幻想都市のアリス
猫之 ひたい
プロローグ
プロローグ
ドアを開けると、空は濁ったオレンジ色に染まりつつあった。
少しだけ様子を見ようと訪ねたのだが、出された紅茶を頂いている間に結構な時間が経ってしまっていたらしい。
「アリスさん、今日はわざわざありがとうございました。ドクター・ドイルにも、どうぞよろしくお伝えください」
「はい。もう熱も下がりましたし、咳もあと一週間もすれば抜けると思います」
「ありがとうございます。お代は必ず……必ず、今月末までには支払いに伺いますので」
「そんな、気になさらないでください」
まだ少し看病疲れの見える母親に小さく微笑みかける。
「余裕が出来てからで一向に構わないと父も申しておりましたから。それより、無理をなさって体を壊してしまわないよう、気をつけてください」
ここはスラム区じゃないけれど、テムズ川の南岸沿いで少し東寄り。今もネズミ色の煤煙を上げ続けている郊外の工場に勤める父親と、普段は西地区に女中として働きに出ている母親。そして、まだ幼い一人娘の家庭は、食うに困るほどではなかったが、決して裕福とは言えなかった。
「またね、アリスお姉ちゃん」
「ええ。ちゃんとお母さんの言うことを聞いて、大人しくしてるのよ」
ベッドから顔をのぞかせたお転婆な少女に軽くくぎを刺して私はそのアパートを後にした。
なるべく大きな通りを選びつつ、足早にテムズ川にかかった橋を渡ると、周囲は行き交う人でごった返していた。
夕方は、特に今日のような週末ともなるとなおさら、この中央区が一番賑やかになる時間帯だ。
港や紡績工場、それから商工会や清掃員の人たち。
とにかく、勤めを終えた人々が街に繰り出し、劇場では先鋭の戯曲が上演され、パブではこの一週間の愚痴が人々の口から吐き出される。通りを行き交う馬車の蹄の音もどこか軽快だ。ちなみに、ティー・ハウスでの最近のもっぱらの話題はウッド・スティの最新作、『タータレンの娘たち』のようだけれど、文学作品はさっぱりな私にはちんぷんかんぷん。
一昨日に石炭雨が降ったばかりだから、今日はいつもに比べて煤煙の濃度が薄い。目につく所の清掃も昨日の内に終わっているから、霧と煤煙の都市の名を欲しいままにしているこの倫敦でも白さが目立つ。
何台かの馬車が過ぎ去るのを待ってから道を横断して、少しだけ時間が気になった。
もうちょっと遅かったら辻馬車を捕まえた方が安全だけれど……まぁ、まだこの時間帯であれば乗り合い馬車で問題ないだろう。
父は安全のことを考えてか、さかんに「辻馬車を使うように」と言っているけれど、そのお金だってバカになるもんじゃない。一回一回はそれほどでなくたって、積み重なれば家計にずしんと重くのしかかってくる。
そんなことを考えて、乗り合い馬車の駅に向かおうとしたその時。小さいけれど客室のついた幾分上等な馬車が、馬の小さないななきと共に動きを止めた。
馬車待ちのお客と間違われた?
そう思うのと、客室の窓が開くのはほとんど同時だった。
「ごきげんよう、アリス」
「キャロ」
顔をのぞかせたのは、私がこの街で一番と言っても良いほど見知った顔だった。
「こんな時間に会うのは珍しいわね。何かお買いもの?」
「ううん。お父さんのお手伝い……ってほどのことじゃないけど、南岸沿いの家に行っていたの。この前熱を出した子がいてね、その子の様子を見に。キャロは……行先は劇場かしら?」
「ご名答。夕方の公演に間に合わせるために必死に学院の課題を終わらせたところよ」
「本当、キャロは戯曲が好きね。でも、あんまり遊び呆けているとご両親に怒られるわよ?」
「遊び呆けているとは失礼ね。私は文学科だもの。日夜生みだされている最先端の戯曲を鑑賞することだって大切な勉学の一環だわ。それに、ちゃんとお小遣いの範囲でやりくりしてるんだから。誰に文句を言われる筋合いもないわよ」
そこまで言って、彼女は何かを思いついたのか、「そうだ」とピンと人差し指を立てた。
「アリスも今から一緒にいかがかしら? 今日の主演はこの繁栄極める寵愛都市、倫敦に颯爽と現れた若き天才、ニコライ・フィッシュマンよ。あなたも噂くらいは聞いたことあるでしょう? チケット代なら私が出してあげる」
「ありがとう。だけど、遠慮させていただくわ」
「あら、流行りの美形には興味はない? まだ彼に浮いた話はないわ。席は役者からもよく見える一等席。眩いまでのブロンドの髪を持ったあなたなら、もしかしたら逆に彼の目をくぎづけに出来るかもしれないわよ?」
「ううん、そういうことじゃなくて」
小さく苦笑する。
文学科に所属する彼女が戯曲好きなのはうなずけるとしても、キャロはそれと同じくらいに俳優や女優……いや、そういった有名人を問わず、様々な噂に精通していた。
「あまり遅くなるとお父さんが心配するし、早く帰らないと」
「それは残念だわ」
と言いはするものの、彼女は私の返答を予想していたようだった。
「本当、アリスはお父さま想いね。でも、そんなんじゃいつまで経ってもお嫁に行けないのじゃないかしら?」
「その時はその時よ。無事に学院を卒業して、立派なお医者さまになれたら、名門子爵貴族の跡取り娘、キャロル・ルイスさまに専属医として雇ってもらうわ」
「ほぉ、なかなか良いところに目をつけたわね。考えておいてあげる」
目を合わせて、くすくすと笑い合う。
「それじゃあ、今日は別に構わないけれど、今度の誕生日はちゃんと予定を開けておいてくれるのよね?」
「うん。それは大丈夫」
「我が親友、アリス・リトルバードの誕生日。盛大に……というのはあなたは嫌いだろうから、ささやかに淑やかに、だけど、心のこもったお祝いをしてあげる」
「期待してる」
「しててちょうだい。それじゃあまた週明け、学院で」
「あんまり遅くならないようにね。ご両親には怒られなくても、寮の門限を破ったら寮母さんに雷を落とされるわ」
「ええ、気をつけるわ」
小さく手を振ってキャロの馬車を見送る。
私も暗くなる前に帰らないとならない。
東地区とは比べ物にならないくらい治安は良いけれど、週末の夜を迎えていくらか開放的な雰囲気になった繁華街の風紀は決して良いとは言い難い。これといって物騒な話を最近聞いたわけじゃないが、それでも酔っ払いや何かに絡まれるのは勘弁願いたいのだ。
ちょうど空がオレンジから紺色に変わり始め、等間隔に並んだガス灯が点き始めていた。街の明かりがキラキラと光るこの光景は煤だらけの街の中ではロマンチックな方だろう。
だから、
「っ!」
情熱的に抱き合ってキスを交わすアベックの姿が視界に入って、私は慌てて視線を逸らせた。
戯曲でこういったものに慣れているだろうキャロに見られたらまた、「本当、無垢な箱入り娘なんだから」と笑われそうだけれど、私はこういったものにまだ耐性がほとんどない。
微かに熱くなった頬を妙に気にしながら、なるべく距離を取って、足早に隣を通りすぎる。
ああ、まったく……。
別に恋とか愛とかを否定する気は毛頭ないけれど、それでもせめて少しくらいは人目と言うものをはばかって欲しい。
「………………」
……もちろん、私だってそういったことに全く興味がないわけじゃ……ない。
わけじゃないけれど、今の私には……もちろんそういう相手もいないし……
――と、とにかく、私にはまだ早いのだ。
乗り合い馬車の駅がある通りに出て、ふっと息を吐き出す。
さて、家に帰って夕食を食べたら私も課題にとりかからないといけない。今週のレポートは『瀉血の始まりとその変遷、もたらす悪影響』について。
父の手伝いをしているから簡単な外科的処置はもう一通り出来るつもりだけれど、理論より実践が先んじてしまっているから、レポートにするには少し文献をひっくり返さないとならないだろう。
そんなことをとりとめもなく考えた時、紺色の空に白い影のようなものを見た。
「何かしら、あれ?」
気になって、その場所の下まで歩を進める。
ひらり、ひらり。
……紙だ。
そんなに大きくはない。ちょうど学院で使っているノートくらいの大きさだろうか?
それはまるで見えない何かに導かれるように、宙で二度三度その身体を舞わせると、私の手の中に滑り込んできた。
それを私は、まるでそうすることが必然であるかのように手に取った。
上質な白い紙はどこが破れているわけでも汚れているわけでもなく、綺麗な長方形をしていた。そして、無機質さを感じさせる角ばった文字が何行かに分かれて書かれている。
その文面にざっと目を通す。
―― 【求】助手 ――
―― 業務内容。雑務一般――
―― 年齢・性別・経歴、全て不問。その他条件は要相談 ――
―― ベイカー通り221B ――
そして、最後に書かれていた、これを書いたと思わしき人物のサインを目にした時、私は自身の目を疑った。
「私立探偵……シャーロック・ホームズ?」
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