逃走劇
Ep.100 背水の脱兎と鋼鉄の亀
夜風に
当の俺と心美はと言えば、誘拐犯の魔の手から逃れた喜びと安堵感の余韻に浸るあまり、焦点の合わない目で呆然と外の景色を眺めていた。都会の喧騒とは無縁の静かなる土地にある人工物は延々と続く線路のみで、姿の見えない種々雑多な昆虫の大合唱だけが木霊している。
「やった、のか……?」
「そうみたいね……。」
緊張の糸が切れ、最高潮に達していた心臓の鼓動もゆっくりとペースを落としていき、まともに働かない脳に酸素を送ろうとして自然と呼吸が深くなる。冷たい空気が肺を満たし、思わず身震いしていると、とうとう現実が見えてきた。
「良かった。一時はどうなることかと──」
「堅慎、喜ぶのはまだ早いわ。」
脅威は去り、自由を手にした解放感から肩の力を抜いた俺とは対照的に、心美は依然として周囲を警戒するように辺りを見回している。
「急いで車両から降りましょう。線路上に取り残されたままなんて、後続車が来たら
「そ、それって、衝突事故の可能性があるってことか?」
「言いたいことは分かるわ。私たちのせいで、列車事故を起こしてしまうかもしれないことを心配しているのよね。でも、残念だけど私たちにできることは何もない。線路から車両を動かすことなんて、できる訳もないし……。」
「事故が起きないことを祈るしかないのか……。」
後ろ髪を引かれる思いだが、ここに残っていたところで俺たちは無力だ。また、
「手え貸すぞ。」
「ん、ありがと。」
後に続く心美を軽く受け止め、改めて背の高い車両を見上げると、その断面は、
「この線路沿いを引き返せば、時間は掛かるけど、いずれ駅まで辿り着けるわね。」
「ああ。だけど、今日はもう体力の限界だ。いつ日が昇るかも分からないし、まずはゆっくり休める場所を探したいところだな。」
追手を警戒するなら、可及的速やかにここから遠くへと離れなくてはならない。しかし、今晩の間に動ける距離は限られているため、肌を刺すような夜風を
「それと食料や水分も確保しないとね。暫く何も口にしてないし、このままだと荒野で野垂れ死によ。」
「無闇に動き回ったら体力を消耗するだけだ。どうする……?」
誘拐犯による追跡を恐れて一刻も早く移動を始めるか、生存を優先して冷静に行動するか。俺たちは究極の選択を迫られていた。たったひとつの
「不安そうな顔しちゃって。大丈夫、大船に乗ったつもりで私に付いてきなさい。」
果たして何処へ行こうというのか、胸を張って言い切った心美は、俺の腕を力強く掴んで大手を振るって歩き始める。訳も分からないまま、俺はとにかく彼女に言われるがまま歩を進める他なかった。
§
見渡す限りの大木と、足首ほどの高さまで伸びた草を掻き分けながら、未開の林道を当てもなく進み続けること数十秒。心美はこまめに進路を変えながら、されど確かな足取りで何かを辿るように歩を進めていた。
「それにしても、ちょっと歩き辛くなってきたな……。」
この辺りに自生している植物は湿り気を帯びていて、歩を進める度に足へと絡み付き、衣服に水が染み込んでいくので、軽い脱水症状とも相俟って疲労感は増していくばかりだ。正直なところ、体力の限界は近い。しかし、心美の瞳から希望の灯は消えていない。
「堅慎、もうすぐだから頑張って。あ、ほら!」
「一体何を探して──」
嬉々として俺の肩を叩く心美の指差す方向を見た俺は、驚きのあまり二の句が継げなかった。なぜなら、俺の目と鼻の先には果てしない大山の絶壁が立ち開かっていて、ごつごつとした山肌には、岩の裂け目から流れ出る新鮮な湧き水が伝っていたのだ。
「雨が降った形跡もないのに、周辺の草木だけ不自然に湿ってたから、近くに水源があると思って歩いてきた甲斐があったわ。」
「流石は心美だな。そんなこと考えもしなかった……。」
両手で受け皿を作って清水をひと掬いして口に運ぶ心美は、
「ほら、堅慎も早く。」
「あ、ああ。」
言われるがまま壁に手を突き、夢中になって水を飲む。天然の冷たい湧き水は空っぽだった胃を満たし、
「はぁー、生き返った!」
「本当にね。」
とはいえ、喉の渇きを潤すために大量の冷水を口にしたことで、体温は一層奪われてしまった。彼方立てれば此方が立たぬというように、問題はそう一筋縄では解決しなかった。
「次は寒さを凌げる場所を探さないとね……。」
そう呟いて身を縮こまらせる心美も同じことを考えているようで、寒そうにしている彼女に何かしてやりたくとも、夏盛りの日本から連れ去られた俺たちは揃って軽装だ。ほとほと困り果てて、暗がりの中に目を凝らして周辺を見回してみると、遠くの方にぽっかりと空いた空洞のようなものが視界に入った。
「心美、あれは……。」
「行ってみましょうか。」
不幸中の幸いと言うべきか、藁にも縋る思いで向かった先は
「気温は変わらないけど風は遮られるし、安全も確保できる。」
「背に腹は代えられないわね。今晩はここで夜を明かしましょう。」
決して理想的な環境ではなかったが、いつでも来た道を引き返すことができ、水源が近くにあり、夜明け以降も安心して休むことのできる洞窟は、今の俺たちにとって最適な空間だ。周辺の青々とした雑草や落ち葉を掻き集め、簡易的なベッドを作れば申し分ない。
「明かりにも虫除けにもなるし、火を起こそう。実は何かに使えるかと思って、杉本からライターを奪っておいたんだ。」
得意気に高価そうなライターの金属製の蓋をかちりと鳴らし、余分に集めた葉に火を灯そうとする俺に対し、心美はそっと腕で制止する。
「止めておきましょう。煙が立ち昇れば、誘拐犯に私たちの居場所を知らせかねない。これだけの寒さなら、我慢できるわ。」
「そうか……。」
あくまで最悪の事態を想定するがために強がりを口にする心美だが、俺はそんな彼女の用心深さにこれまで幾度となく救われてきた。大人しく忠告に従ってライターをポケットにしまった俺は、震える彼女の肩に手を置き、そっと身を寄せ合った。
幸いにも、今のところ追手の気配は感じられない。しかしながら、用意周到で計画的かつ、全貌の見えない強大な力を有していた誘拐犯の魔の手から脱し、いとも容易くに事が運んでいく中で、自らを取り巻くこの不自然な静けさはかえって気味が悪かった。
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