Ep.77 天網恢恢疎にして漏らさず

 市中を襲っていた嵐のような雷雨はどうやら局所的なものだったようで、先程までの荒れ模様は嘘だったかのように空を覆い尽くしていた黒雲は去って日の光が差し込み、風は次第に弱まっていった。


「心美……。」


「堅慎……。」


 明星が警察に逮捕されたことによって、俺と心美は無事に関係を修復することができた。何か色々と大事なことを忘れているような気がするも、数日振りに触れることができた命の恩人の手を握って歓喜の情動に包まれる俺は、胸の高鳴りに従うまま衝動的に彼女と唇を重ねようとした──その時だった。


「あのー、感動的な再会に水を差すようで悪いんだけどさ。」


「あ、アイーシャ……!」


 明星の攻撃によって気絶していたアイーシャが目を覚ましたようで、殴られて赤く腫れている首元を擦りながら立ち上がり、申し訳なさそうに俺たちを交互に見つめる。危うく恋人との接吻を目撃されかけた心美は、顔を真っ赤に染めながら声を上擦らせて俺から離れてしまう。


「まさかとは思うけど、逃亡犯のことを忘れた訳じゃないよね?」


「「あっ!」」


「『あっ』じゃない! このまま暗殺犯を取り逃すようなことがあれば、元の木阿弥なんだよ!?」


 ロマンチックな仲直りのキスを邪魔されたことに肩を落としてアイーシャに抗議の視線を向けると、呆れ果てたような溜息が返ってくる。心美との再会に有頂天となっていたため、俺はどうかしていたのかもしれない。事件はまだ収束していないという事実を、改めて認識させられる。


「そもそも、本当に逃亡犯はまだ奈良市内に潜伏中なのか? いくら警察の包囲網に掛かってないとはいえ、うまく掻い潜って市外に逃げ果せた可能性も──」


「いいえ、それはないと思うわ。」


 俺の示した懸念に対して、心美は紫外線量が増えてきたためかまぶしそうにレインコートのフードを被りながら、自信満々に断言する。


「どうして言い切れるんだよ?」


「逆に聞くけれど、何故私たちの事務所近くに居たはずの明星が、わざわざ遠く離れた奈良市内に居たんだと思う?」


「それは、殺し損ねた陸奥首相に止めを刺しに来るためだ──あっ!」


「そう。首相が実は生きていたと世間に報道され始めたのは、演説が始まったほんの1時間ほど前の話でしょ。それよりも前から、首相暗殺は完了したと思い込んでいたはずの明星が都合良く奈良市内に居た説明にはならない。」


 つまり、明星は首相暗殺が目的でここ奈良を訪れた訳ではないというのが、心美の主張だ。


「察するに、最初に首相を襲撃して逃亡中の犯人と明星は、目的は達成したと思い込んで奈良で合流するつもりだったんじゃないかしら。」


「ということは、明星と合流予定だった逃亡犯は、まだこの近くに潜伏している可能性が高いってことだよね……!?」


 心美の推理を簡潔に纏めるアイーシャの言葉に、彼女は大きく首肯する。明星がかたくなに仲間の情報を吐かなかったため絶体絶命かと思われた逃亡犯逮捕も、稀代の名探偵である心美の冷静な状況分析によって現実味を帯びてくる。


「とにかく、駅まで戻って東條さんと合流しよう。」



 §



 廃ビルを出た俺たちは、演説を終えて走り去って行った街宣車から奈良駅前で降ろされて不安そうに計画の成功を祈りながら立ち竦んでいた東條の方へと歩み寄って、明星の逮捕と共に作戦終了を報告する。


「茉莉花女史、ご無沙汰しております……。」


「東條さん、なの……? お、お久しぶりです……。」


 逃亡犯確保作戦を終え、陸奥首相に変装するための特殊マスクと包帯を取り払って呼吸を荒くしている警視庁からやってきた協力者・東條を前にした心美は、数年振りの奇妙な邂逅にいささか困惑している。だが、今はそれどころではない。俺たちは彼に対して、計画が思わぬ方向に運んだことを簡潔に説明した。


「なるほど。岩倉さんを罠に嵌めて一連の事件の発端となった人物である明星を逮捕することはできたものの、肝心の逃亡犯は依然として姿を見せないまま。しかし奈良市内に潜伏している可能性は極めて高いと。」


「そういうこと。街中の監視カメラを全て躱しながら逃げ続けるにも限界があるから、後は警察の包囲網に任せていても良いのだけれど、既に手は打ってあるわ。」


 そう言って心美が駅構内の方へと視線を向けると、改札を抜けて手を振りながらこちらに駆け寄ってくる女性の姿があった。


「心美ちゃん……!」


 息を弾ませながら心美の名前を呼んだのは、最近まで自宅で彼女の面倒を見てくれていた友人・陽菜だった。


「もう。電車を降りたら凄まじい勢いで走って行っちゃったから、すっかり置いて行かれちゃったよ……。でも、岩倉くんと仲直りできたみたいで良かったね!」


「私のとんだ勘違いで振り回してしまって、本当にごめんなさい。首尾はどう?」


「上々だよ!」


 心美と共に奈良へとやってきた陽菜は、俺たちが明星と戦っている間に単独で動いていたようで、その場に居る全員の注目を集めると咳払いをして息を整えてから喋り始める。


「駅前に集まってた聴衆の中には、暗殺事件の発生当時も演説を見に来ていた人が居るかもしれないからって心美ちゃんに言われて、逃亡犯の目撃情報がないか手当たり次第に聞き込みしてたんです。」


「それで、目撃者は居たの……?」


「陸奥首相が手製の銃で襲撃された現場に居合わせたって人は沢山見つけた。そのうち、あっちの商店街から来たって言ってた何人かが似たような人物を見かけて、警察に通報したんだって!」


 本物の首相暗殺が起きた事件当時の現場を間近で見ていた通行人もここ奈良駅前には多く居たようで、陽菜が聞き及んだ証言によれば、駅付近の商店街で逃亡犯と思しき人物が複数人に目撃されたらしく、付近をパトロール中の警察も一斉に現場へ急行しているという。


「だったら、私たちも行ってみましょう!」


「そうですね。警視庁に身を置く私が言うのもおかしな話ですが、犯人を逮捕するために身体を張ったのは私たちだ。土壇場で警察組織に手柄を横取りされるのは癪です。」


 陽菜の入手した情報を基に商店街へと向かうことを提案した心美に、東條は慨然として同意する。アイーシャと俺も受けた傷は決して浅くないが、最後のひと仕事を前に自らを奮い立たせ、全員が確固たる意志で歩みを進めた。



 §



 心美たちは俺とアイーシャの怪我の具合に気を遣いながら、可能な限り歩調を速めて10分ほど進んだ辺りで、平日にもかかわらず買物客で活況を呈している賑やかな商店街へと辿り着いた。年齢・性別・身分・国籍など、全員に共通する点が何1つとして存在しない奇妙な5人組は衆目を集め、すれ違う人々の視線を惹きつけてしまうのだが、いちいち構ってはいられない。


 辺りを見回せば、既に目撃者の通報を受けて駆け付けていた「奈良県警察」と書かれた制服を着た警察官たちが商店街を巡回しており、周囲の一般客や店の従業員たちは一体何事かと言いたげに騒然としている。


「どうする……? 手分けして探すか?」


「その必要はないわ。巡回中の警察を含めて人手は十分。商店街も決して広くないし、出入口にも見張りの警官が居るみたい。もしここに逃亡犯が居るなら、袋の鼠よ。」


 商店街は飲食店や雑貨店などが所狭しと立ち並ぶ全長1キロメートルほどの大通りに、幾つかの袋小路が伸びているのみで、心美の言う通り、大人数の警察官に包囲された今や逃げ場はない。


「とはいえ、逃亡犯の特徴も分からないようじゃ探しようがないな……。」


「それでしたら、事件当時の映像に暗殺犯の姿が映っていました。」


 テレビのニュースでも各社が連日報道して世間を賑わせている映像から、犯人と思しき人影を切り抜いた写真を東條が全員の目の前に出して見せた。


「画質が粗すぎるわね……。これじゃあ何の情報にもならない。」


 新情報に期待を寄せたアイーシャは、解像度の悪い写真を見て露骨に肩を落とす。ただでさえ全身黒尽くめで正体を隠そうとしている犯人の姿は、あくまで選挙演説の様子をメインに収めていたカメラには、うまく映っていなかったようだ。


「この写真を見る限りだと、おそらく女性ではなさそうね。逃亡生活で碌に着替えることも出来ていないようなら、黒尽くめの服装はこの商店街では浮くでしょうね。」


 心美の整理した最低限の情報を基に、俺たちは足並みを揃えて大通りを練り歩きながら、忙しなく首を左右に振って逃亡犯を虱潰しに探し始めた。一般人にすら怪訝そうな目線を向けられる俺たちだが、逃亡犯からしてみれば警察の目を掻い潜るだけでも手一杯だろうと予想されるので、些細な問題ではない。


「ね、ねぇ。あれ……!」


 至るところに注意を張り巡らせながら、3分ほど歩を進めた頃だろうか。突如として俺たちにだけ聞こえるように声を上げた陽菜が、緊張した面持ちで店と店の隙間に伸びた細い裏路地を指差した。──そこには、路地の闇に溶け込むような全身黒尽くめの男がしゃがみ込んで身を潜めていた。


「陽菜ちゃん、良く見つけたわね! 間違いない!」


 危うくその場に居る全員が見逃そうとしていた逃亡犯の姿をその目に捉えた陽菜を称えて、心美は男の背後に近づこうとする。


「っ……!?」


 しかし、その刹那、多数の警察官に追われていたためか警戒心を極限まで高めていたその男は俺たちの気配に勘付いたのか、咄嗟にこちらを振り返った。今の心美が着ているものと同じような黒のレインコートで全身を覆っていたその男の顔に、陽菜と東條を除く俺たち3人には見覚えがあった。


「お前は……!」


 因縁深きその男の人相を見て、真っ先に驚きの声を上げたのはアイーシャだった。それもそのはず、眼前の男は約半年前にGBSを経営危機に陥れたオーストラリアの事件にて、俺が直接命を賭して戦った挙句、結果的に取り逃すこととなってしまった中国スパイの主犯格だったからだ。


「てめぇ、あの時の……!」


「くっ、やはり明星もしくじったか!」


 心美の予想通り、男は明星と通じており、奈良で合流することを目的として市内を逃げ回っていたようだが、首相暗殺に失敗して逮捕された明星と連絡が取れなくなったと同時に街を巡回する警察官が増えたことなどから、全てを悟っていた。


「黙れ! 心美を誘拐して散々な目に遭わせておいて、剰えアイーシャさんの会社を倒産の危機に追い込んでその罪を逃れたてめぇが、今度は日本に来て総理大臣を暗殺しようとはな!」


「貴様はあの忌々しい探偵の腰巾着……! ということは、そこの女は茉莉花か!」


 レインコートのフードから覗く心美の特徴的な白髪を見て、スパイの男は不敵な笑みを浮かべた。


「あの時殺し損ねた茉莉花探偵がわざわざ目の前に現れるとは、何たる好都合だ!」


 奴にとって絶体絶命の状況にもかかわらず、眼前の男は恍惚とした表情で懐に手を入れた。


「憎き探偵の腰巾着よ! 俺もお前から1つ学ばせてもらったぞ!」


「なんだと……!?」


 次の瞬間、男は懐から謎の物体を俺たちに向かって無造作に投げ付けた。


「人間『勝った』と確信を得た時が一番危ういとな!」


 男の奇声と共に俺たちの足元に落下したのは、アイーシャが廃ビルの屋上で俺に手渡したスタングレネードと同じ形状をした、金属製の物体だった。本能的に危険を感じるものの、明星によって受けた傷の影響で咄嗟に身体が動かなかった俺に代わって、いち早く対処したのは東條だった。


「危ない、離れて!」


 東條は躊躇なく謎の物体を男の方へと蹴り返した。金属製の物体は、俺たち5人と中国スパイの男の丁度中間地点で爆発四散する。


「パイプ爆弾か……!」


 警視庁警備部警護課所属の東條は持ち前の危機管理能力によって、不測の事態にもかかわらず超人的な反応で全員の命を救った。警備会社のCEOで元警官でもあるアイーシャも投擲された物体の正体に気付いていたようだが、俺と同様に明星から受けた打撃によるダメージで動けなかったようだ。


「悪足掻きはやめて、大人しく降参しろよ!」


 一度ならず二度までも俺たちの命を奪おうとした、爆煙の向こう側に居る憎き男へ怒号を上げる。だが、煙が晴れた先の男はなんとマンホールの蓋をじ開けて、地下の下水道に逃走経路を見出していた。


「降参しろと言われて、素直に応じる馬鹿が何処にいる。この命ある限り、いつか必ずお前らを殺してや──」


「「居たぞ! 捕まえろ!!」」


 男が捨て台詞を言い終えるが早いか、近くで騒ぎを聞きつけていた商店街の従業員や一般客が複数人で裏路地に雪崩れ込んで、男を力尽くで取り押さえる。


「ふ、ふざけるな! お前らも爆弾で吹き飛ばすぞ! 離せ、今すぐ離せ……!」


「五月蠅い!」


「いい加減観念しろ!」

 

「お巡りさん、ここですよー!」


 男が俺たち5人に気を取られている間、異常を察知した多くの通行人が勇敢にも一斉に取り押させてくれたおかげで、オーストラリアでは無念にも罪に問うことができなかった中国スパイの憎き野郎を遂に拘束し、付近を巡回中だった警察へと身柄を突き出すことができた。


「終わった、のか……?」


「呆気なさ過ぎて、まるで実感が湧かないけれど、そうみたいね。」


 天下の往来で爆弾を使用したテロリストの愚行は周辺の警察官を呼び寄せ、大勢の野次馬が殺到した。世紀の大犯罪者を前にレインコートで顔を隠した白髪の女性の姿を見て、それが今となっては国民的な知名度を誇る茉莉花心美であることに気付いた者も少なくないようで、騒ぎが大きくなる前に事後処理を県警の警察官たちに任せ、俺たち5人は足早にその場を去った。


 明星との直接対決で負傷した俺とアイーシャは、帰り掛けに病院に寄って簡易的な検査を受けたものの、特筆すべき異常はなかった。その後、陽菜とアイーシャは作戦に協力してくれた警備員たちと共にGBSへと戻っていき、東條は各方面への対応に追われるべく疲労感を滲ませながら警視庁に戻っていった。


 残された俺と心美は、離れ離れになってしまった空白の2日間を惜しむように手を繋いで、2人の家を目指して列車に揺られた。雨上がりの澄み渡る空から、まだ水滴の付いた車窓に差し込む茜色の夕日の中で、互いに孤独な時間を過ごした寂しさを埋め合わせるのに、たったの数時間では全く足りなかった。

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