スラム区

 石炭雨が降った翌日というだけあって空は綺麗な青空が顔をのぞかせていた。

 いつものドレス調のワンピースだとスラム地区では目立ちすぎるだろうと思って、なるべく地味なスカートとジャケットを着合わせた。目立ちやすい髪もまとめて、こちらも地味なスカーフで覆う。

 念のため懐には小さな刃物を。ちょっとした細工をするくらいの小さなものだけれどないよりかはマシだろう。

 家を出て、さて、と意気込む。

 家からそのまま東に向かえば船の積み荷を下ろすドックを中心に出来た昔ながらのスラムが広がっているが、最近は人口が増えたこともあって、テムズ川を挟んだ倫敦中心街の南側にもスラムが広がっている。

 どちらから調べるのが得策だろうか……なんて考えるけれど、そんなことわかるわけもない。

 まぁ、元よりどちらも調べるつもりだ。どちらからだって関係ないだろう、と


「まさか、ホントに出てくるとは思わなかったわ」そんな声が聞こえてきた。


 見れば、診療所の壁にもたれかかるようにしてミス・レディーコートが紙巻き煙草を口にくわえ、どこかゲンナリとした表情でこちらを見てやっている。


「ミス・レディーコート?」

「その格好を見るに、ちょっと近所へお散歩とか、繁華街にお買い物っていう雰囲気じゃないわよね」

「あー……」


 そう言われて、遠回しに自分が叱られているとわからないほど愚昧なつもりはない。

 それはそうだろう。襲われたのがつい昨日。ミスタ・ホームズには、こそこそ嗅ぎまわるのは止めるように言われたのだ。

 そんな中、スラム地区に行こうとする人を責める人はいれど、褒める人などどこにもいないに違いない。


「あの、ミス・レディーコートはどうしてここに?」


 誤魔化すように笑顔を浮かべてそう問いかける。心境としては、いい年をしてるくせに子供染みた悪戯をしようとしていたら、犯行現場を正に目撃されたという感じだ。


「釘をさしてもあの娘は間違いなく言うことを聞かないだろうから、家に張りついていろ。昨日ホームズが私に言った言葉よ。おそらくは明日辺りスラム地区へと捜しに行くに違いない、とまで言っていたわ。私としては、流石にそんなことはしないだろうって鼻で笑ってやったんだけど……なんかここまであいつの言う通りになると少し癪ね。もしかして、二人して私をからかってたりする?」

「いえ、そんな……まさか」


 ミス・レディーコートは吸っていた紙巻き煙草を壁に押しつけて火を消し、吸い殻をその辺に放り投げた。

 あんまり診療所の前を汚して欲しくはないのだけれど……と内心思ったが、そんなことを言える立場じゃもちろんない。


「ちょっと前に貴女のことを優秀なエリートって褒めた気がするけど、あれ取り消そうかしら。襲われた翌日にノコノコとスラムに出向くのは、一般的にはバカって言うんでしょうし」

「で、ですけどミス・レディーコート。今日は丸腰じゃありません。護身用の武器も持っています」

「一応聞いておくけど、そういう問題じゃない、っていうのはわかってるわよね?」

「……はい」


 盛大にため息を吐くミス・レディーコート。

 今日は非番の予定だったんだけどねぇ、と私にぎりぎり聞こえるくらいの声で愚痴ている辺り、結構頭にきているのかもしれない。

 だからこそ、


「それで、東と南のどっちから先に行く予定なの?」


 そう聞かれた時は、頭にクエスチョンマークが浮かんだ。


「どっちって、スラム地区……ですか?」

「まぁね。そのつもりだったんでしょう?」

「それはそうですけど、ミス・レディーコートはそんな私を止めに来たんじゃ……?」

「止めたって聞く子じゃないでしょう、貴女は。それに今、はいわかりました、って家の中に戻られても、一時間後にはまた同じ格好をして出てきそうだし。それくらいはホームズじゃなくてもわかるわよ。それに、今日一日分の依頼料、前金で全額ホームズからもらちゃったしね」

「依頼料?」

「そ。流石に非番の日に無給で働くほどお人好しってわけじゃないからね、私も。でも逆に言えばお金をもらった以上、今日一日はあなたのボディーガードでもなんでも承るわよ。こう見えても、射撃と格闘術はスコットランド・ヤードで叩き込まれてるの。ちょっとしたチンピラ相手に遅れは取らないわ」


 そう言ってトレンチコートの片側を開いて見せる。その内ポケットからは拳銃のグリップがのぞいていた。

 少し垂れがちな目の奥に悪戯な仔ネコのような光が宿っているのがわかった。今まで知的で、あまり暴力的なモノを好まない人として彼女のことを見ていたけれど、思ったより実力行使というのも好きなのかもしれない。

 そういう意味で言えばミスタ・ホームズと気が合うのも納得出来た。


「さて、改めてどちらから行きますか、お嬢様?」


 ミス・レディーコートは、ルージュがきっちりと引かれた綺麗な唇を弓なりにした。



 良い意味でも悪い意味でも目立ってしまうミス・レディーコートがいる以上、あまり意味のないことかもしれないけれど、それでもなるべく人目につかないようにしながら私たちは東のスラム地区を目指した。

 近くまで馬車で乗りつけることも出来たけれど、場所としてはそう遠くない。わざわざ目立つ真似をする必要もないだろう。なるべく大きな通りを使って東へと進む。


「ねぇ、アリスちゃん。一つ聞くけど、アリスちゃん、そんなに滅多に……と言うより今までほとんどスラム、行ったことないんでしょう?」

「わかりますか?」

「そりゃあね。パッと見た感じは上手に装っているかもしれないけれど、スラムを知っている人からすれば丸わかりよ。まぁ、これは行った方がよくわかるか。それより、どうやって捜すつもり? まさか自分の足でこつこつと、なんてわけじゃないでしょう?」

「一応考えてだけはあります」


 今まで縁もゆかりもない場所ではあったが、ミス・レディーコートの言う通り何の当てもなく、というわけじゃない。

 倫敦にあるティーハウスのほとんどは中央区や、少しばかり高級なものは西地区にあったが、ドックが近いスラム区にも、風紀は悪いが一応ティーハウスと呼べるものがいくつかあった。

 一筋縄じゃいかないだろうけれど、なんとかそこで情報を掴んで……出来ればこのスラムに詳しい人を雇い入れる予定だった。

 なんでも、スラムではそれなりの対価を与えれば情報を買えるということを耳にしたことがある。

 つまるところ、今回の私のプランは自分の足でスラムを捜すと言うよりかは、スラムに詳しい人からキャロの情報を得るというものだった。


「なるほど。まぁ、悪くない方法だとは思うわよ」

「そうですか?」

「スラムはスコットランド・ヤードも手を焼いてるのよ。目の敵ってほどじゃないけれど、あまり良く思われてないことが多いし。お金はどのくらい持ってきた?」


 その問いかけに私は懐から布製の巾着を取り出して見せた。

 今まで父から与えられる小遣いをちょっとずつ貯めてきたものだ。


「これ、結構あるでしょう?」

「どうなんでしょう? 一応、持って来られる額は全部持って来たんですが……」


 私にとっては、どうしても手元に置いておきたい書籍を買ったり、キャロと演劇を見に行く際のチケット代――もっとも、今までキャロが私にチケット代を払わせたことなんてなかったのだけれど――のための虎の子だった。

 ただ、キャロの手がかりが見つかるのであれば虎の子が全部なくなったって全然構いはしない。

 大通りを東に進むとどんどんと空気が荒んだものになってくるのがわかる。

 住宅は手入れがされていないものが増え、石炭雨の跡が残っているものが多くなり、中には半分朽ちているようなアパートもある。道端には物乞いの老婦人が座り、臭いは鼻をつまみたくなってくる毛皮や魚、野菜の腐敗臭が漂い始める。

 噂には聞いていたが、実際に観察しながら歩いていくとその凄惨さがわかる。

 自分では結構頑張って貧乏な装いをしてきたつもりだったが、その考えは甘かった。先ほどミス・レディーコートが言った通りと言っても良いかもしれない。

 纏っている空気と言ってしまうと元も子もないが、装いだけ貧乏なフリをしても、自分が浮いている存在であるというのがひしひしと感じ取れてしまう。

 そうなると自分がひどく周囲の視線を引きつけているようにも思えてきて、私の足はだんだんと早足になっていた。

 父はスラム区も定期的に巡回しているようだったが、私は同伴を許されたことはなかった。

 それは私の身を案じて、ということもあるのかもしれないけれど、ある意味私がいることによって逆に人々を遠ざけてしまう可能性があったからかもしれない。私はここでは十分過ぎるくらいに目立ってしまう存在なのだ。

 しかし、今はそんなことを考えている場合じゃない。

 なるべく小道には入らず、開放的なティーハウスを見つけようと周囲に視線を見まわしていた、その時。


「ねぇ――」

「――――――っ!」


 唐突に後ろから声をかけられ、肩を叩かれた。

 昨日の恐怖がぶわりとよみがえり私はとっさに悲鳴を上げそうになった。

 肩に乗せられた手を振り払って飛びのく。

 次の瞬間、その手の持ち主と思しき人物が、ぐるんと宙を舞った。

 腕一本を抱え込むように掴んだミス・レディーコートが、あまり大きいとは言えない身体を丸めるように回転させると、その人物はいとも簡単に背中から地面に叩きつけられた。

 呻くような声。


「動かないで」


 言いながら彼女はその人物に体重をかけ、黒光りする銃身をその人間の眼前に突きつける。


「え……?」


 素っ頓狂な声に、その人物は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。

 相手は身体こそその辺の大人と変わりなかったが、顔にはまだ幼さが残り、少年と言える人物だった。

 事情は全くのみ込めていないようだったが、突き付けられた拳銃に表情が引きつっている。


「な、なに、これ?」


 その子の顔に私は見覚えがあった。

 いくらか成長したように思う彼は……


「……もしかして、アル君?」

「や、やっぱり、アリスねーちゃん……だよな?」


 助けを求めるように私を見やる。


「知り合い?」

「え、ええ……公立学校の時の後輩です」


 私の返答と、場に広がった空気を感じ取ったのか、ミス・レディーコートは構えていた拳銃を懐へと仕舞い、彼の身体から引いた。

 アル君は心底安堵したように細く長く息を吐き出してからゆっくりと立ち上がる。

 アルバート・マクベス。年齢で言えば五つほど離れていたはずだ。

 公立学校の生徒はほとんどが裕福でも貧乏でもない中間層の子供ばかりだったが、ごく少数ではあったけれどスラム区から通っている子もいた。彼もその一人だ。


「えっと……アリスねーちゃん、こっちの人は?」

「こちらはミス・レディーコート。スコットランド・ヤードの刑事さん」

「お巡り? なんでお巡りなんか連れてこんな所を歩いてるんだよ? しかも、そんな格好して。アリスねーちゃんみたいな人、こんなところにいたら身ぐるみ剥がされるだけじゃ済まないよ?」

「そうならないために私がいるんだけどね」


 ポケットから紙巻き煙草を取り出してミス・レディーコートが口にくわえる。

 火をつけると、彼女は息を吹きかけてマッチの火を消し、地面に落してからも念入りに足で押しつぶした。

 そこでふと一つの考えが思い浮かんだ。

 アル君は生まれも育ちもスラム地区。もちろんスラムについて詳しいだろうし、頼りにも出来るだろう。危ない橋を渡ってティーハウスの人を捕まえなくても済む。


「実は今、人を捜しているの」

「人を?」

「うん。スコットランド・ヤードとか市警察にも頼んでいるんだけど見つからなくて……あと探してないのはスラム地区だけだから、何か情報がないかと思って」


 アル君はふむ、と少し思案顔になった。


「その人を探して、ねーちゃんとそのお巡りさんが歩きまわるつもり?」

「そのつもりで来たんだけど……」


 その返答に彼は小さく手を広げてかぶりを振った。


「ダメだろうね。この辺の人はよそ者には口が堅いんだ。アリスねーちゃん……ましてや、お巡りが聞き回ったところで誰も本当のことは言いやしないよ。ここの連中はお巡りっていうのが何よりも嫌いなんだ」

「でしょう? だから、アル君にお願い出来ないかな?」


 そうくると思っていたに違いない。彼はにやりと小さく笑った。


「良いよ、おいらが探してやる。おいらならこの辺にも顔が利くし、アリスねーちゃんが探すより百倍は上手にやってみせれるよ」

「本当っ?」

「おいらは嘘は言わないよ。ただ……」

「ただ?」

「先立つものがなかったらそれも上手くはいかないんだよね。情報を聞くにも、これってもんが必要でさ」


 手でコインの形を作ってみせる。


「タダっていうのは厳しいね」

「それは一応わかってるつもり。いくらぐらい必要なの?」

「まぁ、このくらいは必要かな」


 彼は片手を広げて見せた。


「五ギニー……ってこと?」

「ちょっと、それはあまりにもボッタクリすぎって――」


 とっさに口を挟もうとしたミス・レディーコートを私は目で制して、会話を続けた。


「そのくらいなら大丈夫。今これだけあるんだけど、足りる?」


 私は懐から巾着を取り出してそのまま彼に手渡した。


「小銭ばっかりになってるけど、十ギニーくらいはあると思うから」


 その言葉に彼は目をまん丸くさせて、


「ちょ、ば、バカかよ、ねーちゃん!」

「バカって、何が? ……もしかして、それじゃあ足りない?」


 そう言う私に彼は、「ああ、そう言えばアリスねーちゃん、頭は良いくせにこういう変なところではとことんバカなんだよな」とぼやいた。


「冗談。一種のギャグ。五ギニーも必要なはずないだろう。一ギニーもあれば十分って言うか、十シリングもあれば山ほど情報を持って来れるよ」


 彼は小銭入れを開けて探ると、いくつかの硬貨を取って私に返してきた。


「本当、アリスねーちゃんは冗談が通じないな。そんなに簡単に人にお金渡すって、俺が悪いヤツだったらどうするつもりだったのさ?」

「そう言われても……」

「それとも、それだけ重要な人捜し、ってこと?」


 探るような目に私は力強くうなずいた。


「オッケー、任せといて。それで、捜して欲しい人はどんな人?」

「言葉で言うより見てもらった方が早いと思う」


 懐から一枚の写真を取り出して彼に手渡す。昨日も持ち歩いていた、私と一緒に写っているやつだ。


「この隣で笑ってる人?」

「ええ。名前はキャロル・ルイス。行方不明になったのは二週間前」

「雰囲気からすると貴族らしいね」


 その時点で彼はもうすでに自信の笑みを浮かべていた。


「こんな目立つ人ならおいらの情報網のどっかしらには引っかかるはずさ。スラム地区どころか、この倫敦中の情報をかき集めてやるよ。それこそ、スコットランド・ヤードよりね」


 わんぱくな所は変わらないようで、そう言ってミス・レディーコートに対して勝ち誇った表情を見せる。

 もっとも、ミス・レディーコートはそんな売り言葉を買うほど子供じゃなくて、何くわぬ顔をで紙巻き煙草をふかしていた。


「アリスねーちゃんは家に戻って大船に乗ったつもりで待ってな。お昼過ぎには吉報を持って来れるはずだからさ」


 そう彼は言い切ってスラム街の奥へと姿を消していった。

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