Ep.112 口封じ

 数日前、俺と心美を罠に嵌めた猟師が根城にしていたログハウスよりも遥かに簡素な造りをしている平屋へと向かった後のこと。予期せぬ来訪者により感情的な態度を見せたのは、ここの家主として質素な生活を強いられている様子の没落貴族──ノア・ルンドストロムだった。半ば強引な杉本の説得が功を奏し、屋内へと通された俺たちだが、その内装も平屋の外観から予想していたように惨めなものだ。


"I'm sorry, but I don't even have enough chairs, let alone teas and cakes."

(悪いが、ここには来客用の茶菓子どころか、人数分の椅子すらない。)


"Please don't bother yourself. As I just said, we will not stay long."

(どうかお構いなく。今し方申し上げた通り、長居するつもりはありません。)


 かつての事件に冤罪被害者として関わった人物からどうしても情報を引き出したい心美と、貴族としての威厳など見る影もなく迷惑そうに頭を抱えているノアとの攻防は、その後も水面下で繰り返された。だが言うまでもなく、口八丁の駆け引きでは我が相棒に軍配が上がるのも必然だ。


 とはいえ、諦観の果てにとても流暢な英語を話しているノアの言葉に嘘偽りがあるでもない。現に、不貞腐ふてくされて開き直った態度を取る清潔感のない男と相対し、細かな汚れと傷で覆われた木のテーブルを囲んだ俺たちが腰掛けようとしたのは、背の低い木製の空箱だった。


 "It's funny, isn't it? Even the noblest of noble, if I make one mistake in life, this is what I get."

(ああ可笑しい、笑えよ? 例え高潔なる貴族だろうと、人生たった一度の過ちを犯せば、この有様だ。)


 仕方なく、椅子の代わりとしては随分と小さな木箱を腰の高さに合うように立ててみると、丁度杉本が持っていた木箱に中身が残っていたのか、ごろごろと球状の物体が転がる音と同時に蓋が開き、床を滑るようにして何かが飛び出した。勢いのまま転がって、自らの足元にぶつかって動きを止めた掌大しょうだいの茶色い球体を拾い上げてみると、それらは何の変哲もない、やや小ぶりな不揃いの芋だった。


 糸がほつれて所々に穴が開いている布切れから覗く枝のように細長い四肢、そして病的なまでに痩せこけた頬から察するに、ここで暮らすノアには衣食住に関わる選択権すらも与えられていないようだ。



 §



"So you mean, the woman who visited my house just now was Olivia Plumbago......?"

(ということは、さっき俺の家を訪ねてきた女がオリヴィア・プルンバゴだったとでも……?)


"That's right. I don't know what happened between you and Olivia, but I would like you to tell us about an incident you were involved in four years ago."

(その通りよ。オリヴィアとの間に何があったのかは知らないけれど、私たちにも貴方が関わった4年前の事件について教えてほしいの。)


 一足先にノアのもとを訪れていたと思われるオリヴィアと心美が別人であるという説明には、かなりの時間と根気強さが必要だった。それもそのはず、誰もが一目見れば決して忘れぬほどの特徴的な白髪と美貌を誇る心美に似通った人物など、この地球上に存在しているかすら怪しい。


 ノアの話によれば、やはりオリヴィアは実際に、探偵・茉莉花心美を名乗って数時間前にこの平屋を訪れていたそうだ。その要件は俺たちと同様、件の殺人で誤認逮捕されたノアを助けたオリヴィアの父・ウィリアムがその後の事件に巻き込まれてしまった経緯を探るべく、貴重な情報源として、存命中唯一の関係者を当たったということだ。


"Hm. But whoever you are, I don't have the right to go out of my way to talk to you about that case."

(ふん。だがお前が誰であろうと、俺にはあの事件についてわざわざ話してやる義理はない。)


 事情を把握して尚も、ノアの強硬的な姿勢は変わらない。頻りに貧乏揺すりをしながら、ぼろぼろになっている爪を噛んでは緊張を誤魔化している彼にとって、4年前の事件は額面通り自身の人生を一変させた、思い出したくもない出来事だろうというのは考えなくても分かる。だからといって、こちらも易々と引き下がる訳にはいくまい。


"For some reason, we are acting in the form of a commission from Sugimoto here to uncover the truth of a series of incidents. So, if we can get your cooperation and successfully solve the case, we will be happy to give you a part of compensation."

(訳あって、私たちは一連の事件の真相を突き止めるようにとこちらの杉本さんから依頼を受ける形で行動しているの。だから、もし貴方からの協力が得られて無事に事件が解決した暁には、報酬の一部を譲ってあげても良いでしょう。)


 その時、心美の話を聞いたノアの血走った目に初めて光が宿った。


"I see. It seems that the story that you and that woman are different person is not a lie."

(なるほど。お前と例の女が別人だという話もあながち嘘ではないらしい。)


 その言葉を聞いて、オリヴィアは一体、この頑固な男からどのように情報を吐かせたのだろうかと僅かに逡巡する。他人と会話をするのは相当に久しぶりなのか、ノアは掠れ声を絞り出して、吃音気味になりながらも忌まわしき記憶を掘り起こすのだった。



 §



 2019年のとある夏の日、造船工業が盛んなスウェーデン最南部の大都市・マルメを代々治めてきた公爵家の長男であるノア・ルンドストロムは、来たる爵位継承に備え、造船に必要不可欠な鉄鉱石の採掘場として鉄鋼業を主要産業とするキルナ市内を、所謂商談のために単身訪れていた。


 とはいえ、まだ世間知らずの高枕で日々を過ごしていた未熟者だったノアを支え、その仕事ぶりをルンドストロムの現当主に報告するため、馴染みの侍女をひとりだけ連れていた。見聞が狭く、世情に疎いノアの初仕事は全てが計画通りとはいかないまでも、貴族家の秘蔵子として英才教育を施されてきただけあって、商談は無事にまとめることができたのだ。


 キルナとマルメ──両都市間の距離は相当に離れているため、その日は市内に一泊して、出発は翌日の朝にするよう勧めた侍女の具申に従い、夜の帳が下りた頃、場末の民宿へと足を運んだ。一日中、あちこちを駆け回って現当主である実父の仕事を代行したノアは心身共に疲弊し、心地良い達成感を抱きながら、侍女とは別の部屋ですぐに眠りに就いた。


 異変が起きたのは、その数十分後だった。女性の悲鳴と争うような物音、その直後に響き渡った一発分の銃声により叩き起こされたノアは、その音に導かれるがまま部屋の外へと向かった。一体何事だろうかと、寝惚け眼を瞬かせつつ民宿を出れば、玄関前には一筋の細い水溜まりができていた。古い外灯が明滅し、頼りになるのは部屋を出る際に電源を入れたままにしてしまった窓から漏れる淡い光のみ。起き抜けの夜目には色すら分からない謎の水溜まりが広がる方へと視線を向ければ、そこには脇腹に開いた風穴から蛇口を捻ったかの如く黒い血を垂れ流して横たわる、若い女の姿があった。


 ノアは激しく狼狽した。銃声と、重傷の女──それが何を意味しているのか分からないほど世間知らずではない。晦冥の中を必死に見渡して、周囲に危険が潜んでいないか怯え切っていたノアに、女は弱り切った声で助けを求めた。年の頃は自分よりも一回り小さいくらい、それがどうして人気のない民宿の傍で銃に撃たれることになるのか、加害者は何処に消えたのか、ぐるぐると脳内を渦巻く疑問に突き動かされるように、ノアはポケットからハンカチを取り出しては両手を女の傷口に押し当てて止血を試みる。だが、どれだけ経っても一向に血が止まる気配はなく、痛みに呻く女の苦しそうな表情と、己が罪悪感が膨れ上がっていくばかりだ。


 結果的に、敢え無く女はその短い生涯の幕を下ろした。死に際、罪悪感に咽ぶノアを虚ろな目で見つめながら父の名を呼び続けた女の血に塗れ、その場にただ独り残されてしまったノアは殺人事件の犯人として逮捕された。ノア自身、次期当主として仕事を任されるようになるなど現当主からの信頼も厚く、人柄も決して悪くなかったからこそ商談も完遂することができたのだ。また、同じ民宿に泊まった侍女の「犯行時刻である夜、ノアは別室で休んでいたはずだ」という目撃証言も手伝って、ノアの無実は何の障害もなく立証できると思われた。


 だが、ルンドストロム家が抱えている顧問弁護士ですら、どういう訳かノアの弁護に積極的ではなく、最終的にノアには裁判であっという間に終身刑判決が言い渡された。凶器となった銃は真犯人が持ち去ったことから発見に至らなかったため、証拠隠滅などの余罪にも波及したという。その茶番劇とも言うべき裁判の後、探偵ウィリアムが真犯人の存在を提唱して再審が行われるまで、ノアの身柄は拘束されたままだった。その間、貴族としての保身に走ったルンドストロムの現当主はノアを勘当。無罪放免となってからも、流浪るろうの身となってしまったノアが流れ着いた先は、皮肉にも自身の運命を大きく変えた場所であるキルナだったという訳だ。


「要するに、ノアも真犯人の姿を目撃することはできなかった訳だ。」


「せめて身体的な特徴でも分かれば、重要な手掛かりになるかもしれないのに……。」


 ノアから提供された事件当時の詳細は、既存の情報を裏付けるものに過ぎなかった。すると、落胆を露わにしながら日本語で密談する俺と心美に不快感を覚えたのか、ノアが舌打ちをしながら話を続けた。


"That's disturbing. In the first place, the fact that corruption that could even change the outcome of a trial occurs in Sweden, a country with a constitutional government, can only mean that there must have been some kind of significant external pressure."

(心外だな。そもそも、法治国家たるスウェーデンで裁判の結果すら変えてしまうような汚職が発生するということは、何らかの相当な外圧が掛かっていたとしか思えない。)


"So, you are saying──"

(それってつまり──)


"Yes. Aside from the person who carried out the murder, the mastermind behind having me expelled from the noble family and having William killed is someone who holds considerable power in Sweden. I mean, for example, another noble family......"

(ああ。殺人の実行犯はともかく、俺を貴族家から追放させ、ウィリアムを殺すように仕向けた黒幕はスウェーデン国内でかなりの権力を握っている人物だということだ。それこそ、例えば、別の貴族家の連中とかな……。)


 突拍子もないと感じられるノアの推察だが、それは馬鹿げていると断ぜられる反論材料など、今の俺たちにはなかった。数年越しの謎に包まれた未解決事件に潜む黒幕の影──そのシルエットにようやく手が届きそうなところで、調子づいてきたノアが少し大きな声で告げる。


"I forgot to say. Come to think of it, the gun that was used as the murder weapon was not a so-called pistol, but something with a much larger caliber."

(言い忘れていた。そういえば、凶器となった銃は所謂拳銃ではなく、もっと口径の大きなものだったらしい。)


"What do you mean......?"

(どういうこと……?)


"What I'm trying to say is that those guns are not that easy to get. In short──"

(俺が言いたいのはその銃がそう簡単に手に入るような代物じゃないってことだ。要するに──)


 ──ザッ、ザッ。


 刹那、周辺には人ひとり住んでいないような静寂極まる立地にもかかわらず、ゆっくりと砂利を踏み締めてこちらへと近づいてくる何者かの足音を察知した。俺と心美、杉本の3人は一瞬でその異変に勘付き、背中を向けていた正面玄関の扉の方へと視線を向けるが、当のノアは自らの話に夢中になって物音を気にする素振りもない。


 次第に大きくなる足音と同時に心拍が高鳴り、吐き気にも似た緊張感と警戒心が強まっていく永遠のような瞬間の後、ふと扉の前で音が鳴り止む。足音の主へこちらから声を掛けるべきか、最適な対応を考えあぐねていた僅かな間、その隙を窺っていたかのように勢い良く地面を蹴った音がひび割れた壁に反響する。


「まさか、窓か!?」


 次の瞬間、逸早く事態を察したのは杉本だった。土埃に覆われ、屋内からは外景が良く見えない小さな窓から差す太陽の光が、窓の手前で鈍色の細長い鉄筒に反射した。座っていた木箱を倒して窓の方へと走る杉本の言動の意味、そして足音の主の目論見を知った今、全ては遅かった。


 ──バン。


 鼓膜を突き破らんばかりに響いた容赦ない筒音と古びた窓ガラスの砕け散った様、しかし、そのようなものに関心はない。なぜなら、窓ガラスを貫通し、目にも止まらぬ速さで俺たちの間を通り過ぎていった飛翔体の着地点が、ノアの眉間にあったからだ。


「ノア! くっそ、やられた……!」


「何してるの堅慎! 追うわよ! ノアの口が塞がれたということは、今そこに居た奴が一連の事件の黒幕に繋がる人物であることは間違いない!」


「言ってる場合ですか! お先に失礼します!」


 一目散に平屋を去っていく謎の足音の主を追うべく、先陣を切った杉本の後に続く俺と心美だが、外に出る直前には車のエンジン音が荒涼こうりょうとして平野に木霊する。


「しまった……。周囲に人の気配などなかったので、車にキーを残したままでした……。」


 一刻も早くノアから情報を聞き出し、オリヴィアよりも先に真犯人へ手を伸ばそうと気が急いていたからこその失態だった。見知らぬ大地にて、ノアの死体と共に取り残された俺たちは、暫くの間、呆然と立ち尽くす他なかった。

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