幻影
学院にて
「そもそも、あの教授の見る目がないのよ」
あむりと開けられた大きな口に、新鮮な野菜の挟まれたサンドイッチの半分近くが一気に収められた。
「何が今回だけは、特別だ、よ。偉そうに。私の詩の……美しさがわからないなんて、脳みそ、腐ってるんじゃないの?」
「キャロ、食べるかしゃべるかどっちかにしたら? お行儀悪いよ」
苦笑しながら私もランチのライ麦パンを千切って口に入れる。
夏が終わり、徐々に秋の色が深くなりつつある。
時折吹く風は寒さを引き連れ、思わず身震いしてしまうこともあったが、それでも雲間から微かにもれてくる光にはまだ暖かさが残っていた。その名残を存分に味わおうとするかのように、学院のテラスには多くの学生たちの姿がある。
彼女と合流したのが二十分ほど前。それからというもの、彼女の口からは子爵家の子女とは思えない口の悪い愚痴が延々と零れ続けていた。
顕学院のランチタイムは、言うなれば将来を約束された人たちの小さな社交場だ。
ぱっと見渡しても、半分固くなった黒いライ麦パンなんかを食べているのはせいぜい私くらいなもので、ほとんどの学生は白いパンやサンドイッチを口にしている。中には自前と思しきティーセットまで持ち込んで、優雅という言葉を体現しようとしているかのような学生までいる。
今は家元を離れて寮に住んでいるとは言え、彼、彼女らのほとんどはれっきとした貴族の家系か、成功した商家や貿易商の子供なのだ。
「やっぱりあべこべ過ぎるのよ、この学校は」
サンドイッチの塊を飲み下したらしいキャロが再び口を開く。
「それは、私だってもう初等科や中等科の子供じゃないわ。この学院が学術のみを追求する純粋な教育機関じゃない、ってことぐらいわかってる。だけど、ここは仮にもヴィクトリア女王に愛された都市、寵愛都市である倫敦を代表する新進の王立顕学院なのよ? その辺の伝統だけが取り柄のようなパブリック・スクールとはわけが違うわ。形態だけじゃなく、講義の内容ももっと先鋭的なものを評価しても良いはずよ」
「つまり、キャロが課題で提出した詩は先鋭的だったの?」
「だったの? ってアリス……」
がっくりとした様子でキャロは大きくため息を吐いた。
「さっき見せてあげたじゃない」
「それは、見せてはもらったけど、私には詩の良し悪しなんてわからないもの。技巧とかそういうのはもちろんだけど、作品に込められた意味とかそういったものをくみ取るのも苦手だし」
「そうじゃないの。もちろんそういった見方も大切よ? 作品が持つ意味とか、どういった意図があるかとか。無意味だとは言わないわ。だけど、アリスは評論家でもなんでもないんだから、その詩をどう思ったか、どう感じたかが重要なの」
「どう感じたか?」
「そう。その詩を読んでアリスはどう思った? なんでも率直に。思った通りのことを言葉にしてみて。別にけちょんけちょんに貶したって構わないから」
「そう言われても……」
と私は答えに窮した。
「……やっぱり私に、詩のなんたるか、なんて語れるような才能はないわよ。そういった感じじゃなくて、ほら、昔、まだ顕学院に入る前に物語を話してくれたことがあったじゃない? 少女がうさぎを追いかけて、不思議の国に迷い込むお話。あれはお世辞抜きにとても面白かったわ。私にはああいうのが合ってる気がするの」
「あー、あったわね、そういうのも……」
「あれは文章に起こしたりしないの? 私はよく知らないのだけれど、新聞や雑誌に寄稿したら、もしかしたら載せてもらえるんじゃない?」
キャロは「そんなまさか」と笑った。
「あれは本当に即興で作った物語だもの。そんな即興モノの物語を寄稿だなんて考えたこともないわ」
そうなのだろうか? 個人的には本当によく出来ていて、それこそ学院の図書館に一冊並んでいてもいいように思う。
「アリスも結構どうでも良いコトを覚えているものね」
「どうでも良いコトじゃないわよ。私とキャロの大切な思い出の一つなんだから」
「こっぱずかしいこと言わないで。いたずらに紡いだ物語を大切な思い出って言われたら、私だって忘れられなくなっちゃうじゃない」
「それなら、一生忘れなければ良いだけの話よ。思い出は多くて持ちきれない、ということはないのだから」
キャロは肩をすくめて「そういうことを平気で言えるのがアリスがアリスたるところよね」と独りごちる。私には出来そうにない、と表情が言っている。
「それで、最近はどんな物語を書いてるの?」
「今はミステリーね」
「ミステリー?」
「そう。中世の神聖羅馬帝国を舞台にしたお話よ。少し不思議でちょっと怖い、ミステリーサスペンス」
ミステリーサスペンス。
その言葉で、私は週末の出来事を思い出した。
今日は朝にキャロに会っていないし、お昼休みになったら一番に相談しようと思っていたのだけれど、会うなりキャロが教授の愚痴を言い始めたからタイミングを逸していたのだ。
「そう言えばキャロ、この前、街中で会ったでしょう?」
「この前って週末のことかしら? 私が劇を見に行こうとしていた」
「そう、その時。あの後ね、実は不思議なものを拾ったの」
スカートのポケットからあの時拾った例の紙を取り出そうとした、正にその時だった。
「あ、あの――」
私の行動を千切るように、誰かの声が横から入ってきた。
「ミス・リトルバードでしょうか?」
恐る恐るといった声色。
動作を止めて見ると、ひょろりと背の高い、金色の髪を短く刈った一人の男子学生が立っていた。
「はい。リトルバードは私ですが……」
どこかで会っただろうかと考えるが思い当たらない。
「何か御用でしょうか、えっと……」
「ハイドリッヒ。ベッティ・ハイドリッヒと申します。専門課程医学科に在籍しています」
やや早口気味に彼は言った。
雰囲気から思うに私やキャロよりいくらか年上に思える。
「お話ししたいことがあるのです。お手数ですが、少しだけお時間を頂戴しても構わないでしょうか?」
やけに丁寧な口調と強張った面持ちがどこか違和感を覚えさせる。
顔は病的に青白く見え、目の下の隈が一層際立っていた。なのに眼力だけは異様に強く、ただ向き合っているだけなのにどこかすごまれているかのような錯覚を受けた。
父の診察に付いて回ると、たまにこういった顔をした患者に出会うことがある。そのほとんどが器質的な問題ではない……つまりは精神的な問題から不眠に陥っている患者だ。
「お手間はおかけいたしません。少しの時間で良いのです。どうかお願い出来ませんか?」
「それは構いませんが……」
視界の端でキャロがちらりと私に目配せする。
気をつけて。
そんなニュアンスの視線に私は小さくうなずいて見せた。
席を立って、テラスから建物の中に移動する。
人気のない暗がりに移動すると、彼は唐突に口を開いた。
「あの、ミス・リトルバードがドクター・ドイルの家に下宿しているというのは本当でしょうか?」
「下宿?」
「はい。一緒に住んでいらっしゃると耳にしたものですから」
医師という職業柄、父はこの倫敦においてそれなりの有名人だ。
そして、時々とは言えその手伝いをする私も一般の人よりかは顔が知られている。噂好きな人でなくとも、ティー・ハウスやバーに出入りをしている人であれば、父と私の間柄も知っていることが多い。けれど、彼はどうやらそうではないらしい。
逡巡したが、別に隠さなきゃいけない何かがあるわけじゃない。
「下宿というのは違います。ドクター・ドイル……アーサー・コナン・ドイルは私の父です」
「そうなのですか? ですが、ファミリーネームは……」
「ええ。血の繋がった親子ということではありません。法律的にも養子ではなく、後見人です。父というのは……そうですね、便宜上、とでも思ってください」
「そ、そうだったのですか」
彼が神経質そうに組んだ手をすり合わせた。
一度途切れた会話にしんとした空気が落ちてくる。まぁ、よもやこれを確かめるためだけにわざわざ声をかけてきたわけではないだろう。
彼は落ち着かない様子で視線を彷徨わせ、幾度か口を開いては閉じるのを繰り返した。そして、
「その……ドクター・ドイルの御助力をいただきたいのです」喉の奥から引きずりだすように言った。
「助力、ですか?」
「そうです。そのために……その、ミス・リトルバードからドクター・ドイルにご紹介いただければと思いまして……」
「あの、父の助力と言うと、どこかお体の具合が悪いのですか? それとも、お知り合いの方に何か?」
「い、いえ、そういうわけではないのです。そういうわけではなく……ドクター・ドイルはこの学院の教授とも親交があると聞いて……」
歯切れ悪く言葉を濁すと彼は頭をかきむしって俯いてしまった。
一方の私は要領を得ない。
父が助力を求められること自体は全く珍しいことでもなんでもない。
父はもうかれこれ三十年以上、私を引き取る十年以上前からこの倫敦で医師をやっているらしい。
その父に助けを求めてくるのは、明日の生活にすら困るほどの貧困層の人から、貿易で大きく財を伸ばした商人。それから、気位が高く、まず普通なら貴族御用達でない、ただの中流階級の医師なんかに助けを求めてくることなどないだろう貴族までとかなり幅広い。
そして、その技術が確かなことは私が誰よりも知っていた。
この顕学院で学ぶ、世界においても最先端であるはずの医療技術をすでに父が実際に治療の一環として行っていた、なんてことは一度や二度じゃない。
だが、彼はどうやらそういった医師としての父の助力を請うてるわけではないらしい。
「どういったことなんでしょう? 力になれるかどうかはわかりませんが、どうぞおっしゃってください」
「それは……」
そこで彼が再び言葉に詰まる。視線こそ上げたが、そこにはまだ躊躇の色が浮かんでいた。その色が消えないまま彼はゆっくりと言葉を続ける。
「教授に……進言をして頂きたいのです」
「教授に進言……?」
「ですから……その――」
「――ミスタ・ハイドリッヒ!」
いきなりの大声が背後から飛んできて、思わず肩が跳ねた。
「まさかとは思ったが、やはり君だったか。こんなところで油を売っている時間があったとは驚きだ」
「コ、コリンズ教授……」
「遅れている査定論文の締め切りは今日のはずだな。まだ私は受け取っていないように思うが……どうだろう?」
カッカッと甲高く鳴る靴音に私は慌てて身体を壁に寄せて道を開ける。
白髪混じりの髪を後ろに撫でつけた初老の男性――医学科の内科教授であるコリンズ教授の眉間にはいつもより深い皺が刻まれていた。
「これで何度目だったか。数えるのもバカらしいかもしれないな」
元より愛想のある方とはとても言えないけれど、今日はいつもに増して刺々しい。その語調に関係のない私が思わず肩をすくめてしまう。
「そ、それは……えっと……」
「今まで大目に見てきたつもりだが、これ以上遅れるようなことであればいよいよ考えなければいけないことになる。それともあれか、もう既に荷物をまとめて、独逸に帰る準備が出来たということかな?」
「そんなことは! 今週中……い、いえ、明日には必ず提出いたします。もう少し時間をいただければ、必ず……」
「言葉はいらんよ。百の言葉を並べるくらいなら、たった一つ、するべきことをした方が建設的だとは思わんかね? 少なくとも私はそれが誠意というものだと考えるが?」
「も、もちろん。私もそう思います」
「ならばここにいることは実に矛盾しているな、ミスタ・ハイドリッヒ」
「……はい。コリンズ教授。それでは、失礼いたします」
ペコリと小さく頭を下げると、彼はくるりと背を向け、逃げるように廊下の奥へと消えていった。
普段からどこか怒り肩。ただでさえ、何時であろうと眉間からその皺が消えることはない、と噂されるコリンズ教授を怒らせるとこうなるのか。
「それで、ミス・リトルバード」
「は、はいっ!」
突然矛先がこちらを向き、私の背筋はぜんまい仕掛けの人形のようにピンっと伸びた。
「君はミスタ・ハイドリッヒの友人なのかね?」
神経質そうに髪を一撫でして、鋭い眼光が私を見やる。
「い、いえ、それは……」
「違いますわ、コリンズ教授」
「へっ?」
振り返ると、余所行きの微笑みを浮かべたキャロが立っていた。
「……君は?」
「お話の途中、失礼いたします。文学科に所属しているキャロル・ルイスと申します」
スカートを軽くつまみ、名家の子女らしく優雅な振る舞いで挨拶をする。
「私たちは先ほどまでテラスでランチをとっていたのですが、そこに彼……ミスタ・ハイドリッヒが訪ねてきたのです。なんでも、ミス・リトルバードに折り入って話があるとのことで。それが初対面で、彼と元々面識があったというわけではございません。ね、アリス?」
「え、ええ。そうです」
「少し戻ってくるのが遅いように思ってこちらに来たのですが、何か問題でもあったのでしょうか?」
「いや、なら良いんだ」
コリンズ教授は意を得たという様子で小さく数度うなずいた。
「ミス・リトルバード。個人の交友関係にまで口を出すつもりはないが、あまり不毛な付き合いはしない方が身のためだ。君の所業はドクター・ドイルの評判にもつながるということを頭の片隅に入れておくと良いだろう」
「はい。気をつけます」
コリンズ教授を見送る。
講義を受けている時も決して柔な方ではないと思っていたが、怒るとその迫力も段違いだ。
もちろん尊敬出来る先生ではあるのだけれど、お近づきになるのは少し遠慮したいかもしれない。
「……それで、変わり種の留学生さんはアリスに何の用事だったの?」
「変わり種の留学生って?」
「彼のこと。ベッティ・ハイドリッヒ。独逸からの留学生で、家は貴族でもなんでもない、ただの中流階級の家みたい。あの成りでわかるかもしれないけど、私たちよりだいぶ年上。去年も単位修得不足で留年をしてるから、噂好きの人たちの間じゃちょっとした有名人よ。単位落としのハイドリッヒ、ってね」
「そうなの?」
「アリスも嫌ってくらいにわかってると思うけれど、ここじゃお金持ちじゃない、っていうだけで注目の的だもの。加えて、彼は今期も卒業は絶望的。最近じゃ来年のことを考えてか、学費集めにあちこちに頭下げてるみたい。これで目立つなって言う方が無理ってものだわ」
「確かにそうね……」
「アリス、まさかお金の融通の相談されたんじゃないでしょうね?」
「ううん、私にはそんなことは一言も。第一、この学院でお金を借りようと思ったのなら、私に声をかけるのなんてただの時間の無駄使いもいいとこじゃない。学院生の九十九パーセントは私よりはるかにお金持ちなんだから」
「それじゃあ、彼はなんて?」
「それが、お父さんの助力が欲しいって。教授への進言がどうのこうのって言ってたけど……」
私がそう言うと、キャロは「ははーん」とどこか訳知り顔になった。
「なるほど、資金集めにはかなり苦労してると見えた」
「どういうこと?」
「良いこと、アリス? この世界はあなたが思っている以上に汚い世界なのよ。無理を通せば道理は引っ込むし、袖の下を振りまけば正義は呆気なく敗北しちゃう」
「まぁ、言いたいことはなんとなくわかるけど……」
「そして、それはこの学院も例外じゃないってこと。アリスのお父さまから、ベッティ・ハイドリッヒという学生をなんとか卒業させてやって欲しい、とでも医学科の教授に言ってもらおうって考えてたんでしょ」
それに私は思わず笑ってしまった。
「それはちょっと安直過ぎるんじゃない? 確かにお父さんが教授の何人かと親交があるっていうのは知っているけれど……だからってお父さんが口添えしたところで、留年が卒業に変わるなんてとてもじゃないけれど思えないもの」
「もしそれを本気で言っているなら、あなたはお父さまのことを甘く見すぎよ」
ちっちっち、と人差し指を左右に振りながらキャロの顔が「まだまだね」といった表情に変わる。
「もちろん、ただの知り合い程度ならそうかもしれないわ。けど、相手はあのドクター・ドイル。この顕学院に所属している医学科の教授でも、多かれ少なかれドクターに借りを作ってる教授は少なくないという話よ。アリスも、何回か家に教授が来たことがあるって前に話していたでしょう? とある教授なんかは、自分の請け負った貴族の治療方法をドクターに相談していたことさえあるって聞いたことがあるわ」
「教授が? お父さんに?」
「もちろん実際には内密も内密の話だけどね。顕学院の教授ともあろう人が他の医者に治療方法を乞うなんて沽券に関わるもの。だけど、私だって自分が仕入れた情報にはちゃんと自信を持っているわ」
それでもやはり私にはピンとこなかった。
父がこの倫敦でも頼りにされている、腕の確かな医者であるということは一応理解しているつもりだったが、私にとっては、寡黙であまり愛想が良いとは言えないけれど、それでもきちんと私のことを見ていてくれる……世間的にありふれているだろう普通の父と変わらない。
威厳というものを言うなら、良い意味でも悪い意味でもこの学院の教授たちの方があるだろう。
「そういうことだから、もしドクターが口添えをしたら、一人の学生の留年くらいサクッとどうにかなっちゃう可能性はあるでしょうね。もっとも、アリスのお父さまの性格からすると、頼まれたところでそんなことをするとは思えないし、アリスだってそんなことを頼んだりしないでしょうけど」
「うん。それはそうかも」
口うるさい人ではないが、小さい頃から父が口癖のように私に言い聞かせていることがある。
『常に誠実でありなさい。そして、いかなる時でも自らを欺くようなことはせず、自分の行動に胸を張れるように振る舞いなさい。』
そのことから考えれば、こっそりと裏口から卒業出来るように口添えを頼むなんてことは到底出来ることじゃなかった。
「まぁ、あの留学生にはあまり深く関わらない方が良いわ。李下に冠を正さず。コリンズ教授の言うことも一理あるわ。その気がなくても、人っていうのは好き勝手に言うものだもの」
予鈴の鐘が鳴るのを聞きながら、キャロはそう私に言った。
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