Ep.111 没落貴族

 杉本の案内で拍子抜けするほどあっさりとプルンバゴ邸を脱した俺は、外出前に譲り受けた日傘やサングラスで完全防備している心美とは違い、数日振りの強烈な日光に顔をしかめた。慣れない異国の風景に戸惑いながら周囲を観察すれば、そこには見渡す限りの大木と、その木々を遥かに凌駕するほど巨大な邸館が聳え立っている。


 その貫禄あるたたずまいはまさに森の洋館と呼ぶのに相応しく、正面玄関から格子状の門扉まで果てしなく広がる敷地には青白い瑠璃茉莉の可憐な花が咲き誇っていて、よもやこの場所が4年前に発生した殺人事件の現場であるなどと、俄かには信じられなかった。


「裏手に車を停めてあります。行きましょう。」


「待て。ノアの自宅は知っているのか。もう何年も前に釈放されてから、人の目に触れないよう暮らしているってだけで、詳しい居場所までは分からないんじゃ……。」


「仰る通り、プルンバゴ家とはおよそ何の関わりもないルンドストロム氏の暮らしている場所など知る由もございません。」


「だったら、どうやって──」


 その時、俺の追及は杉本のスマホが着信した電話に遮られる。


「失礼。」


「あ、ああ。」


 だが、その後杉本はほとんど言葉を発することなく、再びスマホを懐へと仕舞った。


「ウィリアム氏亡き後もプルンバゴ家の影響力は健在だと、そうお話ししましたね。その情報網を以てすれば、誰が何処に居を構えているかなど、簡単に割れてしまいます。」


「はあ、末恐ろしいな。貴族ってのは……。」


 たった今、これから接近しようと試みるノアの居住地を掴んだという杉本は、車のナビゲーション機能に迷いなく住所を入力し、ハンドルを握り締めた。



 §



 運転席が左側にある外国製の高級車内にて、心美はオリヴィアの書斎から持ち出した、ウィリアムが関与した一連の未解決事件について記された一冊の記録文学ルポルタージュを入念に調べていた。


「あったわ。2019年、少女殺害に及んだ凶悪犯として逮捕され、一時は有罪判決が下されたものの、スウェーデンが誇る名探偵・ウィリアム氏の介入により釈放される──その名も、ノア・ルンドストロム……。」


 英単語の羅列を指で追うようにして読み解いていく心美は、かっと目を見開いて唖然とした表情を見せる。


「そういうことだったのね。」


「何か分かったのか……?」


「ついさっき、杉本さんは事件の容疑者が実名報道されたと言っていたわね。現にこの本にもノアの名前が記載されている。でも、ここスウェーデンを含む一部の欧州諸国では厳格な匿名報道が原則とされていて、一定の公益性が認められない限りは、当事者の名前が地上波や紙面に載ることはあり得ないそうよ。」


「その公益性ってのは要するに──」


「考えられるのは、国民を代表する政治家、高級官僚、生活の安全に欠かせない警察組織の重鎮、国家経済において重要な地位を占める大企業の経営責任者、あるいは労働組合幹部とか……。簡単に言うと、当事者の名誉と国民の知る権利を天秤に掛けた時、後者の方がより重要だと判断されれば、実名が公開されることもある。」


「いずれにせよ、ノアは事件前から有名人だったってのか……?」


 すると、運転中の杉本はバックミラー越しに後部座席へと視線を寄越し、ゆっくりと話し始めた。


「ある意味、ルンドストロムの姓は、今やスウェーデン国内でプルンバゴを凌ぐほどの知名度を誇ると言っても過言ではないかもしれません。」


「どういうこと……?」


「ルンドストロムとは、最南部の湾岸都市・マルメ周辺に公爵家の姓です。」


「なっ、そうだったのか……!?」


 驚くべき事に、杉本の話によればノアという人物は、キルナとは地理的に正反対の都市であるマルメ周辺を治めていた公爵家の長男だそうだ。ところが、若き少女を手に掛けた極悪非道の殺人者としての烙印を押されてからというもの、後に冤罪が認められて自由の身になったところでルンドストロムの家名には致命的な汚点が残ったため、実質的な追放処分を受けた、所謂没落貴族として悲惨な末路を辿ったらしい。


「でも、それだとおかしくないか。南部の貴族家の長男であるノアが誤認逮捕されたのは、北部のキルナで起きた殺人事件の容疑者としてって話だったよな。単純に考えて、ノアが犯行に及ぶのは不可能だってのは誰でも分かるだろ。」


「それが、事件当時のルンドストロム氏は確かに所用でキルナを訪れていたようです。私も詳しい事情は把握していませんが、本人の口から聞けば分かることです。」


 小鳥のさえずりと木漏れ日に包まれた穏やかな林道を走り、比較的開けた道路に出るや、杉本は一段階アクセルを踏む力を強めた。


「というか、そもそもノアは本当にキルナ周辺に距離に住んでるのか? マルメ出身の貴族なら、地元に帰ってる可能性も──」


「心配は無用です。犯罪者のレッテルと共に没落したルンドストロム氏にとって、何食わぬ顔で領地に帰ることなどできなかったのでしょう。キルナは土地が広く自然に囲まれた過ごしやすい場所ですから、誰にも悟られず隠居生活を送るには最適かと。」


 そうして会話を重ねているうちに、杉本の車に搭載されているナビゲーションに設定された目的地への接近を知らせる電子音が鳴り響く。しかし、目紛めまぐるしく景色が移り変わる車窓から辺りをどれほど見回したところで、人の住んでいそうな建造物など一件たりとも存在しなかった。



 §



 小石と土煙を巻き上げながら徐々に減速していった車が停まったのは、およそ建造物と呼んで良いのかも分からない、傷だらけの石壁に囲まれた平屋だった。俺は根拠のない先入観から、望まぬ形で爵位を剥奪された元貴族とはいえ、贅の限りを尽くした何不自由ない暮らしを営んでいるものだとばかり考えていた。だが、その実態は空想上のイメージよりも遥かに惨めなものらしい。


「私のもとに寄せられた情報では、ここが現在のルンドストロム氏の住処だということです。」


「まあ、真偽は入ってみれば分かるでしょう。」


 そう言うと、心美はインターフォンすら存在しない平屋の正面玄関、鋳鉄の簡素なドアノッカーを木製の扉に数回強く叩き付ける。数十秒が経った頃、痺れを切らした心美が苛立ちを隠さず、改めて家主を呼び出そうとドアノッカーに手を添えた瞬間だった。建付けの悪そうな扉ががたがたと不自然な音を立てながら、ゆっくりと内側から開け放たれた。


"I'm sorry for coming unannounced. I──"

(突然の訪問となり申し訳ございません。私は)


"Du igen!? Snälla, lämna mig ifred, jag har bett dig!"

(またお前か!? 頼むから、俺のことは放っておいてくれと、そう頼んだだろうが!)


 扉の隙間から少しだけこちらを覗き見た男は、心美の姿を見るや否や彼女の言葉を遮り、寝癖の直っていないぼさぼさの金髪を振り乱し、寝不足からか、濃い隈が刻まれた両眼を血走らせて怒号を放つ。その意味が分からなかったために首を傾げる俺と心美へ、杉本がすっと耳打ちした。


「数年で随分と老け込んだようですが、やはり彼がルンドストロム氏で間違いないかと。しかし、彼は茉莉花様に対して『またお前か』と言っているようですが……。」


 長きにわたってスウェーデンで過ごしている杉本にとって、取り乱す金髪の男の怒鳴り声を解読することなど造作もないようだ。ただ、その内容は俺たちの脳裏にひとつの懸念を生じさせた。


「まさか──」


「ああ。おそらく、オリヴィアも既にノアと接触したんだろう……。」


 意外にも、ノアとの接近はオリヴィアに先を越されてしまったようだ。そして、ノアの動揺ぶりから察するに、そこで何らかのトラブルがあったことは自明だ。まずは心美がオリヴィアと同一人物であるという誤解を解く必要があるだろう。


"Om du inte har något annat att göra, lämnar jag dig nu."

(何も用がないなら、これにて俺は失礼する。)


 冷たく吐き捨て、聞き分けの悪い扉を思い切り内側へと引っ張るノアを逃がすまいと、透かさず黒のパンプスを隙間に滑り込ませたのは杉本だ。


"Ursäkta, jag förstår inte engelska."

(悪いが、英語は話せない。)


「公爵家の長男として高い教養のあるはずの人間が、痴れたことを……。」


 頑なに態度を変えないノアを牽制するように低い声で唸った杉本は咳払いをひとつ、一転して幾分か愛想良く言った。


"Jag talar svenska. Oroa dig inte, jag stannar inte länge."

(私はスウェーデン語が話せます。ご心配には及びません、長居はしませんので。)


 同じような押し問答が何度か繰り返された後、観念したように大人しく開かれた扉を前に、敵に回すとあれだけ恐ろしかった杉本という女を初めて心強いと感じたのが、我ながら不思議に思えた。

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