れば時間は有効活用した方が良いように思うんだけど」

「それは、また別の人をスラム区で雇う、ということですか?」

「端的に言ったらそうなるわね。情報を探すのには足が多いに越したことはないもの」


 それは確かにそうだ。

今持っているお金でスラム区で新しく人を雇って情報を収集してもらう。それが出来ないことはない。

 ……でも、それじゃあその人がアル君以上に信頼のおける人間である確率は?

 そもそも、そんな人を上手く捕まえられる保証は?

 そんな考えが頭に浮かんで逡巡してしまう。

 ノックの音がしたのは、ちょうどそんな会話をした時だった。


『アリスねーちゃん、いる?』


 その声色は決して明るいものではなかった。

 ミス・レディーコートと一瞬視線を交わし、鍵を開けてドアを開く。立っていたアル君の表情は非常にバツが悪そうなものだった。

 そんな顔とさっきの声色。

 結果は想像出来たが、私が何かを言う前に彼は「ごめん!」と大きく頭を下げた。


「……あれだけ言っておきながら、全然情報を集められなかった」


 私とミス・レディーコートを前に、彼は落ち込んだ表情のままそう正直に言ってくれた。


「正確に言えば、そのキャロル・ルイスっていう人の情報はあったんだよ。ルイス子爵家の一人娘で、顕学院の文学科所属。時折新聞や雑誌にも投書していて、将来の夢は文筆家。実際、中央区の文学サロンにも頻繁にじゃないけれど顔を出している。趣味は劇場に通うこと。噂好きで、スキャンダルのネタにはかなり精通してる」


 ミス・レディーコートが私を見やる。私はそれに小さくうなずいた。

 彼が並べた言葉は、どれもまさしくキャロのことを表していた。間違ったことは一つもない。


「だけど……」


 アル君は大きく肩を落として言葉を続けた。


「この二週間の情報は全くなかったんだ。目撃情報も何も、彼女が立てただろう足音の一つの情報さえも出てこない。倫敦のことならネズミの数だって知ってるようなヤツだって、その姿を掴めなかった。自分を正当化するつもりはないけど、二週間前を境にこの世界からいなくなったって言った方がしっくりくるくらいなんだ」

「そう……」

「……ごめん。金だけ取っておいて、こんなことになるとは思わなかった」

「ううん。アル君、そんなに気にしないで」


 努めて明るい声で私は言った。


「なんとなくだけど……そうかもしれない、って思ってたから」


 それは嘘でも強がりでもなかった。

 予感と言うには大層だったかもしれないけれど、こんなことであっさりと情報が手に入ってキャロの居所が掴める……そんなことであれば、たぶんスコットランド・ヤードがとっくに居場所を突き止めているようにも思えた。

 そんな私の表情がどうだったかはわからない。けれど、そこでアル君は唇を噛んで少し悩んだ様子の後、


「よし」となにか決意を新たにした。


「アリスねーちゃん、この家にそれなりに高価なお酒ってある?」

「お酒? それならお父さんのがあるけれど……」

「このままじゃおいらの沽券にも関わる。こうなったら、とっておきの人の所に連れてってやるよ」

「とっておき?」


 首をかしげる。

 ミス・レディーコートはカップを傾け何も言わなかったけれど、細められた目には疑念の色があるように思えた。


「正直、この人を知っているのはスラムでもほとんどいないんだ。怖いくらいにモノを言い当てる情報屋さ。いや、情報屋っていうか、占い師とか預言者って言った方が良いのかもしれないけど……」

「占い師……私はあんまり交霊会とかには詳しくないんだけど……もちろん、出たこともないし」

「そういうパチモンと一緒にしたら罰があたるぜ。こればっかりは信じてもらうしかないけど、会ってみて損はないと思う」


 正直に言うなら、私はあまり占いというものを信じてはいなかった。

 キャロは興味半分に交霊会に参加したことがあったみたいだけど、翌日「いい年した大人たちのお遊戯会よ」と呆れ口調に言っていた。

 しかし、かと言って無下にして良いものかもわからない。

 お調子乗りではあっても、彼はあまり無責任な言葉をポンポンと口にするタイプじゃない。


「……わかった」


 元よりダメ元のつもりだ。ここで多少遠回りしても、結果は大して変わらないだろう。


「アル君がそこまで言うなら会ってみる」

「よしきた。百聞は一見にしかず。お酒を一瓶持っておいらに付いてきて」


 今度はアル君が先頭に立ってスラム区を目指す。私とミス・レディーコートは無言で彼の後を付いて行った。

 案内された場所はスラム区の中でも人気のない場所だった。

 スラム区は悪い意味でどこも混雑しているのに、ここにはそういった人混みがない。そういう意味ではどこか誰も知らないベイカー通りと似た雰囲気があった。

 アル君は余程警戒をしているようで、ただでさえ人通りが少ない路地の中でちょうど人が誰もいなくなったところでそのアパートの地下へと私たちを招き入れた。

 腐敗臭が充満したスラムの中にあってなお、薄暗い地下はアルコールの臭いで満たされていた。ひたひたと僅かに湿っている地面が全てアルコールなのではないかと思えるくらいだ。

 半分朽ちた扉をノックしてアル君が向こうに話しかける。


「ブラッディ・ライアーのおっちゃん? いるか?」


 すると、『おう』と随分と太い声が返って来た。


「依頼人を連れて来たんだ。邪魔するよ」


 扉を開くと、お酒の臭いはさらに一層濃いものに変わった。

 奥の部屋で壁にもたれれる形で座っているのは一人の初老の男性だった。

 つぎはぎだらけのジャケットに、裾が擦り切れたズボン。なのに、頭には高価そうに見える一枚布で作られたハンチング帽をかぶっている。

 顔はこの辺りでは見ない顔つきだった。彫りが浅く、顔全体がどこか平べったい印象を受ける。東洋の国に多そうな顔つき、だろうか? 今も随分酔っているらしい。アルコールの臭いがすごい。

 そんな男はアル君の後ろに私たちがいることを見止めると、細い目をさらにすっと細めた。


「……アルバートの坊主、この嬢ちゃんたちが依頼人かい?」


 目を細めたままおもむろに問いかけてくる。


「依頼人はこっちの、ブロンドの髪のお姉さんの方。名前はアリス・リトルバード。人を捜しているんだ。これがその人の写真。アリスのねーちゃんと一緒に写ってる人を探してるんだけど……」


 ブラッディ・ライアーと呼ばれた男性は渡された写真を受け取ると、ハンチング帽をとり、白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた。

 十秒ほどじっくりと写真を眺めた後で、


「……なるほど、こいつは一筋縄ってわけにはいかなそうだな」


 ポツリと独り言のように呟いた。

 ハンチング帽をかぶり直し、角張ったあごを一撫でする。


「おっちゃんにも難しい?」

「難しいか易しいかと言われれば難しい。だが、やってやれないことはないだろう。あー……アリスと言ったか、お嬢ちゃん。お代はちゃんと持って来ているか?」

「どういった類が良いのかわからなかったのですけど、これで大丈夫ですか?」


 一本のウイスキーの瓶を差し出す。

 父には悪いけれど、棚から一本を勝手に拝借させてもらった。

 自分はお酒の知識についてはさっぱりだから、封の開いていないものを適当に選び取った。高いお酒を収集する趣味を父は持っていないから、そこまでの高級品ではないかもしれないけれど、混ざり物があるような安物でないことは確かだ。


「一応、お金も持ってはいますが……」


 彼はそれを見て、何度かうなずいた。


「いや、これで良い。一つやってみよう」


 言って、ブラッディ・ライアーはアル君に対してあごで扉を指し示した。それに従うように彼は部屋を出ていく。


「……これは、私も出て行った方が良いのかしら?」

「ああ。悪いが、刑事さんも外で待っていてくれるとありがたい」


 瞬間、空気が研ぎ澄まされる。

 ミス・レディーコートは紙巻き煙草を取り出すと口にくわえた。ただ、このアルコールで充満した中でマッチを擦るような危ない真似はせず、ただそれを食むだけに留める。


「……どこかでお会いしたことが?」

「いいや。だがまぁ、そのくらいは察せるもんだ。その外套の下には物騒なもんも入っているな?」

「………………」

「それに、今の雰囲気で確信した。お前さんがスコットランド・ヤードでも一目置かれているレディーコートとやらだろう?」

「だとしたら?」

「いやいや、そう怖い目をしないでくれ。一応俺もこんな所に住んで、こんな商売をやってるんだ。情報は入ってくるし、変な意味での勘が冴えてきちまうのは仕方がないってもんだろう? 心配しなくても、その嬢ちゃんに何かしようだなんて気はさらさらねぇ。万が一何かあったら、その物騒なもんで俺を撃ってくれても構わねえからよ」


 紙巻き煙草をその手に挟んでミス・レディーコートはゆっくりと扉から出ると、一瞬の視線だけを残して扉を閉めた。

 空間が閉ざされると、お酒の濃度が上がったようにむわりとした熱気が身体を包んだ。二人だけになった沈黙に、しとしととしたアルコールが降ってくる。

 まるで異空間へと誘われているかのような異質な感覚。


「お嬢ちゃんは、この倫敦が幻影都市と知っている口の人間だろう?」


 些細な雑談をするように彼は言った。


「幻影と幻想が入り混じった、混沌の都市。平等に愛を分けあたう女王が施政する寵愛都市」

「……はい」

「俺には不気味にしか思えねぇよ、この街は。これだけ人が増え続けているにもかかわらず、その大半はこの都市の半分が幻想であることを知らないで生活をして、知らないままに死んでいく。とんでもない不協和音を奏でているのにほとんど誰も気付かない。まぁ、普通の人間なら気づいた瞬間に頭のネジが飛んじまうから、それも仕方がないと言えば仕方がないのかもしれねぇが」

「そうなんですか?」


 聞くと、彼は片目をひくひくとさせ、静かに、されど絡みつくような視線を向けて来た。


「なるほど……お嬢ちゃんの出自も気になる所だが、まぁ、先に依頼を片付けるとするか。アルの坊主にも見つけられなかったんだろう? こっちの……」

「キャロルです。キャロル・ルイス」

「キャロル・ルイスか。貴族の連中を探すっていうのはいまいち気が乗らないが、アルの坊主には結構世話になってるからな。お嬢ちゃんがどう思っているかは知らないが、アルの坊主の情報網はスコットランド・ヤードにだって引けを取らない。ことスラムに関しては坊主の方が上だろう。それなのに俺を頼って来たってことは、この幻影に呑まれている可能性が高いだろうな」

「幻影に呑まれている……」

「良いか? どんな結果が出ても俺を恨んでくれるんじゃないぞ。俺はひょんなことから片足を突っ込んじまったためにこんな芸当が出来るようになっただけのアル中野郎だ。女王陛下のようにこの街を創れるわけでもなければ、巷で噂のシャーロック・ホームズのような街の守護者というわけでもない。ただの一般人だ」


 彼は傍らに置いていたバッグの中から数十本はあろうかという細長い棒を取り出した。それをじゃかじゃかと振り、床に振り撒く。そして、先ほど手渡したウイスキーの瓶を開けると、撒かれた棒にふりかけていった。

 十分にお酒が染み込むのを待った後で再び棒を集めて束にすると、無造作に両手に分けて、右手から六本の棒を床に落とす。

 それを見て、ふむ、とうなずき、今度は左手から五本の棒を落とした。

 何をやっているのか私にはさっぱりわからなかったが、アル君は彼のことを占い師と呼んでいた。と言うことはこれは占いの一種なのだろう。

 倫敦ではこんな占いは見たことがない。彼の外見からするに、西洋ではなく遠く離れた東洋の術なのだろうか?

 彼は左右に分けていた棒を再び両手に握り、先に落ちた十一本の棒の上から三本の棒を落とした。からんと音を立てて落ちた二本は他の十一本と同じ方向に並んだが、残りの一本はまるで残りの棒を貫くように横に落ちた。

 何か意味があるのか、そこで男は少しの間黙りこむと、スンと一度鼻を鳴らして私に問うてきた。


「嬢ちゃんはそのキャロルとかいう御令嬢と相当親しいみたいだな」


 男の目が真っ直ぐに私を射抜く。ただの時間つぶしの雑談というわけではなさそうだ。私は「はい」と力強く答えた。


「親友です……それこそ、かけがえのない」

「……そうか」


 それだけを言って男は横に貫いた一本の棒を残して、他の十一本をどけると、両手に持った棒を私に差しだしてあごをしゃくった。


「嬢ちゃんが持ちな。それで強く相手のことを想うんだ。目を閉じて、この世界で誰よりも強いくらいに想って、残りの棒をそこに横になっている棒の上に落としてみろ。それで占いはおしまいだ」


 棒の束を受け取る。トクトクと心臓が早打つのがわかる。

 アルコールに少しあてられているのかもしれないが、それだけではないようにも思う。この雰囲気が……そう、まさしく最初にベイカー通り221Bを訪れた時のもののように思えた。耳の奥で熱が回る。

 目を閉じて、キャロを想う。

 キャロ。

 キャロ。

 今、あなたはどこにいるの?

 何を考えているの?

 どうして、何も言わないでいなくなっちゃったの?

 私には何も出来なかったの?

 力には、なれなかったの?

 取りとめのない疑問が浮かんでくると同時に両手から自然と力が抜けて棒がからからと落ちていく。

 全ての棒が落ちた所で目を開く。

 ばら撒かれた棒は無造作に落ちているようにしか見えなかったが、ブラッディ・ライアーは大きく唸って口に手をやった。


「……やっぱり呑まれてるな、これは」


 ハンチング帽の上から頭をなぞる。

 それから数度口を開いて、頭の中の言葉を探すように視線を動かしてから言葉を続けた。


「この都市が幻影都市だと知っていると言ったな?」

「はい」


 短く言葉を返し、「まだ、はっきりとわかっているとは言えませんが」と付け加えた。


「いや。お嬢ちゃんは薄々分かっているはずさ。それを認め切れていない。変に培われてしまった……幻影ではない常識という枠を飛び越えることに恐怖をもっているから、それが出来ないだけだ」

「つまり、本質ではわかっているはずだ、と?」


 彼はうなずいた。


「恐怖を捨てた方が良い。そうしないと探し人は完全に呑みこまれ、本物の幻影となっちまうだろう」

「………………」

「探し人はお嬢ちゃんのすぐ近くにいる。隣にいると言っても過言じゃない。だが、それは姿があるっていう意味じゃない。存在が幻影と現実の狭間だ。そして、苦悩している。そんな自分の状況に、だ」

「キャロが……」


 静かな沈黙が辺りを包む。アルコールで湿気たような空気が冷たさと熱さの相反する二つを境界なく混ぜ合わせているように感じられた。


「しかし、お嬢ちゃん。気をつけた方が良い。お嬢ちゃんはご令嬢のことを親友と言っていたが、どうやらそれだけではない何かがある」

「それだけではない、何か?」

「ああ。それはきっと、お嬢ちゃんは知らないことだ」


 キャロが私に秘密にしていることがある。

 それはどういうことだろうか?

 ……確かに、お見合いのことなどは言われなかったし、もしこの間想像したようにキャロが誰かに恋心を抱いていたとしたら、それも私は知らされていない。

 そう考えると、私はキャロについて知らないことだらけのような気がした。

 親友で、何もかもをわかっているつもりでいたのに、そう思っていたのは私だけで、思ったよりキャロは重たい何かをずっと抱えていたのかもしれない。

 ……あぁ、これでは前にミスタ・ホームズの言っていた通りではないか。私はキャロのことなら何でも知っているつもりで……そう、思い上がっていた。


「そう悲しい顔をするもんじゃない」


 見ると、彼は細い目を柔和なものに変えて私を見やっていた。


「今知らなかったとしても、今から知っていきゃあ良い。親友。少なくともお嬢ちゃんがそう言い切れるんだ。例えご令嬢がどんなことを腹に秘めてようと、お嬢ちゃんなら受け止めてやれる。もっとも、こんな掃き溜めにいるような俺に言われてもなんの信頼も出来ねえかも知れねえがよ」

「………………」

「俺の生まれた国にはな、こういう文字がある」


 バッグから一枚のボロボロの紙切れと短くなった鉛筆を取り出し一つの文字を描いた。

 それは私の見たことのない文字で、どこか古の埃及(エジプト)にあったような象形文字を思わせるものだった。


「これは、親しい間柄の人間を表す文字だ。これがどういう成り立ちで出来たかわかるか? こんな完成された文字からは想像出来ないかもしれねぇが、こいつは右手と右手を繋ぎ合っている図から出来あがったもんなんだよ」

「手を繋ぎ合っている、ですか?」

「ああ。今、お嬢ちゃんはそのご令嬢と手が離れちまった。たぶん、前はきっちりと繋いでいたんだろう。それが……なんだろうなぁ……些細なすれ違いだとか、勘違い。もしかしたらただの思い過ごしってこともあるかもしれねぇ。とにかく、そんな些細なことが始まりで手が離れちまった」

「………………」

「そうなった時、どうすれば良いかお嬢ちゃんはわかるかい?」


 そう問いかけた彼に私は頭を回した。

 もし今、今まで築いてきたと思っていたキャロとの絆が……手が離れてしまっているとしたら、どうすれば良いのだろうか?

 どうすれば、再び彼女の手を取ることが出来るのだろうか?

 だけど、それに答えは浮かんでこなかった。

 右を見ても左を見ても何も見えてこない。まるで光も音も吸収してしまう暗闇の中に放り込まれたような気分になる。

 昔はきっちりと繋がっていたはずに思うのに、そう思っていたのは私だけで、いつの間にかキャロの手は私の手から抜けてしまって、再び掴もうとしても何の手がかりもない……それこそ、砂漠の中から一粒の砂金を見つけることのように思えた。


「そんな難しいもんじゃない。答えはなんてこたぁねぇ。ただ、手を伸ばせば良いんだ」

「ただ、手を伸ばす……?」

「ああ。ご令嬢だって今この瞬間に迷ってるんだ。自分の手を誰かに取って欲しくて、誰かにわかって欲しくて、ぐるぐるとひたすらに闇の中を彷徨っちまっている。だから、お嬢ちゃんはただそんなご令嬢に向かって手を伸ばせば良い。自分はここにいる。私はここにいる。そう想って、そう叫んで、必死に手を伸ばせば良い。これは占いとは関係ねぇ。俺の……まぁ、ろくでもねえ人生から得た経験だ」

「………………」


 らしくねぇことを言っちまったな。

 そう照れたように笑って、彼はウイスキーの瓶をあおった。


「まぁ、俺に言えるのはそのくらいだ」

「……ありがとうございます」


 気がつけば、私は心からの言葉を口にしていた。

 彼が伝えてくれたキャロに関することは、おそらくキャロがいなくなってしまったものがこの幻影都市だから起こることで、それは『怪異』と呼べるだろうということくらい。

 だけど、それ以上の何かを彼は私に伝えようとしてくれたのは確かで、それの幾らかは私に届いたような気がした。

 それに、この瞬間から何かが始まるに違いない。

 そんな予感が私の中には芽生えていた。

 もちろん、確信があるわけでも何かはっきりとしたものがあるわけでもなかった。

 それでも、今彼が占ったことによって……そう、まるで今まで止まっていた歯車がかちりと一つ動いたような気がするのだ。

 一つの歯車が動けば、周辺の歯車が合わせて動き始める。

 部屋を後にしようとした私に、彼は「最後に」と付け加えた。


「嬢ちゃんはご令嬢のことを心の底から信じてやりな。信じていれば、お嬢ちゃんは絶対にご令嬢を見つけることが出来るはずさ」


 彼の言葉に、私はうなずいた。

 アパートの地下から出ると、外ではミス・レディーコートとアル君が待っていた。

 私が出てきたことを合図にしたようにミス・レディーコートは食んでいた紙巻き煙草を地面に吐いて靴裏ですりつぶした。どのくらいの時間私があの占い師と過ごしていたのかはわからないけれど、地面には数本の紙巻き煙草が散らばっていた。


「それで、どうだった……?」


 どこか不安げな様子でアル君が問うてくる。


「そうね……詳しいことは言えないけれど、来て良かったと思う」

「なら、良かった。ブラッディ・ライアーのおっちゃんでもどうにも出来なかったら、おいらには完全にお手上げさ」


 時刻もいよいよ夕暮れになってきた。倫敦の大半の地区がそうであるように、ここも夜が近くなれば近くなるほど危なくなるだろう。

 アル君にお礼と、真っ直ぐに家に帰るよう軽い注意を言ってから私とミス・レディーコートはスラム区から中央区へと足を向けた。

 いくつかの通りを過ぎて、中央区に入った所でちょうど流しの辻馬車が横を通ったから捕まえようと手を上げかけたが、ミス・レディーコートが「ストップ」と私の手を止めた。


「アリスちゃんの家、ここからそんなに遠くないでしょう? 歩いてかない?」

「私は構いませんが……ミス・レディーコートはどうするんですか? 私の家の近くはあまり馬車が通りませんけれど……」


 スコットランド・ヤードの本部に戻るにしたって――今日は非番ということだから彼女の家に直帰するのかもしれないけれど、歩いたとしたら結構な距離がある。

 一応近くには乗り合い馬車が通る道もあったが、日が暮れてからの乗り合い馬車は数が少ないし風紀もよろしくない。


「私のことは気にしないで。大通りに行けば捕まえられるだろうし、その気になったら市警察の連中に頼んで用意してもらうから」


 彼女は私の先に立ってゆっくりとした歩調で歩き始めた。私は彼女の左隣りを半歩後ろで続いた。

 空は高く、吹く風は寒さを覚えさせる。所々に立っているガス灯には火が入れられ、暗くなり始めた街角を柔らかい色で照らしていた。

 キャロも、今どこかでこの風景を目にしているのだろうか?

 占い師さんはああ言ってくれたけれど、本当に私に彼女を見つけることが出来るのだろうか?

 手を伸ばせば、必ず彼女に届くのだろうか?

 ……届くのであれば、私はいくらでも手を伸ばそう。キャロが私の手を掴める所まで、見つけてもらえる所まで懸命に腕を伸ばしてみよう。


「アリスちゃん」


 見ると、ミス・レディーコートは火のついていない紙巻き煙草を口にくわえて私の方に視線を向けていた。


「今日からだけど、夜の間はうちの連中に頼んで見張ってもらうようにしておいたから」

「見張り?」

「あぁ、言い方が悪かったわね。見張りって言うか、警備みたいなもの。昨日の男を取り調べしたんだけど、あの男を雇った人間ははっきりとアリスちゃんを目標にしていたみたいだから。家にいる間は大丈夫だとは思うんだけど、念のためってこともあってね」

「そんな……少し大げさにも思えますけど……」

「そうでもないわよ。警察は善良な市民のためにいるんだもの。せっせか働かないと給料泥棒って罵られるからね」


 懐からマッチを取り出して紙巻き煙草に火をつける。

 たっぷり時間をかけて息を吸い込み、紙巻き煙草の先端から三分の一ほどが灰になったところで彼女は煙を吐き出した。

 白い煙が宙を漂って、吹いた風に霧散する。


「アリスちゃんは強いわね」


 ふいに言われて、彼女が一体何を言っているのかわからなかった。


「ホームズに、さっきの占い師……」


 歩みは止めず、のんびりとした歩調のまま彼女は続けた。


「それに、言っちゃえばアリスちゃん自身も、なのかしらね?」

「あの、何がでしょう?」

「うん? いや、そんな難しいことじゃないわ。ただ、この倫敦の幻影を知っている人とそれだけ付き合っているのに、あなたは物怖じ一つしていないっていうのが強く思えてね」

「それは……」


 初めてミスタ・ホームズと出会った時は恐怖感を抱いたが、それはある意味物理的なものだった。彼女の言うところの物怖じとは少し種類が違ったかもしれない。


「でも、ミス・レディーコートもそれは同じじゃないんですか? なんと言うか……常に余裕を持って、冷静に行動出来ている、と言うか……」


 お世辞のつもりはなかったが、彼女はその目を細めて苦笑をもらした。


「それは単に年季の差。アリスちゃんと会ったのはホームズのところが最初だったから、私もそっち側の人間と言うか……そういうのに慣れているように思えるかもしれないけれど、実際は全然なのよ。本当の私は臆病で小心者。さっきの占い師だって、私から見れば半分以上が闇に包まれた一種の化け物のように思えたんだから」

「それじゃあ、ミスタ・ホームズも?」

「彼だけは別格かもしれないわ。あれは完全に闇の中に姿を溶け込ませているくせに、表面に人っぽい薄皮を貼っているようなものよ。でも逆に、深く考えなければ何もない人と同じに付き合えるの」


 その例えに少しだけ納得する。

 ミスタ・ホームズの内面を見ようとすれば、それは完全なる暗闇をのぞきこむようなものだっただろう。今までも何度か彼の真意を探ろうとしたことがあったけれど、欠片も見えたことはなかった。


「だから、正直に言えばアリスちゃんも少し怖いの。永遠の少女……だったかしら? ホームズがあなたのことをそう呼んでいたことがあるけれど、知れば知るほどあなたの虜になってしまいそうに思えるわ。……言っておくけれど、冗談じゃないわよ? あなたには不思議な魅力がある。色んな人を惹きつける何かがあって……なんて言うのかしら、周囲の人々を魅了していくの。外見ってことじゃなくて、内面的な意味でね」

「買いかぶりじゃないんですか? そんな大層なものは何も持ってないですよ。私は、ただのアリス・リトルバードです」

「そう言ってみせられることが強さの一つなのかもしれないわね」


 髪に手ぐしを入れ、吸っていた紙巻き煙草を地面に落として彼女は空を仰いだ。

 つられて空を見るけれど、霧と煤煙の都市の名を持つ倫敦では星はほとんど見えない。薄ぼんやりとした月だけがかすれて見えるだけだ。

 それから、私たちは無言のまま歩いて、家まで帰ってきた。

 ミス・レディーコートの言った通り、そこにはすでに制服を着た巡査さんの姿があった。私よりは年上だろうけれど、まだ年若く見える彼はミス・レディーコートから受けた指示にはっきりとした口調で答え、家の中に入る私に整った敬礼までしてくれた。

 父はまだ診察が終わっていないらしい。

 診療所の部屋の灯りを一瞥して、台所で夕食の準備をする。

 とは言っても、ほとんどの下ごしらえは昼に帰ってきた時にやっていたから、そう手間がかかるものじゃない。

 診療所にいた人の数を考えると、父の診療は随分と遅くまでかかるだろう。

 私はさっさと自分の分の夕食を胃に収めて自室に戻った。

 ベッドに座り、飾り棚に飾ってある写真立てを手に取る。

 まだ写真に慣れておらず、少しはにかんだ表情を浮かべて立っている私に、キャロはキャビネットに腰掛けて私の肩に手を回して綺麗な微笑みを浮かべていた。

 ……この時にはもう、彼女は私には言えない何かを抱えていたのだろうか?

 笑顔の後ろ側で何かを悩んでいたのだろうか?

 写真立てを胸に抱いてベッドに横になって目を閉じる。

 彼女に、会いたくてたまらなくなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る