Ep.20 仕組まれた罠

「心美、居たぞ!」


「馬鹿、大きい声出さないの……!」


 川の上流方面に逃げて行ったミーシャちゃんに誘われるままに、俺たちは河川敷の奥地へと足を運ぶ。すると、優雅に川の水を飲んでいる能天気な黒猫の姿を見つけ、俺は思わず歓喜の声を上げる。


「そろそろ日も落ちて紫外線量も減っただろうから、その服は脱いだらどうだ? また心美が猫に警戒されて逃げられたら敵わん。」


「分かってるわよ。ちょっと待ってて……。」


で頼むぞ。」


「んっ、急かさない!」


 心美は大量の汗を吸った長袖を引き千切らんばかりの勢いでその場に脱ぎ捨て、キャップやサングラス、マスクを全て外して日傘を折り畳む。さて、ここからはようやく彼女の時間だ。


「心美、これ。」


「うん……!」


 俺は心美に最終手段として持っておいた捕獲用ネットを手渡して、ミーシャちゃんの背後を取るように指示する。俺はさっきと同様に猫用おやつで気まぐれ猫の興味を惹きつつ、後は彼女がうまくやることを祈るだけだ。


 ──頼んだぞ、相棒……!


 つい最近ホテルで殺人犯と命を懸けて戦った時よりも緊張している自分に驚くも、眼前の黒猫が装着している赤い首輪は日本──ひいては世界全体の勢力図を塗り替え得る重要機密情報そのものだ。絶対にしくじる訳には行かない。


 じりじりと捕獲用ネットの有効射程範囲までミーシャちゃんに接近しようと試みている心美に、心の中で念仏のように祈りを唱えながら事の次第を見守る。


「今だ……!」


 十分に接近することができた心美は思いっ切り捕獲用ネットを振り下ろす。餌に夢中になっていたミーシャちゃんは突如として自分に向かってくる謎の物体に驚いて凄まじい瞬発力で回避しようとするも、流石に間に合わない。


「やった……!」


 遂に俺たちは、菊水家の迷い猫を捕らえることに成功したのだ。


「うおおお! 良くやった心美!」


「やったー! 50万円ゲットよー!」


「いや、まあ、うん。そうだな……。」


 心美の文字通り現金な態度に、苦労が報われた喜びも夜風に攫われるように一気に冷めていくが、まあ良いだろう。とにかく、依頼人の菊水には今日中に色好い報告ができそうだ。


「見て……! やっぱり素の私だったらミーシャちゃんも全然怖がってないわ! どうよ堅慎! 私の勝ちだわ!」


 得意気な表情で捕獲ネットから取り出したミーシャちゃんを優しく抱きかかえる心美は、変質者のような風貌からいつも通りの服装に戻ったため、特に警戒されていない様子だ。ペルシャ猫のミーシャちゃんは菊水から聞き及んでいた通り、人懐っこく心美の腕にすっぽりと納まり、暖気に欠伸をしている。


「別に勝ち負けとかないだろ……。ほんとに、見つかって良かったよ。」


「本当だわ。全く死ぬほど疲れたわよ……。」


 安堵からか、俺の身体には先程まで一切感じられなかった疲労感がどっと押し寄せる。


「そうだ、念のため赤い首輪の内側にあるパスワードとやらが刻まれているかどうか、確認してみろよ。」


「あぁ、すっかり忘れてたわ。」


 そう言って満面の笑顔を浮かべながらミーシャちゃんの赤い首輪を摘まんで裏返す心美は、何を見たのか、一転してその表情を曇らせていく。


「うそ──」


「どうした……? まさか、何も印字されてなかったのか……?」


「ううん。書いてあるわよ、パスワード。」


「はぁ!?」


 引っ掛かったとでも言いたげな、悪戯っぽい挑発的な顔でくすくすと笑いながらミーシャちゃんを撫でる心美に、俺は呆れて溜息をつく。


「冗談になってないぞ……! 心臓に悪すぎるだろ……。」


「だって堅慎ってば、河川敷に来てから妙に物憂げな表情で私を見てくるから。私、いつも堅慎に迷惑掛けてばかりだから、重荷になってるのかなって……。」


 どうやら俺の態度によって、知らず知らずのうちに心美を心配させてしまっていたらしい。


「はぁ。心美は頭良いくせに変なところで鈍いんだな。」


「どういう、意味よ……。」


「今更お前にどんな事されようが、重荷だと思う訳ないだろうが。俺は今日、ずっと心美を心配してただけだ。お前ももっと、辛い時は辛いって言って良いんだぞ? そんなことで負担に感じるくらいなら、はなから一緒に居ないだろ。」


 なるほど、心美が弱音を吐かずに我慢し続けていたのは俺に迷惑を掛けまいとした結果だったという訳か。普段は図太い性格しているくせに、何故か俺と居る時は繊細な一面を見せる心美らしい発想だ。


「ほら、沢山動いて疲れたろ! 早く帰って菊水さんにミーシャちゃんの事を報告しよう!」


 何も喋り返してこない心美の反応を見て、急に自ら放った台詞が小恥ずかしくなった俺は誤魔化すように彼女の肩を叩いて先を歩く。


「あ、ちょっと待ってよ!」


 ぱたぱたと小走りで後をついてくる心美と共に、日没後の薄明の底で鈍く光る河原を眺めながら、俺は清々しい気持ちで家路に就くのだった。



 §



「はい! ミーシャちゃんはこちらの方で保護しております!」


「……。」


「はい、分かりました。では、明日改めてお伺いします。」


 黒猫を怯えさせないように気を付けながらゆっくりと帰宅すること午後8時、一息つく間もなく俺は依頼人の菊水美佳の電話番号にミーシャちゃん発見の一報を入れて、翌日の午前中に自宅まで送り届けることを約束した。


「菊水さん、何て言ってた?」


「凄く感謝してたぞ。まさか依頼した翌日に見つかるなんて、流石は茉莉花探偵だってな!」


「『でしょー!』──と、言いたいところだけど。今回は運が良かっただけよ……。」


「まぁ、そうだな……。」


 そうなのだ、あまりにも運が良過ぎる。猫捜しの依頼を受けた昨日の今日で発見に至るなんて、偶然にしては出来過ぎではないかと、俺は心のどこかで引っ掛かっていた。だが、そんなことをわざわざ口にして依頼達成の喜びに水を差すのはあまりに無粋かと思い、俺は違和感を胸に仕舞い込んで、口をつぐんでいることにした。


「やっと家族のもとに帰れるわよ! 良かったわねー、ミーシャちゃん!」


 帰り際にコンビニで買ってきた猫缶を与えながら楽しそうにミーシャちゃんと戯れている心美だが、このままでは事務所が汚されて、後で掃除する俺の手間が増える。


「心美、汗かいたろ。ミーシャちゃんが食べ終わったら一緒に風呂に入れてやれよ。」


「えぇ……? 私、猫のお風呂の入れ方なんて知らないわよ……?」


「俺だって分からないけど、さっきからミーシャちゃんの足跡で廊下とか部屋が汚れまくってるんだよ……。」


「もう、仕様がないわね。分かったわよ……。」


 溜息をひとつ残して、心美はミーシャちゃんを抱きかかると風呂場へと向かって行き、片手で器用に脱衣所のドアを閉める。さてと、俺は彼女がゆっくりと浴室で猫と格闘している間に部屋の床を濡れた雑巾で拭き掃除して、今回の依頼に関する報告書をしたためるとしよう。何やら薄い壁を隔てた向こう側からは、心美の奇声と共にどたどたと慌ただしい狂騒が聞こえてくるも、俺はそれらを一切無視して自分の仕事に取り掛かるのだった。



 §



 相も変わらず嫌気が差すほど暑苦しい盛夏の朝日が、カーテン越しに部屋を照らす。俺は疲れた身体に鞭打って作業に没頭しているうちにいつの間にか眠ってしまっていたようで、肩には薄手の毛布が掛けられていた。おそらく、心美が気を遣って起こさないようにしてくれたのだろう。


 座ったまま変な姿勢で眠りこけていたため、椅子から立ち上がると身体の節々がぼきぼきと悲鳴を上げる。そのまま廊下を歩いて寝室を覗いてみると、心美がすやすやと寝ている隣で、俺の本来のスペースをミーシャちゃんが占拠していた。全く、いつの間に添い寝するほど仲良くなったのだろうかと、俺は一抹の嫉妬感を覚えた。


 手早くシャワーを浴びて寝汗を流し、現在時刻を確認しようと時計を見上げれば、短針は9と10の真ん中辺りを差している。菊水家にはミーシャちゃんを連れて午前中に訪問しなければならないので、そろそろ心美を起こすべきだろう。


「心美、おはよう!」


「んんぅ……。堅慎、おはよぉ……。」


「50万が待ってるぞ。仕事も大詰めだ。1時間くらいで支度できるか?」


「できる……。」


 枕に顔を埋めたまま答える心美の言葉に説得力は感じられないので、いつものように擽り起こすことにした。


「ちょ、ちょっと──変態!」


「えぇ……?」


 心美は勢い良く飛び起きて力の抜け切った拳を俺の肩にぶつけると、すたすたとリビングに向かって行った。俺たちの間ではお決まりの悪乗りだったはずなのだが、変な反応をされた俺は呆然と彼女の後ろ姿を見送るしかなかった。


「堅慎、今日の気温は?」


「んー、多分昨日と大差ないな。」


 茹だるような酷暑の再来に、心美は露骨にテンションを下げ、眉をひそめる。


「はぁ、嫌だなぁ……。ねえ堅慎、菊水さんの自宅までタクシーで行かない?」


「良いけど、タクシーって動物も乗れるのか……?」


「それなら、ペットタクシーを呼んでみるわ!」


 猛暑に倒れる心美の姿はもう二度と見たくなかった俺は彼女の申し出を快諾すると、暫くして心美の呼んだタクシーが事務所の付近まで到着する。ミーシャちゃんはもう不審者のような格好をした心美の姿を見ても威嚇することなく、安心し切ったように彼女の懐で縮こまっている。


 菊水家の住所をドライバーに伝え、車に揺られること十数分──午前11時頃、目的地への到着を告げたドライバーは、閑静な住宅地の片隅に聳え立つ1軒の豪邸の前で停車する。手早く料金の支払いを済ませた俺は、先に降車してすたすたと歩いて行ってしまった相棒の後を慌てて追いかける。


「流石は現職の衆議院議員と言ったところかしら……。」


「これは、確かに壮観だな……。」


 眼前に佇む広大な菊水家の敷地は、全盛期の名探偵が得ていた莫大な収入がぎ込まれた俺たちの住まう探偵事務所ですら敵わないほどだ。豪邸の門扉の前に備え付けられたインターフォンを押した心美は、少し皮肉めいた感想を述べる。すると、陽菜と呼ばれていた依頼人の娘が出迎えてくれる。


「あ、心美ちゃん! お待ちしてました!」


「はい、ミーシャちゃんを連れて来たわよ。今度は家族としてしっかり見といてあげるのよ。」


「本当にありがとう、心美ちゃん!」


「どういたしまして……!」


 陽菜と心美の微笑ましいやり取りを見て、俺は心美にも同年代の友人が居ればこんな感じだったのかと想像して、何とも言い難い気持ちになる。冷房の効いたタクシーの車内で芯まで冷えきった身体が照り付ける太陽によって徐々に焼かれていくのを感じて、紫外線に弱い相棒のことを思い出してふと我に返った俺は、慌てて仕事の話を持ち掛ける。


「依頼に関する報告書や報酬の話をさせて頂きたいので、少々お時間よろしいですか?」


「あ、はい! お母さんが個人的にお礼をしたいと言っているので、取り敢えずお上がりください!」


 俺たちは陽菜の案内で豪邸の中へと招き入れられる。陽菜が玄関扉を開けると、依頼人である彼女の母親・美佳が俺たちを出迎える。


「あぁ、茉莉花さんたち! この度は本当にありがとうございました! 夫も大変喜んでおりました!」


「それは良かったです……!」


「立ち話も何ですから、まずはこちらに。」


 美佳に促されるまま奥の部屋に通された俺たちは、高級そうなお茶菓子が並んだ広々としたダイニングテーブルを囲むように座る。


「まず、こちら報酬の1,000万円です。」


「「へ……!?」」


 口頭で約束していた報酬金額と全く異なる額面に驚き、俺たちは一様に間の抜けた声を上げる。


「実を言うと当初、夫の次郎は探偵にミーシャちゃんを見つける能力があるのか懐疑的だったのです。でも、茉莉花さんは私たちの期待を大きく上回る迅速な対応をなさってくれた。ミーシャちゃんの首輪に託された情報の鍵は本来、金銭換算できないほどに途方もない価値があるのです。」


 それは、そうなのだろう。一昨日聞かされた依頼内容が本当ならば、ミーシャちゃんの首輪に刻まれたパスワードと菊水次郎の自室倉庫に眠る情報は、国家転覆に悪用されかねないトップシークレットだ。


「とにかく、これは成功報酬の50万円に夫からの感謝の気持ちが上乗せされた額として、どうかお納めください……。」


 そこまで言われてしまっては、特段断る理由もない。俺は内心ガッツポーズを決めながら、テーブルに置かれたジュラルミンケースを受け取ろうと手を伸ばす。


 ──パリーン。


 その刹那、俺と心美の背後にあった窓ガラスが外部からの強い衝撃によって激しい音を立てて割れ、粉々になった破片が部屋中に飛び散った。

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