永遠の契り

Ch.6 ED 季節外れの茉莉花

 無事に所長を連れ戻して茉莉花探偵事務所へと命辛々帰還してから早1週間──うららかな春の陽気に温められた部屋の中で、穏やかな時の流れに身を任せてジャスミン茶を飲みながら寛いでいると、目と鼻の先で忙しなく手元を動かしながら必死になってテレビの画面に食らいつく相棒の叫び声が耳を突いた。


「あ、陽菜ちゃんズルい! さっきまで私が1位だったのに!」


「へへ……! これも立派な作戦なんですー!」


 首相暗殺を巡る騒動が収束して、すっかり元気を取り戻した心美は陽菜と並んでソファに座りながら例のビデオゲームで遊んでいた。今日は事件解決の慰労に加え、心美との痴話喧嘩に巻き込んで迷惑を掛けた方々に謝罪を兼ねて、関係者を事務所に招待していた。


「あ、堅慎! お茶のおかわりを──」


「そう言われると思って、もう淹れてあるぞー。」


 心美が居なくなった2日間の反動は大きく、俺は彼女の世話を焼くことにすら喜びを感じるような偏物になってしまった。予め大量に作って卓上ポットに入れておいたジャスミンを心美と陽菜のカップに注いで、楽しそうにゲームへと熱中している2人の操作する画面上のキャラクターを目で追った。


「ケンシン、私もおかわり!」


「アイーシャさん、貴方って人は……。」


 今は俗に言うゴールデンウィーク──大型連休の真っ只中だ。先の事件解決の功労者であり、奇しくもGBSを経営危機に追い込んだ憎きスパイへの仇討ちも果たすことができたアイーシャは、真昼間にもかかわらず「茶」と称して俺が今日の慰労会のために買い置きしていた日本酒の酌を要求してくる。


「仕様がないですね。夕飯には寿司も注文してますから、それまで酔い潰れないでくださいよ……?」


「ダイジョーブだよぉ。」


 ──カラン、コロン……。


 上気した顔で微笑むアイーシャの呂律は既に怪しく、彼女が操作しているゲームのキャラクターの動きは明らかに滅茶苦茶だが、心地良いドアベルの音が最後の来客が到着したことを告げたため、俺は透かさず踵を返して玄関まで出迎えに上がる。


「何やら賑やかな喧騒が外まで響いておりました。少々遅れてしまったようですね。」


 何処か清々しい表情で事務所を訪れたのは、最近まで警視庁で事件の後始末に追われていた東條だった。長袖シャツ1枚のカジュアルな服装に白髪を染めた頭髪からは、警察としての重責に悩み草臥くたびれていた先日までとは打って変わって、とても若々しい印象を受ける。


「いや、皆さっき来たばかりですよ。お忙しい中、ご足労頂きありがとうございます。」


「とんでもない。それに、忙しくなるのはこれからです。」


「……?」


 来客用の部屋履きを差し出して東條をリビングに招き入れると、酔って上機嫌となったアイーシャが彼の姿を見て信じられないことを言う。


「おー、のご到着だー!」


「えっ……!?」


 アイーシャに誘われるまま日本酒の入った猪口ちょくを呷って口が滑らかになった東條から聞いた話によれば、彼は今回の1件を通して警視庁の保守的な体質に嫌気が差したため、間もなく定年を迎えて満額の退職金が手に入ったにもかかわらず、それを歯牙にも掛けずに警察を辞職してアイーシャのGBS日本支社の支社長へと就任したらしい。警備部警護課のベテラン警察官だった東條は知識・経験・実績の三拍子を兼ね備えており、近くオーストラリア本社へと戻る予定があるため信頼できる有能な人材を欲していたアイーシャのヘッドハンティングを受け、一足飛びに事が進んだという。


「首相生存によって暗殺が未遂に終わったことに加え、逃亡犯も無事に逮捕されたことで警察組織は一応ながら体裁を保つことができたようです。とはいえ、一部のさとい国民は、外国人スパイによる事件を未然に防ぐことができず、武器を持った逃亡犯を一時的とはいえ街へ野放しにした警察の無能さに気付いてしまったでしょう。」


 東條の話によれば、連行された逃亡犯からは今回の首相暗殺に使用された凶器である手製の銃が見つかったため、事件の実行犯として正式に逮捕される運びとなった。また、喜ぶべきことに、病床で生死の境を彷徨っていた総理大臣・陸奥孝彬本人が意識を取り戻したようだ。尤も、仮に陸奥首相がそのまま死亡するようなことがあれば、暗殺犯逮捕に彼の影武者を利用した俺たちは国民を騙した極悪人としてその名を歴史に刻むことになっていたので、取り敢えず一安心といったところだ。


 その後の衆議院議員総選挙は滞りなく行われ、陽菜の父親である元衆議院議員・菊水が暴露したスキャンダルや内閣不信任決議によってイメージダウンした政権与党は、結果的に大幅に議席を減らしたものの、政権交代に至ることは無かった。


 過去に類を見ない現職の総理大臣に対する連続暗殺未遂は、またしても世界中を震撼させる一大事件として話題を呼び、日中関係は破綻目前とまで言われている。現に新政府は、過去1年間にわたって立て続けに行われた中国スパイによる重大犯罪を重く受け止め、内政干渉を理由に中国領事館の外交官を国外追放するという対抗措置まで取ったという。


 また「スパイ防止法」によって外国人による国際犯罪が厳罰化されていたこともあり、明星ら2名の中国スパイは極刑を免れないというのが大方の予想であるらしい。いずれにせよ、日本侵攻を試みたスパイの末路として、明星らは諸外国に対する良いとなったことで、今までのように日本が「スパイ天国」と呼称されることは無くなった。斯くして俺と心美は、中国スパイとのおよそ1年間にわたる死闘に打ち勝ったという訳だ。


「私もこれからは堅苦しい警察組織のしがらみに囚われることなく、心置きなくセカンドキャリアを歩めるというものです。」


「そーいうこと。ケンシンもココミと仲直りできたばかりか、犯罪組織の魔の手から解放されたんだから、まさに『雨降って地固まる』って感じだよねぇ。」


 奇跡的に事態が丸く収まったことの喜びを噛み締め、それぞれの新たなる門出を祝って盃を受け取った俺は、その後何時間にもわたって積もる話に花を咲かせながら強引にアルハラを受け続けることになったが、またこうして何気ない平和な日常に回帰することができた嬉しさが勝って、満更でもなかった。



 §



 遊び飽きた心美と陽菜も交ぜて賑やかに行われた酒宴もたけなわ、夕飯に取り寄せた寿司も食べ終えて夜も更けた頃、俺と心美を除く3人は帰り支度を始めた。


「もう少しゆっくりしていけば良いのに。」


「折角だけど、支社が発足したばかりで私もまだまだ忙しいんだよね。」


「私もこれからは支社長としてアイーシャさんを支えていく立場にあるので、今日のところはこの辺で。」


「それじゃあ私もお暇しようかな。」


 GBSの経営者として繁多な日々を過ごすアイーシャに続いて、東條と陽菜も近く再会を誓って、ぞろぞろと玄関に向かって行く。


「この度は本当に、色々とお騒がせしました……。」


 俺と心美の痴話喧嘩に巻き込んだ陽菜に、見返りを求めず事件解決に協力してくれたアイーシャや東條に頭を下げて見送ると、全員が満足そうな笑みを浮かべて手を振りながら去って行った。


「行っちゃったわね。」


「あぁ、そうだな。」


 酔いが回ってか、少々覚束ない足取りでリビングへと戻り後片付けを始めた心美を手伝うべくキッチンで食器を洗っていると、彼女はテーブルに残っていた茶器や箸などを持ってきてくれたかと思えば、手の塞がっている俺の腰に後ろから華奢な白い腕が回される。


「お、気が利くな。ありがと──」


「堅慎、私の身勝手な思い込みで、ひとりにさせてごめんなさい……!」


 2人きりとなって静けさを取り戻した事務所の中で、心美はたどたどしく、自らの内に秘めたる想いを吐露し始めた。


「堅慎に限って浮気なんて、良く考えればそんなことあるはずないのに、私は自分の目に映ったことだけを信じて、貴方のことを信じられなかった。」


「心美……。」


「そんな私に、これからも貴方を愛し続ける資格なんてあるのかな……。」


 酒が入ると人格が変わったのではないかと思えるくらいに豹変することがある心美だが、今回は完全に自己嫌悪に陥っているらしい。俺は仕方なしに、そんな手の掛かる彼女を慰めるため努めて優しい声色で言葉を紡ぐ。


「馬鹿だなぁ。確かに、俺は身の潔白を心美に信じてもらえなかったことは相当悲しかったよ。けど、いつも冷静で理知的な心美ですら周りが見えなくなるくらいショックを受けるなんて、俺も愛されてるんだなって実感できたよ。まぁ、心美が帰ってきてくれた今だからこそ言えることだけどな。」


「堅慎……。」


「それに、人を愛するのに資格なんて要らないだろ。そんなものがないと、心美は俺のことを好きで居てくれないのかよ。」


「そ、そんな訳ない!」


 手早く水仕事を済ませて自らの手をタオルで拭ってから、震える手で俺の腰にしがみ付く愛しい恋人の方を振り返る。次第に声がしわがれていくので何となく察してはいたが、心美の紅い瞳からは今にも涙が零れてしまいそうだ。健気に泣き声を押し殺している彼女のいじらしい表情を前に、俺の心に巣食う嗜虐心がどうしようもなく刺激された。


「で、でもなー。俺にも非があったとはいえ、純愛を疑われたのは相当傷付いたなー。」


「っ、どうしたら、許してくれる……?」


 心美の罪悪感に付け込んで、自らの欲求を押し通そうとしている己に抵抗がない訳ではない。だが、俺も相当酔っているのか、今回ばかりは自制が利かなかった。


「俺が心美を裏切るだなんて、そんなこと二度と思わせないようにしてやる。」


「えっ、どういう意──きゃあ!」


 後片付けを済ませた俺は、まだ日付も変わらないうちに心美を抱きかかえて寝室へと向かい、いつものように2人でキングサイズの柔らかいベッドに身を沈めた。いつもと違うのは、その晩、俺たちは結局一睡もしなかったということだ。


 先程とは違う意味で必死に許しを請う愛しい恋人の嬌声に聞く耳を持たず、止めどなく流れる愛の濁流によって、季節外れの茉莉花が俺の腕の中で咲き乱れる。枯れることを知らぬ、穢れなき可憐な白銀の美しさに魅入られて、俺は激しく彼女を求め、彼女も必死でそれに答えた。揺らぐことなき永遠の契りを交わして、俺たちは漸く互いを赦し合うことができたのだった。

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