もうひとつの事件
発端
殺すのではない。失くすのだ。
その言葉の意味がわかったのは、週が明け、顕学院へと行ってからだった。
最初にのぞいた連絡用の掲示板には休講のお知らせは一枚も貼られていない。
周囲の学院生たちを見ても、事件の最中にはあれだけ好き勝手に噂を飛び交わしていたが、今はまるで何事もなかったかのように日常を過ごしていた。
未だに疑問に思っている学院生は多少はいるのかもしれないが、多くの学院生は感冒か何かの流行にひょんなことから大きな尾ヒレ背ヒレがついたものと思っているようだ。
ただ、その学院生の中に彼の存在は微塵も含まれていなかった。
「………………」
予想はしていた。と言うより、出来ていた。
むしろ、あの事件の結末がベッティ・ハイドリッヒの死で終わるということの方が、ある意味不可解だったと言って良いかもしれない。ファンタジー小説の結末が決して現実に即したものでなく、夢は永遠に夢の続きを描くのと同じこと……と言ったら、キャロに怒られてしまうだろうか?
そんなキャロは、昼食を取り終えて、今はのんびりと紅茶に舌鼓をうっていた。
もちろん彼女にもベッティ・ハイドリッヒのことを聞いてはみた。聞いてはみたけれど、彼女は不可解そうに眉を寄せただけだった。
『ベッティ……なに? 独逸からの留学生なんて学院にいたかしら? そんな人がいたらまず間違いなく私の情報網に引っ掛かってると思うんだけど……』
当たり前だけれど、キャロが無駄な嘘をつくわけはない。
たぶんこの顕学院に所属している学生、教授、職員の全員に聞いても、そんな人間はいなかったことになっているのだろう。書類からだってその名前が全て消え失せているのは明白だ。
それが、ミスタ・ホームズの言った「失くす」ということに違いない。
そして、わかったことなら他にもある。
ミスタ・ホームズはただの私立探偵なんかではなく、私の知らない世界……それも、今までの常識からは遠くかけ離れた位置に立っているということだ。
彼の言葉はある種呪文の詠唱のようなもので……その行動から起こされるものは魔術そのものだった。
『自分は今、今まででは到底考えられない部分に片足を入れている』
その感覚が確かに私にはあった。
「聞いてる、アリス?」
「え……? う、うん、聞いてるよ、もちろん」
「ホントかしら……」
そういぶかしむキャロにちょっとだけ苦しい笑顔を浮かべて、テーブルの上の紅茶で口の中を潤した。
「まぁ、とにかくそういうこと。だから、アリスも用意をしておいてね」
「……用意?」
用意しておいて、と言われても……何をだろう?
頭によぎった疑問に、視線が泳ぐのが自分でもわかった。
確かさっきまで私の誕生日のことを話をしていて、例年通り私の家で小さなパーティをやろう、ということだったと思う。この日の私は完全にゲスト。料理の下準備からちょっとした飾りつけまで全部キャロがやってくれて、私は頃合いをみて二階にある自分の部屋からダイニングに行けば良いはずなんだけれど……。
「あー……あのね、キャロ。一応、念のための確認なんだけれど……私は何を用意すれば良いんだっけ?」
聞くと、キャロは盛大に「やっぱり、上の空の空返事だった」とため息を吐き出した。
「誕生日、私は家にあるシャンパンを持って行くから、シャンパングラスだけ用意しておいて欲しい、って言ったの。無理そうだったら私が家から持っていくけれど、シャンパングラスくらいはアリスの家にもあるでしょう?」
「あー、うん、シャンパングラスね。大丈夫。そのくらいだったら用意出来わ」
「それより、何かあったの? この前もそうだし、今日だって心ここにあらず。いつもどこかぼけぇっとしているのは知ってるけど、最近は特にひどいわ」
「い、いつもはそんなに間抜けっぽくないわよ。ただ、ちょっと考えごとがあって……」
「考えごと、ねぇ……」
ティーカップを置いて、キャロの目がじとりと私を見やる。
目を合わせづらくて視線を横に逸らすけれど、キャロはまるで私の頭の中を見透かそうとするかのようだ。
十秒。二十秒。
そして、キャロは再度大きくため息を吐いて言った。
「それって……もしかして、あの殿方のことだったりする?」
普段のキャロからは考えられないような……そう、どこかおっかなびっくりといった様子の声色に、私はきょとんと彼女に視線を戻した。
目は相変わらずじとりとしているけれど、雪のように白い頬に朱色が差している。おずおずとした口調で彼女が言葉を続ける。
「確か、ミスタ・スミス……ジョン・スミスって名乗っていらっしゃったわよね? 彼はどなた、って聞いても良いのかしら……?」
「あー……」
ベッティ・ハイドリッヒのことはすっかり頭から消え去っているのに、その部分は覚えているのか。
この際、ベッティ・ハイドリッヒに関連して起こった事項全てを綺麗に記憶から消し去ってくれれば良いのに、そう都合が良いようには出来ていないらしい。
「えーとね……なんて言えば良いのか私もわからないんだけど……」
説明がしにくくてしょうがない。
まさか、彼こそこの倫敦を代表する名探偵シャーロック・ホームズなの、と言うわけにはいかないし、第一、そんなことを言ったところで信じてもらえるわけがないだろう。
もうちょっと普通の紳士なら多少の説得力はあったかもしれないが、見た目は子供が裸足で逃げ出すような――少なくとも私は初めて会った時はまともに声も出せなかった――屈強な無頼漢だ。荒ぶる巨大なタカを見せておいて、これはスズメです、なんて言ったところで誰も信じやしない。
そんな風に、えー、だの、うー、だのと答えに窮していた私に、キャロが口を開いた。
「もしかして……その、もしかして、よ?」
「もしかして?」
「恋人だったり……する?」
「……うん?」
咄嗟にキャロの言った言葉の意味がわからず、こてんと小首をかしげてしまう。
改めて耳から入ってきた音を頭で処理し、言葉として理解……それと同時に私の顔は火にかけられたポットのように熱くなった。
「な、ないないないないっ!」
ガタっ、と思わず椅子から立ち上がって、私はぶんぶんと激しくかぶりを振った。
「そんなの、一切ないわよ!」
「で、でも、結構素敵な殿方だったじゃない? なんて言うか……そう、この顕学院にいるような、格好ばかり気にするナヨナヨした男どもとは違って、とっても頼りになりそうで……」
「勘違い! それは激しい勘違いよ! あれは頼りになるって言うんじゃないの! う、ううん、それはもちろん、頼りにならないってわけじゃないんだけど……彼はそういうんじゃなくて……なんて言うか、単に荒っぽい狼藉者っていう感じで……」
「でも、頼りになる方であるのは間違いないのよね?」
「そ、それはそうかもしれないけど!」
そこでようやく自分が声を荒くしていたことに気がついて、コホンと咳払いを一つ。
周囲の目も少し集めてしまっていたらしい。
波立った心を落ち着け、顕学院の学生たる態度を意識してゆっくりと椅子に座り直す。
「とにかく。別にミスタ・ホ……ミスタ・スミスと私は何でもないわ。顕学院を案内して欲しいって言われて、学院生だった私にたまたま白羽の矢が立ったっていうだけの関係よ」
「本当にそれだけの関係なの?」
「あ、当たり前じゃない。それ以外何があるっていうのよ?」
言って、すっかり冷めてしまった紅茶を一口飲み込もうとして――
「でも、馬車にも一緒に乗っていたわよね?」
「っ!?」
――危うく吐き出しそうになった。
口の中で氾濫しかけた紅茶をなんとか喉の奥に送りこみ、かはかはと苦しく二、三度呼吸を整える。
誰かに見られたら勘違いされる、とは思っていたけれど、まさかキャロに見られていたとは夢にも思っていなかった。
「その、見ちゃいけないとは思ったのよ? 思ったんだけれど、随分親しそうだったし……なんて言うか、放っておけなくて……」
「あ、あれはね――」
「――や、やっぱり今のなし! なしなし! ごめん、深い質問をしすぎたわよね。アリスにだって、隠しておきたいことの一つや二つあって当たり前だものね」
「ち、違うの! 全然深くないし、隠しておきたいことでもないの! あ、あの方は……その、お父さんの知り合いで、ひょんなことからちょっとお仕事のお手伝いをすることになっただけで」
「……本当に?」
「え、ええ、本当よ」
嘘は言っていない。少なくとも、嘘ではない。
「……だけど、そういうところからお付き合いって始まるように思うわ。それに、ドクター・ドイルの知り合いっていうことは、お父さまの公認とも言えるじゃない?」
「か、考え過ぎよ、キャロ」
そう言ってはみるが、彼女の目はまだ納得しているようには見えなかった。
「それでも、多少なりとも好い感情は持っているんでしょう? アリスってば今まで何人もの男を袖にしてきたのかわからないのに、あの殿方にはそんな様子は全然なかったもの」
「そんな、袖にしてきたわけじゃないわよ。キャロも知っているでしょう? そういうのって私は苦手なのよ……」
公立学校に通っていた時の私は、ある種のお嬢様扱いをされることが多かった。
ドクター・ドイルの子ということもあったし、実際、学校に通っている中では裕福な方で、父の威光もあってか、フランクに声をかけてくる男の子は少なかった。むしろ、どこかかしこまった態度を取られることが多かっただろう。
しかし、顕学院レベルになると裕福の桁が違ってくる。
顕学院の男の子にとって私はただの一般庶民でしかなく、その物珍しさもあってか気安く私に声をかけてくる男の子は少なくなかった。
キャロに言わせると、『世間を知らない純粋無垢さと輝くばかりのブロンドの髪を持つ上玉』で、遊びたがっている人は多いらしい。
もっともあくまでもキャロの話だから眉つばものだけれど。
そんな真偽はさておき、今までの私は、あまり対等な関係を築けた男性がいなかった。それが色事関係にすこし潔癖とも言える性格に影響しているのかもしれない。
「そこよ。苦手苦手って言うけれど、逆に言えば、あの殿方にはそういう苦手意識が働いていないんじゃない?」
「それは、ミスタ・スミスが少し特殊だから……」
「ほら、あの殿方は特別扱いしてる」
「特別扱いって、別にそういうつもりじゃ……もぅ、あんまりからかわないでよ」
困って半分白旗を振るような感じで言葉を吐き出す。
キャロのゴシップ好きは重々わかっているつもりだし、お互い年頃の子女だ。そういった話に花を咲かそうとしてしまうのもわかる。話だけが弾んで、内容も飛躍してしまうのだ。
「ううん、からかっているわけじゃないの。結構、真面目な話」
しかし、そう言ったキャロの表情は、確かに人を使って遊んでいるようには見えなかった。
「アリスはどうするつもり?」
「どうするって、何を?」
「学院を出た後よ。お医者さまになってからのこと」
「それは……お父さんのところで技術と知識を磨いて、ゆくゆくは跡を継げれば良いな、って思っているけれど……」
でも、それは漠然とした思いであって、明確な目標というわけではなかった。
このままいけばおそらくはそんなレールが目の前に敷かれていくのだろう。
そのくらいの意識しかなくて、そこにはっきりと私の意志があるのかと言われたら怪しいところだった。
「きっと、繁盛するんでしょうね」
「そう?」
「ええ。だって女性のお医者さまっていうだけでまだまだ珍しいのに、あのドクター・ドイルの後継者だもの。それで、時期がきたら素敵な殿方と結婚かしら?」
「わからないわよ、そんな先のこと。私がちゃんとお父さんの後継者になれるかどうかもわからないのに」
笑って見せるが、キャロはつられるように小さく微笑むだけだった。
そんな彼女に、私はかけられる言葉が見つからない。
最近のキャロは以前にも増して何かを考えることが多くなっているように思えた。
私が顕学院に入った頃から将来のことを話すことはたまにあったが、それは真っ白な譜面を前に、自由気ままに好きな音楽を奏でるようなものだっただろう。
それが、最近の彼女を見ていると狭い檻の中に無理矢理に自分の将来を詰め込んでいるように思える。扉はなく、上から何重にも鎖で縛られた、あまりにも窮屈な鳥籠だ。
でも、私ではそんな彼女の悩みを共有することは叶わない。
彼女に課せられた枷は私のような庶民には想像もつかないものだろう。
「お話の途中、失礼いたします」
そんな中、職員の一人が私たちの元にやってきた。
「キャロル・ルイスさまにお電話が入っております」
その言葉にキャロが口をへの字に曲げた。
「あー、そう言えばそろそろそんな頃か。どうせパパからでしょう?」
面倒くさそうにキャロが立ち上がる。この学院は倫敦の中でもまだあまり普及しているわけではない電話が使える数少ない場所の一つだった。
「すぐ戻ってくるから。場所はこのままにしていくわね」
「良いの? 午後の講義までまだ時間があるわ。久しぶりの電話なんだし、わざわざ戻ってこなくても良いんじゃない?」
「良いの良いの。どうせいつもの定時連絡みたいなもんなんだから。パパもパパよ。いい年して全然子離れ出来ないんだから」
椅子から立ち上がると、キャロはひらひらと手を振って食堂を後にした。
キャロの家――ルイス家は代々子爵の称号を受け継いできた名家であり、その歴史は古い。
顕学院にはその性質から成り上がりの商人の子供も多くいるけれど、やっぱりキャロのような名家の子供はそんな人とはどこか違う……なんて考えてしまうのは少し親友びいきだろうか?
でも、あんなことを言いながらもキャロ自身、大切にされているのはわかっているはずだ。彼女にかかってくる電話はそう珍しいことじゃない。
『大した用でもないんだから、手紙で良いのに』
彼女は電話の後によく愚痴っているけれど、お父さまだってキャロの声を聞きたいのだろう。なんせ、ルイス家にとって大切な一人娘だ。
すっかり冷めてしまった紅茶を飲みほして、給仕さんにお代わりを頼む。次の一杯を飲み終える頃にはキャロも戻ってくるだろう。
運ばれてきた温かい紅茶を飲みながら、ふと窓の外を見やる。
そこで今日は空が青いことにようやく気がついた。先週末に降り始めた雨が上がったのが昨日の昼過ぎだから、今日はこの寵愛都市で一番空が青く見える日だ。
向かいの棟では清掃員の人が壁に伝う黒い跡を落としている。石炭雨は真黒だけど、中に沁み込むまで時間がかかるから長い間放置していなければすぐに落とすことが出来る。
そう、それこそ最初から何の跡もなかったかのように。
「………………」
世界はまるで彼のことなどなかったかのように回っている。
それは全くと言って良いほど関係のなかった私たちはもとより、彼の両親や友人たちだって違いないはずだ。
それだけのことをしたら、どれだけのことが今までの世界と違ってきてしまうのかは正直なところ見当もつかない。
けれど、ミスタ・ホームズはその大きく歪ませてしまった世界を完璧に、そして辻褄が合うように埋めてしまったのだろう。
彼という存在は最初からおらず、今は私とミスタ・ホームズの頭の中に微かに残っているだけ。
そう思うと何とも言えない気持ちになった。
彼が消えたことによって教授たちは目が覚めた。つまりは教授たちを眠らせていた……ミスタ・ホームズ流に言うのであれば、その『怪異』を引き起こしていたのは彼で間違いない。
でも、だからと言って世界から彼の存在を消すことだけが唯一の解決方法だったのだろうか?
「ここ、良いかしら?」
ぼんやりと思いにふけっていた中、不意に声をかけられた。
「あ、はい、かまいません」
反射的に返事をして隣を見やると、にんまりとさせた口に、フィッシュ・アンド・チップスが盛りつけられたお皿を持った女性がいた。
灰色のトレンチコート。肩ほどで切られた銀髪がさらりという音を立てるかのように揺れる。
「この間ぶりね、アリスちゃん」
「ミス・レディーコート?」
私の隣に座ったのは、あの日ミスタ・ホームズの事務所で会ったスコットランド・ヤードの刑事その人だった。
「どうしてミス・レディーコートがここに?」
「仕事よ、仕事。ま、実際の所を言うなら、仕事って言うか後始末っていう感じなんだけどね」
「後始末?」
「そ。この学院の教授棟に突如として現れ、ドアを一枚ぶち破って侵入するなんて大層なことをした割には、部屋を荒らすだけ荒らして、金目のものなんてなーんにも盗まずに消えていったとされる、なんとも不思議な泥棒さんの捜査。ちなみに、手掛かりは今のところ皆無」
これでもかというほどにお皿に塩を振りかけ、ポテトフライを三本つまんで口に放り込む。見た目と違ってかなり豪快な食べ方だ。そして吐き出されたため息は、傍目にもうんざりとしているのがよくわかった。
少しばかり心苦しくなる。
やはりミスタ・ホームズの痕跡は一切残っていないのだろう。
しかし、彼が現実に起こした結果だけは残っている。
頭も痛いはずだ。結果が残っている分、もしかしたら神隠しの類より性質が悪いかもしれない。ある種の完全犯罪と言って良い。
「……あなた、訳知りって顔をしてるわね」
「っ!」
静かな言葉に、心臓が大きく打った。
あからさまに表情が出てしまっただろうか?
何か誤魔化す言葉――いや、こういう場合、下手に言葉を重ねる方が怪しいというものか? あくまでも何も知らないフリをした方が――。
そんな考えを走らせた私に、ミス・レディーコートはケラケラと笑った。
「冗談よ、冗談。そんな変な顔しないで。私もあいつの被害者みたいなもんだけど、ある意味あなたも被害者なんでしょう? ホームズの性格からすれば、貴女がいようがいまいが関係なくあれこれしでかしたに決まってるんだから」
「ミス・レディーコート……もしかして、ミス・レディーコートは今回のことを?」
「あぁ、勘違いはしないで。詳しくは知らないわよ。何があったのかも聞いてないし、たぶんあの破天荒な探偵が関わってるんだろうな、ってわかるぐらい。でも、その分捜査も適当にしかやってないんだけどね。それが一段落したから昼食でも取ろうと思ってさ。それでほら、せっかく顕学院に来たんだし、学食とやらを体験してみようと思ったの」
そういうことだったのかと納得する横で、彼女は美人が台無しになるくらいの大口を開けてポテトフライを放り込みながら言葉を続ける。
「アリスちゃんは、いつもここで昼食を?」
「お昼は家から持参しています。ここのランチは、美味しいんですけど……少し値段が」
「たっかいわね。見てビックリしたわ。流石と言うかなんと言うか、どれもこれもその辺のレストランよりかなりいいお値段なんだもの。金持ち相手となるとやっぱりこうなるのかしら?」
「でも、その分食材は確かだそうですよ。混ざり物もないって」
「それが当たり前なの、本当ならね。巷の店屋の偽装がとんでもないのよ。そりゃ、法律が出来て多少マシになったって言うけど、未だにそれを律義に守ってくれる店なんてほんとに一握り。犯罪はバレなきゃ犯罪じゃないを地で行ってるから困りもんよ。板チョコなんて、ほんのり味がついた柔らかい煉瓦売ってるのと大差ないんだから」
手のひらほどはある白身魚のフライを二口三口、むぎゅむぎゅと口に押し込め、さらにポテトフライを二本。それを胃の中へ強引に流し込むように水を飲む。
果たしてあんな食べ方で味がわかるのだろうか?
「アリスちゃんも気をつけなね。ひどいのになると、なんて言ったかな……よくは覚えてないけど、腹痛のひどいのになるらしいし」
「慢性の胃炎ですね。昔ほどではないらしいですけど、今でも結構患者さんはいらっしゃいます。それと、塩分の取りすぎも原因の一つになると言われてますので……」
山盛りの塩が振りかけられたフィッシュ・アンド・チップスに苦笑をもらす。この量は明らかに過度な塩分摂取だ。
ただ、ミス・レディーコートはそんな私の視線には気付かなかった様子で、きょとんとした表情を浮かべていた。
「アリスちゃん、詳しいのね」
「こう見えても一応は医学科なので」
「へぇ、医学科。エリートだとは思ってたけど、その中でも選りすぐりか。家は貴族でも商家でもなかったわよね? ってことは、元々お医者さまの家系?」
「家系かどうかはわかりませんけれど、父は倫敦で医者をやっています」
「ふぅん……リトルバード診療所、って聞いたことないし、どこかの病院勤務?」
「いえ、父とは姓が違うんです。ドイル診療所って言うんですけど――って、大丈夫ですかっ!?」
「ド――っ!?」
ポテトフライを頬張っていたミス・レディーコートが突然ゴホゴホとむせた。
慌てて背中をさすって、空になっていたコップに水を注いで渡す。
ミス・レディーコートはそれをひったくるように受け取ると、一気に飲み干し、ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返した。
それが落ち着いてから、目を白黒させたまま私に問うてくる。
「ど、ドイル診療所って、アリスちゃんのお父さま、アーサー・コナン・ドイルなの?」
「はい。実子ではなく、法律上は後見人ですが……父をご存じなんですか?」
「知ってるも何も、警察の中じゃかなりの有名人よ。今は民間での医療を基本にしているみたいだけど、私がスコットランド・ヤードに入るずっと前……三十年とかそのくらい前なんかは警察で検死官をしてたの。お父さまから聞いたことない?」
「いいえ、全然……」
父は良くも悪くも過去をほとんどしゃべらない人だった。
それは私についてのことだけじゃなく、父自身についてのこともそうで、父がどんな人生を送ってきたのか、どういう経緯で医師となったのか、正直な所ほとんど知らなかった。
「今でも語り草になってるわ。通称、死体としゃべることの出来る検死官」
「死体としゃべることの出来る検死官?」
「そう。私も話に聞いただけだから詳しくは知らないんだけれど、一般的な検死は当たり前のこと、殺人事件なら、犯人の性別や大体の年齢、性格、個性、学歴、どんな職業についている可能性が高いか……とにかく色んなことを推測、的中させたんだって」
「それは……凄いですね」
「凄いってレベルを越えてるわよ。まるでそこの死人から直に犯人の情報を聞いているんじゃないかって言われるくらいで、それでつけられた二つ名が、死体としゃべることの出来る検死官。もちろん、誰もがその方法を知りたがってドクターに聞いたらしいんだけど、ドクターは決まってこう言うだけだったらしいわ」
そこで、ミス・レディーコートはどういうわけかポテトフライをを口へと運んでいた手を止めて、意味深に私の方を視線を流した。
「簡単な観察と推測だ、ってね」
「――っ!」
鋭い言葉が私の胸を衝く。
簡単な観察と推測だ。
何度もその言葉を聞いたわけじゃないけれど、私の頭にははっきりとその言葉が残っていた。
他でもない初めてミスタ・ホームズと会った時、彼はそう言って私が父の子……ドクター・ドイルの子だと当てたのだ。
「こういうものっていうのは、やっぱり線同士で繋がっているものなのね」
残っていた僅かなポテトフライを一気に片付けて、ミス・レディーコートはスーツの中から紙巻き煙草の箱を取り出すと、一本を口にくわえてマッチで火をつけた。
大きく息を吸い、長く白い煙を吐き出す。
三角形を描くように宙に滑らせた白く長い指は、そのままゆっくりと私に向けられ、まるで蝶が止まるかのような優しさで私の唇に触れた。
「ドクター・ドイルに、ホームズ。そして、今度はドクターの子であるあなた。邪推するつもりはないけれど、無関係と思うには少し役者が揃いすぎているようには思わない?」
指が離れ、ミス・レディーコートが唇を三日月にさせて笑う。整っているのにやけに冷たく思えるその微笑みは、どこかヘビを思わせた。
しかし、彼女はすぐにその微笑を崩して今度は砕けた表情を見せた。紙巻き煙草を指に挟んで右に左に手を振る。
「なんて、こういうことばっかり言っていると私みたいな幻影都市とは関わりの薄い部外者は命取りになるんでしょうね。ホームズが言ってたみたいにあんまり良い趣味とも思えないし」
「ミス・レディーコートは関係者じゃないんですか? その……幻影都市の」
「私? 違う違う。本当にたまたまベイカー通りの221Bにたどり着いただけだから。ホームズと偶然知り合って、今まで自分が当たり前だと思ってたものが簡単に当たり前じゃなくなった。不自然が自然になって、世の中の理がねじまがっていく。あいつはねぇ……なんだろ? 私から言わせてもらえば、理不尽の塊みたいなもん。だけど、この倫敦……幻影都市じゃ、時として私みたいな一般人からは到底道理と思えないことが起こるから、その解決のためにホームズを使わせてもらってるのよ。正直、あんまり深く考えないで、割り切って考えてる」
すぅ、とミス・レディーコートが大きく息を吸い込む。紙巻き煙草の先端が赤くチリチリと燃え、吐き出される煙は宙に漂うとすぐに散っていった。
「まぁ、逆に言えば割り切って考えるのは得意なのかもね。もし、アリスちゃんが幻影都市の理不尽さに心が参りそうだったら、スコットランド・ヤードにいらっしゃい。直接的な力にはなれないけれど、話くらいは聞いてあげられるから」
「ミス・レディーコート……」
近くにあった灰皿を引き寄せて、彼女は半分ほどになった煙草を押しつけた。そのままゆっくりと立ち上がってぐぐっと伸びをする。
「さて、私はそろそろ本部に戻って未知の泥棒についての書類をまとめないと。アリスちゃんは? 見たところ、人待ちって感じね」
「はい。友人を待ってるんです。さっき、電話がかかってきて、今は席を外してるんですけど」
「ああ、そう言えばここは電話もきてるんだったわね。流石、女王陛下の寵愛を受けた顕学院、設備も超一流ってわけだ」
「女王陛下の寵愛を受けた? この顕学院が、ですか?」
聞くと、ミス・レディーコートは意外そうな顔を浮かべた。
「あれ、知らなかった? 顕学院はヴィクトリア女王が直々に、肝入りで創設した学校なのよ? いわく、この倫敦を支える次なる頭脳を輩出する機関だとかで、目をかけられてるの」
「初耳です」
「ふむ……他のパブリックスクールの手前、あんまり表には出てないのかもしれないわね。女王陛下が直々に、なんて冠をつけちゃうと、他のパブリックスクールの反感を買っちゃうから」
そう言われると納得出来た。
顕学院は出来てからまだ半世紀ほどの歴史の浅い学校だ。比べ、名門のパブリックスクールは数世紀にも及ぶ歴史がある。
それが、顕学院だけが女王陛下の後ろ盾あるとされれば良い気はしないだろう。
食堂を後にするミス・レディーコートを見送り、私も自分の紅茶を飲み干す。
これが飲み終わる頃にはキャロも帰ってくるだろうと思っていたのだが、その気配はなかった。時計の長針は随分と進み、そろそろ講義の準備をしなければ間に合わなくなってしまう。
少し悩んだけれど、結局私はテーブルの上の食器類の片付けを近くの給仕さんに頼んで、事務室に顔を出すことに決めた。
事務室はその名の通り顕学院の事務全般を担っている所で、電話機は事務室の外の廊下に設置されていた。
かかってきた電話は事務室の職員さんが応対して、必要があれば先ほどのように学院生に取り次ぎをしてくれる。逆に、申請すれば学院生でも電話をかけられるようになっている。
キャロが講義の時間も忘れて電話に没頭している……というのは考えにくいけれど、まぁ、もしかしたら思った以上に話に花が咲いているのかもしれない。
そんなことを思いながら、電話のある廊下へと顔をのぞかせた瞬間。廊下の壁全体を震わせんばかりの大きな怒声が聞こえてきた。
「だから、どうしてそうなるのよっ!?」
突然のことに肩が跳ねる。
一体何事かとその声の主を見ると、驚いたことにそれは他ならぬキャロだった。
滅多に感情を昂らせない彼女がここまでの声を上げるのはそうあることじゃない……と言うより、ここまで激昂した彼女を見るのは初めてのことと言って良かった。
「ちょっと待って! 私はそんなこと一言も――」
彼女の声は収まらず、事務室の中からは職員さんも心配そうにキャロの方を見やっている。幸いだったのは、廊下には私以外の学院生がいなかったことだろうか。
かと言って電話の途中に割って入っていくことも出来ない。受話器の向こうから声が――きっとキャロのお父さまだろう――聞こえてくる。
そして、それを聞いてキャロの目つきはさらに鋭いものになった。
「勝手なことを言わないでっ! そういうものに私は飽き飽きしたの! 私は、私なりのやり方でやらせてもらうわっ!」
そう啖呵を切って、キャロはがしゃんと受話器を半分叩きつけるようにして壁にかけた。まだ向こうでは何かをしゃべっていたように思うのだけれど、あんなに一方的に切ってしまって大丈夫なのだろうか?
廊下に痛いほどの沈黙が降り、声を荒げていたキャロの息づかいまでもが聞こえてきそうに思えた。
「……キャロ?」
電話を切った姿勢のまま、呼吸を整えるように立っていた彼女に近付いて声をかける。ビクリと彼女の背筋が僅かに震え、振り返る。
「アリス……いつから、そこに?」
「ついさっきからだけど……ごめんなさい、なんだか盗み聞きをしちゃったみたいで……」
「ううん、良いの、良いのよ……」
そう言って、キャロは口元を緩めて笑おうとしたが、ネコを思わせる大きな琥珀色の瞳からは静かに一筋の涙が流れ出した。
「キャロ……大丈夫?」
「ご、ごめんね、ごめんなさい。これじゃあ、変な心配をかけてしまうわね」
彼女は慌てて手の甲で流れ出した雫をぬぐった。
「本当に大丈夫よ? 少しお父さまと意見が合わなくて口喧嘩になってしまったの。本当にそれだけ。この涙は……なんだろう、少し気分が荒くなってしまった、っていうのかしら? ……ほら、もう大丈夫でしょう?」
それから彼女は笑顔を浮かべて見せたけれど、それはどこかサーカスの道化師を思わせる歪なものだった。
大丈夫とは言っているけど、たぶん本当は大丈夫じゃない。
そうわかっているのに、こういう時どんな言葉をかけてあげれば良いのか私にはわからなかった。
熱が出たとか、咳が止まらない、指を切って血が出てしまった。その程度の身体の不調や傷なら私にだって出来ることはある。
けれど、心を傷つけてしまった親友にはかける言葉すら上手い具合に見つけられない。それが腹立たしかった。
「あの、キャロ……」
「あら、もうこんな時間だったのね。ごめんなさい、危うくアリスまで講義に遅刻させちゃうところだった」
そうやって彼女は私に何も言わせないまま先を歩いていってしまう。
こういう時、彼女は決まって私より大人なのだ。
私はただ、そんな彼女の背中を見る他にどうしようもなかった。
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