拒絶と少女

 翌日。

 二時限目の講義が終わって、僅かな中休みを利用してキャロに会いに行ったのだが、それは空振りに終わった。

 キャロと付き合いのある寮生に聞いてみたところ、彼女は体調がすぐれないから学院を休むと言っていたそうだ。

 ……やっぱり、昨日あのままにしたのは良くなかった。

 最終講義の最中、教授の話が大きく脱線した所で、ぼんやりと考える。

 思うのは、やっぱりキャロのこと。

 お父さまと喧嘩してしまったのなら、早い内に仲直りをした方が良いと思う。

 彼女は昨日すぐにいつもと変わらない顔に戻していたけれど、私だって伊達に何年も彼女の友人をやっているわけじゃない。彼女の表情が心からのものなのかそうじゃないのか、そのくらいは見分けがつく。


「………………」


 そう、見分けはついていた。

 なのに、あの時私は何も言うことが出来なかった。

 かける言葉はいくらでもあっただろうし、もしかしたら言葉の内容なんて関係なかったのかもしれない。無理にでも放課後に約束事を作って、街へと少しお茶に行くだけでも彼女の心はいくらか楽になったかもしれない。必要なのは言葉じゃなくて、傍に誰かがいてくれること。それだけで救われることだってある。

 ……少し前までの私なら、こんなことで迷ったりはしなかった。

 キャロが涙を見せたことなんて出会ってから数えるほどしかない。

 そんな彼女を放っておくなんてまず考えなかっただろう。何が何でも涙の理由を聞いて、私に出来ることはないかと必死に彼女に問うていたに違いない。

 キャロと私は唯一無二の、何でも話し合える、わかり合えると信じていた時の私はそのくらい積極的で……無神経だった。彼女の奥底に入っていくことに躊躇なんてなかった。それが全て彼女のためになると思っていた。

 だけど、それは子供の理想論に他ならない。

 どうしようもない境遇。

 私一人では変えられないもの。

 この世の中では私はただのちっぽけな一人の人間で、抗えないモノが数多くあると知ってしまった今、キャロの奥底に入っていくことは、彼女を傷つけることと紙一重だと知ってしまった。

 だから、今回のことだって正解が何なのかはわからない。

 どうすれば彼女の力になれるのか考えたところで、良いアイデアは一つも思い浮かんでくれなくて……私はどうしようもなく惨めだった。


「えー、つまるところ、ここに至るには様々な道があったわけだ。あまりにも有名なことではあるが、石炭雨による半強制的な浄化の仕組みはかの偉大な科学者、ドン・ケセラウスによって考案されたものである。えー、今からさかのぼること百年前、えー、現在の工場群が出来あがりつつあったこの倫敦では煤煙による慢性的な肺病が流行の兆しを見せ、いわゆる死咳病が発見されたのは今更言うまでもないことであり――」


 と、終業を告げる鐘が鳴った。

 雑談の腰を折られた教授はいささか物足らなそうな表情を浮かべたが、講義に直接関係ない話をするのもはばかられたのか、それもまた止む無し、といった表情で、


「えー、死咳病についてはまた今度。えー、それでは、今日の講義はこれまで」


 と話を切った。

 ……やっぱり、会いに行ってみよう。

 一日の講義の開放感に包まれる教室で、筆記具を鞄にしまいながら、よし、と決める。

 力になれるとは限らない。でも、話を聞くことぐらいなら出来る。

 別にあの電話の内容じゃなくたって構わない。それが取るに足らないようなただの雑談だったとしても、落ち込んだ彼女の気を紛らわせることは出来るかもしれない。

 一旦学院をに出て、面する大通りに並んだいくつかの屋台を物色する。フィッシュフライやスコッチエッグの定番屋台が並ぶ中で、甘い匂いを漂わせるクレームブリュレの屋台が出ていた。

 昨日ミス・レディーコートと話したことでもあるけれど、倫敦では食品の偽装が未だにひどい。

 珈琲豆と称して売られているものが雑穀を焙煎した偽物であるのは序の口で、見た目の良いパンは石粉や石膏がもれなく交ぜられ、鮮やかなジャムの秘訣は銅ときている。もちろん、私たちの食卓に欠かせない紅茶もその例外じゃなく、中にはその辺の生け垣の葉っぱを摘み取ってそれらしく着色がされただけのものもあるそうだ。

 その点、こうして顕学院の前に出ている屋台はまだ信頼が置ける。

 もちろん暴利をむさぼろうという悪い屋台もあるにはあるが、相手にするのは混ざりっ気の少ない、高価なものばかりを食べてきた貴族や商人の子供。

 質の悪い屋台は自然と淘汰されるし、それでも懲りない連中は有志の学院生たちが掲示板で注意をうながすため、結果的に残るのは真っ当な屋台だけになる。

 私が近付くと、クレームブリュレの屋台の主は気さくに笑いかけてきた。高さの低いコック帽に清潔そうなエプロン。それなりの格があるレストランの厨房から来ましたと言われても違和感がない。

 掲げられた値段表に一瞬だけたじろいでしまうが、こんな時にまでケチケチしても仕方がない。クレームブリュレを二つ頼むと、丈夫そうな箱に入れてから紙袋に入れてくれた。

 学院の敷地に戻り、学舎から少し離れた場所にある寮へ向かう。

 広大な中庭を囲むように建てられた赤レンガの寮は東西で男子寮と女子寮に分かれ、真ん中には宗教よりも学術的な色合いが強い顕学院の中では珍しい御聖堂がある。

 授業中はこの辺りはまるで世界中から人が消えてしまったかのように静かになるそうだけれど、放課後の今は多くの学院生の姿があった。

 普段、私はあまり近付くことのない場所なだけあってどことなく場違い感を覚えながら、そそくさと女子寮へと入る。

 女子寮の方が男子寮に比べて幾分小ぶりではあるのだが、そもそも女子の学院生の絶対数が少ないため、男子寮に比べればかなり広々と使えるらしい。

 実際、男子寮では寮長や一部の特待生のみしか個室を与えられていない。それに対し、女子寮では何かしらの事情がなければ個室が与えられるようになっていた。

 石造りの階段を上り、キャロの部屋を目指す途中、寮生たちが使うラウンジを通り抜けようとしたところでふいに声をかけられた。


「ミス・リトルバード」


 見ると、キャロの友人で、私も顔見知りの文学科の学院生が本を片手にソファに腰かけていた。


「やはりそうでした。ごきげんよう、ミス・リトルバード。ミス・ルイスのお見舞いですか?」

「ええ、そうです、ミス・ブロンテ。体調がすぐれなくて、学院をお休みしたと聞いたものですから」

「きっと喜ばれますわ。私も先ほど、部屋にお見舞いに伺ったのですが、身体の具合と言うよりかは、どこか精神的にお疲れのようでしたから」

「そうですか……」


 昨日の電話と無関係、ということはまずないだろう。


「身体が不調の時は心細くなるものと相場は決まっておりますもの。どうか、傍にいてあげてくださいませ。無二の親友であるミス・リトルバードがいてくだされば、きっとミス・ルイスの具合もあっという間に好くなるに違いありませんわ」


 そう微笑んだミス・ブロンテと別れ、長い廊下を歩いていく。


「………………」


 無二の親友。

 そう。全員が全員、ではないかもしれないけれど、幾らかの……それも、決して少なくない数の人に、私はキャロにとってそのくらい親しい間柄だと思われているのだ。

 今の私は、キャロの心に踏み込めずにいるもどかしさや悔しさ、己の惨めさを感じているけれど、他の人はきっとそこにまでも至っていないに違いない。

 だとすれば、傷ついたキャロの傍にいるのに私は多少なりともその権利というものをもっているはずだ。

 そんな風に考えると少しだけ勇気が出たような気がした。

 手に抱えたクレームブリュレの入った紙袋を抱え直し、キャロの部屋の前で二度、ゆっくりと深呼吸。ライトブラウンの扉に手を伸ばし、コンコンコンとノックをする。


『はい』


 扉越しに聞こえてきたキャロの声はいつもより少しばかり元気のないもののように思えた。

 ここで、私まで重たい口調になっちゃいけない。

 そう考えて、いつもより幾らか明るいトーンを意識して声を出す。


「私。アリスなんだけど、入っても良いかしら?」


 まず何をしゃべろうか?

 いきなり昨日のことを話題に出すわけにはいかないし……かと言って、あからさまに取ってつけたような話題を出すと、それはそれでキャロに気を遣わせてしまうに違いない。

 まぁ、せっかく買ってきたクレームブリュレもある。キャロの調子が悪くなければ真っ先に食べるのも一つの手だ。甘いものを食べれば、気分も変わってくる。

 だが――


『……ごめん』


 一瞬、言葉の意味がわからなかった。それでも、すでにドアノブを回しかけていた手がピタリと止まる。


「キャロ……?」

『……ごめんなさい。今は、会えない』


 言葉に詰まる。

 ドア越しの声はまるで真冬の倫敦を思わせるほどに張り詰め、軽はずみに触れようものならばちんと大きく弾けてしまいそうに感じられた。

 ひくり、と頬が引きつるように動くのがわかる。


「い、今は都合悪い? 出直そうか?」


 声が上ずっていた。それでも、どうにか明るいトーンを保ていたのが自分でも不思議だった。

 しかし、そんな私のささやかな抵抗などないかのようにキャロは言葉を返してくる。


『ううん、そうじゃない。そうじゃないの。今アリスに会ったら、きっと迷惑をかけちゃうから』

「そんな……こんな時だもの。少しの迷惑くらい……ううん、そもそも、キャロのことで私が迷惑に思うことなんてないわ」


 キャロの言葉にすがるように私は早口で言った。


「私なんかじゃあまり役に立たないし、頼りないかもしれないけれど、力になれることがあるならなりたいの。だから――」

『――ごめん』


 はっきりとした声が私の言葉を裂く。

 決して大きな声ではなかったが、芯の通ったそれは浮ついた私の言葉を止めるに十分なものだった。


『悪いけれど、今日のところは帰ってくれる? 今だけは、アリスにだけは絶対に会えないの』


 ひゅっ、と小さく自分の呼吸音が聞こえる。ドクドクと耳の奥で心臓の音が響き、重力に従うままに頭から血の気が引くような感覚がした。

 はっきりとした拒絶の言葉。

 ついさっきまで、この手の中にはっきりとあったはずの勇気はいつの間にかこぼれ落ちてしまっていた。

 乾いた空気を吸い込んだ喉は言葉を発せず、ひりひりとした微かな痛みだけが唇を走る。

 結局、まるで蚊の鳴くような声で「……わかった」と言うのが精いっぱいで、私は部屋の前を後にする他なかった。

 来た時より何倍にも長く思える廊下を歩き、鉛でもつけたかのように重たくなった足で階段を降りる。


「もうお帰りですか?」


 行きと同じにラウンジを通ると、今度は少し驚いたような声が私にかかった。見ると、先ほどと変わらない場所でミス・ブロンテがこちらを見やっている。

 あぁ、どうして違うルートを通って外に出ようとしなかったのか。考えの足りなさ……いや、そもそも今はろくにモノを考えてもいられなかった。


「あー……」


 どうにか取り繕おうと頭を回す。あったことをそのまま告げるなんてとてもではないが出来るわけがない。

 と、紙袋を胸に抱いているままなのに気がついた。


「……どうやら眠っているようでしたから」

「まぁ、そうでしたの」

「ええ。ノックをしても返事がなくて。あまりしつこくして起こしてしまっては本末転倒ですし」


 上手い言葉かどうかはわからなかったけれど、それでもミス・ブロンテは私の言葉を疑っているようには見えなかった。


「それで、申し訳ないのですけれど、後でミス・ルイスにこれを渡しておいてもらえませんか? 学院の近くで売っていたクレームブリュレなんですけど」

「お見舞いの品ですわね。お安い御用です。ミス・ルイスに確かにお渡しいたしますわ。あと、ミス・リトルバードがいらしたことも」

「お願いします。クリームブリュレは二つ入っているので、もしよければミス・ブロンテも一緒に召し上がってください」


 紙袋を渡し、軽く会釈をしてから半分逃げるようにその場を離れる。これ以上ここにいると、なんとか保っていた顔が崩れてしまいそうだった。

 学院の敷地を出て、なるべく頭を空っぽにすることを心がけて乗合馬車に乗った。

 こういう時、周囲の雑音ほどありがたいものはない。全部聞き取れるわけではないが、断片的に聞こえてくる単語に、ガタガタとレンガ造りの道を走る音。

 次々と飛びこんでくるそんな音たちに意識を集中させれば、少なくとも頭の中であれこれと考えるだけのキャパシティはなくなってくれる。

 乗り換えのために繁華街で一度馬車を降りた。

 雑多に行き交う人の流れに逆らわずに、次の乗合馬車の待合所へ向かう。

 普段なら多少の開放感を感じる午後なのに、今はこの倫敦の空のように濁った灰色の雲が心を覆い尽くしていた。

 ふと、「にゃあ」という可愛らしい声が耳に届いた。

 何ともなしに見やると、軒先にたくさんの服を吊るした古着屋の横で白ネコがちょこんと座っている。


「ワトソン?」


 聞くと、白ネコは私の言葉がわかったようにふさふさの尻尾をゆらりと揺らして、今度は少し間延びさせて「みゃぁお」と鳴いた。

 待合所へと向かっていた足を一旦止めてネコの傍に寄る。首には真黒な首輪。文字までは読めなかったけれど、ちらりと金の刺繍がしてあるのも見て取れた。間違いなくワトソンだろう。

 頭を撫ぜてやると、目をぎゅっとつぶって『ぐるるぐるる』と喉を鳴らした。尻尾を右に左に大きく揺らす姿は愛らしく、先ほどから溜まっていたお腹の中の嫌な空気が少しだけ、ため息と共に吐き出されるような感じがする。


「その猫、お嬢ちゃんのネコなのかい?」


 店先で店番をしていた古着屋のおばちゃんがそう聞いてきた。


「いえ、そういうわけではないんですけれど……なんと言うか、顔見知り、という感じで」

「ネコと顔見知りかい、面白いこと言うね」


 かっかっ、と豪快に笑ってエプロンをパンパンはたく。


「もう二時間近くそこに座ってるんだよ。その間にも何人か、お嬢ちゃんみたいに近寄って、撫でたりこねたりしたんだけど、その子ったら全くの無愛想でね。てっきり人間嫌いのネコかと思ってたのに」


 そんなことを言うおばちゃんを横目に、ワトソンがすくりと立ち上がった。大きく前半身をぐぐっと伸ばし、前足の爪をぐわりと広げたまま伸びをすると、そのまま大口を開けて欠伸を一つ。

 そして、私の顔を見やって再度鳴くと、『ついて来い』と言うかのようにあごをしゃくって歩き始めた。


「おやおや。お嬢ちゃんをナンパしてるみたいだね。とんだプレイボーイじゃないか」


 ワトソンが本当に単なる猫ならその仕草に特別何も思わなかっただろうが、彼はあのミスタ・ホームズの家に飼われているネコなのだ。何か意図があるどころか、人の言葉を全て理解していると言われたところで驚きはしない。

 少しだけ考えたけれど、私は店番のおばちゃんに軽く会釈をしてワトソンの後を追った。

 案の定彼の足取りは迷うことなくベイカー通りの221Bを目指しているようだった。

 誰も気付くことのないベイカー通り。

 誰も私やワトソンには目を向けず、人のいない路地へと入っていく私たちに注意を向けはしない。

 ベイカー通りに入り、221Bの階段の前に着くと、ワトソンは甘えるような声を出した。


「今日もミスタ・ホームズは留守にしているの?」


 扉に手をかけるが、やはり鍵はかかっていない。

 開けてやると、彼はしっぽをピンと立てて中へと入っていった。

 階段を軽快に上がっていく足音。どうしようかと少し迷ったけれど、私も彼の後に続くことにした。

 階段を上がり部屋に入ると、彼はあちらこちらに身体を擦りつけている最中だった。

 ネコはイヌとは違って、飼い主をご主人さまと思うことは基本的にないと聞いたことがある。常に自分が一番で、一番偉いと思っているらしい。

 マーキングを終え、彼専用になっているらしいクッションに身体を落ち着ける。そのままぐにぐにと五回ほど顔を洗うと、今度は前足の掃除を始めた。指を一杯に広げて、爪と爪の間を丹念に舐めていく。存分にくつろいでいる姿は、確かに自分をこの部屋の主と思っていそうだ。

 私はどうしようか、とぼんやりと考える。

 部屋は相変わらずの散らかりようで、机の上に乱雑に置かれた紙の類なんか揃えてしまいたくなるけれど、勝手にいじったらミスタ・ホームズの気に障るだろう。

 なんとなくだけれど、彼のようなタイプの人は自分のやり方を邪魔されるのを一番嫌いそうに思う。

 そんな散らかった紙の束の中に新聞があるのが目に留まった。

 読んだことのない大衆紙の一紙。

 名前だけは聞いたことがあった。

 なんとなく紙面に目を泳がせる。投書の欄に最近話題になっている『タータレンの娘たち』についての書評が書かれていた。

 投書者の名前は……キャロル・ルイス。


「キャロ……」


 彼女の文章が新聞に載るのはこれが初めてのことじゃない。

 確か、中等教育の時が最初で、その時は彼女が柄にもなく自慢げに新聞を見せてくれたのをよく覚えている。それからも、ちょくちょく雑誌や新聞に投書しては、それなりの頻度で載せてもらっていたようだ。

 専門課程に進むと、小さな雑誌社ではあるけれど、書評を一年間任されたくらいなのだから、彼女には文筆の才能が確かにあるのだろう。

 少なくとも伊達や酔狂でのことじゃないと私は思っている。

 いつの時だったか、彼女は貴族の娘である前に、文筆家でありたいと言っていたことがある。

 小説や詩、それから書評や批評。そういったものを書いて、ルイス家のキャロルではなく、一人のキャロル・ルイスとして認められたい、と。

 あの時の彼女は、自身の夢を語っていたけれど、ひどく不安げな表情を浮かべていた。

 ただの夢物語じゃなく、現実的な目標として見据えていたからこそその難しさも感じていたに違いない。


「………………」


 今日の彼女も、もしかしたらあの時のような顔をしていたんじゃないだろうか?

 しんしんと降る雪の中、一人取り残されたかのような……そして、それを全て受け入れてしまっているような、寂しげな表情。

 そんな彼女の中にどんな気持ちが渦巻いているのか私にはわからない。

 ……でも、だからこそ彼女の力になりたかった。

 なれると思っていた。

 しかし、実際はどうだ?

 彼女の口から出てきたのは拒絶の言葉で……私は、彼女の力になるスタートラインにすら立たせてもらえなかった。


「私なんかじゃ、力不足なのかな……?」


 昔はもっと色々なことを打ち明けていられていたと思う。

 お互いに隠し事なんかなくて、楽しかったことも、悲しかったことも、不安に思うことも、嬉しかったことも、全部分かち合っていた。

 そして、そんな彼女と一緒にいる時間が楽しくて、嬉しくて……この時は永遠に続くように思っていた。

 だけどそれは……もしかしたら、私の独りよがり、だったのだろうか?


「顔が悪いな」

「っ!」


 かかった声に、肩が跳ねあがった。


「み、ミスタ・ホームズっ……」

「なんだ、気がついていなかったのか?」


 いつの間に帰って来たのか、ミスタ・ホームズが相変わらずの服装でそこに立っていた。


「え、ええ……少し、考え事をしていて」

「その分だとあまり良い考え事じゃないらしいな」

「それは……」


 言葉に詰まったところで、自分がまず言わなければならないことを思い出した。


「そうだ。すいません、何の断りもなくお邪魔してしまっていて」

「気にしなくて良い。大方、ワトソンにでもせがまれたんだろう? 部屋の中を極端にいじくりまわさない限り好きにしてくれて構わない。丁度、買い物に出かけるところだったんだ」

「出かけるところ、ですか?」


 出かけると言うより、たった今帰って来たところに思えたのだけれど……。

 そう思うと、どうやらその考えは顔に出てしまっていたらしい。ミスタ・ホームズは懐から紙巻き煙草の箱を取り出して見せた。


「今はこいつを調達しにちょっと出ていただけだ。どうする? 手持無沙汰なら付き合うか? まぁ、来たところでそう面白いもんがあるわけでもないが」


 ミスタ・ホームズはそう言ったが、私は彼の買い物とやらに付き合うことにした。

 今一人でいたらどんどん暗い思考の中に沈み込んでいってしまいそうに思えた。

 それだったらまだ誰かと一緒にいた方が気も紛れるし、多少でも時間が経てば気持ちもいくらか落ち着くに違いない。

 彼の買い物というくらいだからどんな珍妙なものを買うのか……そもそも自分と同じ感覚で買い物をするのかと疑問に思ったが、「来たところでそう面白いもんがあるわけでもない」という言葉に違わず、蓋をあけてみればなんてことはなかった。

 ベイカー通りから一般的な通りに出て、馬車は拾わずにそのまま繁華街へ。

 入る店も普通の人と何ら変わらない。いくつかの店を回って買ったものだって、インクに紙、ちょっとした日用雑貨に本を数冊。

 ただ、廉価品を選んだりはせず、質のしっかりとしたものを選んでいるらしかった。そのおかげで出費はそれなりの額になっていたが、彼は払うお金に躊躇している様子はない。

 家はあまり豪奢な家ではないし、女中さんの一人もいないけれど、やはりお金持ちということではあるのだろう。

 まぁ、あまり人と積極的に関係を持とうというタイプの人にも思えない。

 自分の身の回りのことは全て自分でやって、女中を雇わない、というスタンスを取っていることは何の不思議もなかった。

 実際、私の家だって雇おうと思えば女中さんの一人くらいは雇える余裕はあるけれど、父はそれを良しとしなかった。


『人を使うというのが嫌いなんだ』


 昔、父がぼそりと言ったことがある。

 そんな買い物をして回った最後、一番のメインストリートから少し裏通りに入って、彼は一件の喫茶店に入って行った。

 ここは知っている。質素な造りではあるが、確かな商品を売ることと、中央区にありながら、目が飛び出るほど値段が高いことで有名な喫茶店だ。

 珈琲豆でも買うのかと思って彼の後ろでぼぅと見ていたら、不意に「お前は何にする?」なんてことを聞かれた。きょとんと彼を見やる。


「何にするって、何をですか?」

「何をも何もないだろう? お前は喫茶店に入って散髪でも頼むのか?」

「いえ、そんなことはないですけど……お茶をするんですか?」

「喫茶店に入る人間の九割以上はそれが目的だろうな。いつもそこまで溌剌とした性格じゃないのは知ってるが、今日はいつも以上にすっとぼけているな」


 そんな憎まれ口を言いながら、私にメニューの書かれた紙を渡してくる。

 それにざっと目を通すが、どれもたまの外食で行くようなレストランより一桁……とまではいかなくても、三倍近くは値段が高い。


「誘っておきながらあんたに金を出させるような真似はしない。どれでも好きなものを頼んだらいい」

「そう言われても……」


 それじゃあお言葉に甘えて、とすんなり言えるほど図太い神経はしていなかった。

 ただ、ここで私がお金を出すのも失礼というやつだろう。

 ミスタ・ホームズが世俗的な感覚を大事にしているとも思えないが、それでもこういう場面で殿方の申し出を断ってまで女性がお金を出すのは殿方の顔に泥を塗るようなものだ。

 少し迷ってから私はダージリンのストレートを頼んだ。今の季節なら、夏に摘んだ茶葉が入っている頃だろう。

 店内は賑わっていると言うほどの人はいない。ただ、ちらほらと老年の紳士たちが椅子に座って思い思いの時間を過ごしていた。

 新聞を広げている人もいれば、万年筆で何かを書いている人、何もせず、葉巻を片手に紫煙の中に身をゆだねている人もいる。

 彼らは一様に、ちらりと私たちの方を見やったが、またすぐに彼らの世界へと戻っていった。積極的に会話が交わされるティーハウスと違って基本的に不干渉なのだろう。

 ミスタ・ホームズは一番奥のテーブル席に座り、スーツから紙巻き煙草の箱を取り出すと、一本を口にくわえてマッチで火をつける。

 片手で机の上の灰皿を引きよせ、大きく息を吸って、すぐに灰皿に灰を落とす。


「こいつに興味があるのか?」


 彼の対面に座りながら落ちた灰に目をやっていると、紙巻き煙草を指に挟んで、ミスタ・ホームズがそう問うてきた。


「シガレット。名前くらいは聞いたことがあるだろう?」

「ええ。確か、クリミアでの戦地で発明されたとか……」

「そういう話もあるな。実際はそれより前からあったらしいが、どちらにしろ店で売りに出されるようになったのは最近だ」

「葉巻とは違うんですよね?」

「かなり勝手が違うな。葉巻が味や風味を楽しむものだとしたら、こっちは単に口寂しさを紛らわせる時間つぶしのようなもんだ。……吸ってみるか?」

「ふぇ?」


 ふいに差し出されたそれに、私の口からおかしな言葉がもれた。

 吸ってみるか、と言われても、それは今の今までミスタ・ホームズがその口にくわえていたもので……意識すると、頭の底から火であぶられたように顔が熱くなる。


「冗談だ。そう本気にするな」

「――っ!」


 からかわれたとわかって、また別の意味で頬が染まるのがわかった。


「仮にも幻影都市の少女に、大人の嗜みを教えるわけにはいかないだろ? 大人への憧れは持ってしかるべきだが、僅かでも染まってしまったらそれは少女とは呼べなくなる」

「幻影都市の少女……」


 その表現をされたのは二回目だった。

 ベッティ・ハイドリッヒが私のことを『同じ』と言った時、ミスタ・ホームズが私のことをそう呼んだのを覚えている。


「ミスタ・ホームズ。その幻影都市の少女とは何なのですか? それに、ベッティ・ハイドリッヒが言っていた、永遠の少女というのも……」

「気になるか?」

「それは……ええ」


 自分が得体の知れない呼び名。それも、一部の人にしか伝わらない隠語のようなもので呼ばれるのは気持ちの良いものじゃない。

 おまけに、片方は『幻影都市の』で、もう片方は『永遠の』ときたものだ。


「一体どういう――」


 私の言葉を、ミスタ・ホームズが手を前に出して遮る。

 計ったようにウェイトレスが注文したものを運んできた。私の頼んだ紅茶とミスタ・ホームズの珈琲。

 彼はウェイトレスがその場から離れてから、手に持っていた紙巻き煙草を灰皿に押しつけて口を開いた。


「リトルバード。そもそも、少女というのはどういう存在だとお前は考える?」

「少女、ですか?」


 意図の見えない質問に首をかしげる。

 話を誤魔化そうとしているのかとも思えたが、ミスタ・ホームズは真面目な面持ちだった。


「成人していないが、児童、幼児と呼ぶほど年少ではない女児だと思います。年齢にすれば……初等教育が終わる十三歳より年上で十八歳未満。もうちょっと幅を広げるなら……初等教育課程に入る七歳以上、とか」


 成年の法的定義は二十一歳以上と決まっているけれど、児童がどのように定義付けされているかは知らなかった。

 ただ、個人的イメージだとあまり幼い子は少女と言うよりかは女の子、という感じがするように思う。


「なるほど、顕学院の学生らしい意見だな。だが、俺の言った少女はそういった法律の定義じゃない」

「と言うと?」

「あえて言うなら、少女とは無限の可能性を持った存在、といったところだ」


 ミスタ・ホームズはカップに口をつけてから言葉を続けた。


「家族の一員として一定の役割を担う妻や母ではなく、かといって完全に親の支配下に置かれる幼女でもない。その存在は極めて宙に浮いたものであり、社会的に期待されるこれといった規範も持たないが、未熟でされるがままの存在とも言い難い。しかし、その存在は社会制度に守られたものであるが故に、多くの責任を持たず、大いなる庇護の元で自発的行動を謳歌させることが出来る。自由にして奔放であることが許された存在だ。そこには先に進むための原動力と、無限の可能性が見い出せる」

「それは……少女を一種の社会学的観点から見ると、ということですか?」

「すぐにそうやって学問に落とし込もうとするのはいただけないな。あと数ヶ月もすれば少女と呼べなくなるほど成長してしまっていたせいか……実に少女らしくない」

「そんなことを言われても、別に私は幻影都市の少女や永遠の少女とやらになったつもりはありませんから」


 ミスタ・ホームズの言い方が少し気に障って私はつっけんどんに言葉を返した。

 あだ名をつけるのは勝手だが、その名前の通りをこちらに期待してもらっても困る。


「確かにお前にそのつもりはないだろう。だが、事実としてお前は選ばれてしまった……いや、見つけ出された、と言った方が正しいか」

「見つけ出された?」

「幻影都市によってな。互いが惹かれ合ったことに違いない。この幻影に覆われた都市が、他ならぬ自分の落とし子を見つけ出した」

「………………」

「最初に会った時に言っただろう? 幻影に守られ、己の真実など無視して生きる道のなら、今日のことはすっぱり忘れ、俺と会ったということも墓の下まで持っていけ、と。しかし、お前は再び俺の前に姿を現した。そんなことをしていれば幻影都市がお前を見つけ出すのは当然のことだと言って良い」

「そうは言われても……」

「納得がいかない、という顔だな」


 納得と言うよりかは、新興宗教か何かの勧誘を目の当たりにしている気分だった。

 ……まぁ、ミスタ・ホームズと出会ってからというもの、常識では到底考えられないようなことがいくつもあったのは紛れもない事実。しかし、だからと言って自分自身がその当事者となってくるなら話は別だ。


「良いだろう、お前がすでにこちら側の人間であるという証拠を一つ示してやる」

「こちら側の人間であるという証拠だなんて……そんなものがあるんですか?」

「鞄の中をよく見てみろ。俺の考えが正しければそこにあるはずだ」


 私は怪訝に思いながらも自分の鞄を寄せて中を開いた。

 学院帰り、別に変ったものが入っているわけでもない。

 教科書に筆記具、ハンカチに、つい癖で持ち歩いているガーゼと包帯を一緒にした簡易の応急セット……そして、


「これ……」


 見慣れない木の箱がそこにはあった。

 ぞくり、と背筋が軽く粟立つ。

 あるはずのないものがそこにないのと、ないはずのものがそこにあるというのは、似ているようでかなり違う。

 じんわりとした恐怖に、お腹の底に重石でも放り込まれたかのような感覚が襲ってくる。

 取り出して開く。

 中には逆巻きの時計。

 変わらず逆回りに時を刻んでいる。


「机に入れておいたはずなのに……なんで……?」

「選ばれたからさ。逆巻きの時計、進み続ける時間の流れと拮抗し、永遠の今を刻む時計にな。それはお前をこの世界の流れから守っていると言っても過言じゃない」


 ミスタ・ホームズはごくりと珈琲を飲み込み、紙巻き煙草を取り出した。一度口にくわえるが、火はつけずに再び指に挟んだ。


「物事が発展するためには無限の可能性が必要だ。無限の可能性がなく、一つしか選ぶ道がない未来などそれはただの現実の延長でしかない。そして、人間が必ず老いて死ぬように、そういった万物の行き着く先は終焉だ。どんなに栄華を誇っていようとも、可能性が喰らい尽された世界は衰滅する他にない。女王陛下は、この倫敦がそうなることを憂いておられる」

「………………」

「お前はこの幻影都市の可能性そのものなんだよ、リトルバード。逆巻きの時計に選ばれ、永遠の少女としての時を過ごす。そうして、無限の可能性を内包したこの寵愛都市は永久の繁栄が約束される」

「わかりません……意味がわかりません、ミスタ・ホームズ」


 眉根が寄っているのが自分でもわかる。

 単なる文字列として理解は出来ても、彼の言っている言葉の本質とも呼べるだろうものはひとかけらも理解出来なかった。

 ……いや、理解することを拒んだと言った方が良いかもしれない。


「それで良い。言っただろう? 少女という存在は責任を負わされるもんじゃない。自身の役割を理解するということは、それに伴う責任も担うということだ」


 紙巻き煙草に火をつけ、ミスタ・ホームズは薄く笑った。

 その表情は、まるで世界の何もかもを見通した悪魔のように冷たいもののように思えた。


「無知の中で自由を謳歌する。それでこそ幻影都市の少女と言える」


 そこに私はえも言われぬ恐怖を覚えていたが……まるで自分がはるか昔に失くしていた何かを見つけたかのような安心感を見い出してしまっていた。

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