Ep.8 容疑者0名の功罪

 順調に関係者のアリバイを確認してきた俺は内心、得も言われぬ焦燥感に駆られていた。良く考えれば、もしこの場に集合している宿泊客と従業員の中に、真島を死へ追い遣った張本人が存在しているのならば、その正体を探ろうとしている心美と俺の正体に気付き、一挙手一投足を注意深く観察しているに違いない。


 俺は決して狼狽えることなく、周囲の人間の視線に気を配る。どうやら、今のところ俺の行動を怪しむ人物はいないようだ。だが、関係者への事情聴取を続ければいずれ、知らず知らずのうちに犯人と接触する可能性がある。そうでなくとも、何処かでこちらを監視しながら鳴りを潜めている犯人が、俺たちが真島の他殺に気付いて捜査を開始していることを知るだろう。


 ──このまま闇雲に従業員側のアリバイを探るのは危険だな。多くとも、聞き込みはあと2人までにしたいところだ。


 現時点で未だアリバイの確認が取れていないのは医師・渋沢と女性看護師、警備員に顔も知らぬシェフの4名だ。厨房からはかちゃかちゃと調理器具がぶつかり合う金属音が聞こえるので、まだ忙しいのだろう。必然的に、残った3名から声を掛けるべき人物を慎重に選ばなくてはならない。


「お休みのところすみません。ただいまお時間よろしいでしょうか。」


 俺が選んだのは、未だ一言も交わしたことのない人物であるホテル警備員の若い男性だ。


「あぁ、構わないですよ。どうされました?」


 溌溂はつらつとした声で愛想良く応対する警備員に対して、俺はあくまでも真島の自死を信じ込んでいるように振舞う。


「真島支配人の件、お悔やみ申し上げます。俺は2日前に一度顔を合わせただけですが、大変良くしていただいたので本当に悲しいです……。」


「えぇ……。次々と辞任していった前任者の後釜に据えられただけの急場凌ぎの人事だということは誰もが理解していましたが、そんな中でも真摯に仕事に向き合う姿は皆、心のどこかで尊敬していたと思います。」


「惜しい人を亡くしました……。」


 すると、神薙かんなぎしげると名乗った警備員は、思い出したかのように喋り出す。


「でも多分、一番堪えているのは渋沢さんですよ。真島さんとは同僚の中で一番仲が良かったですから。」


「そうなんですか?」


「えぇ。今日も朝の休憩時間中に僕たちが談笑していた時、渋沢さんは真島さんの話をしていましたし。」


「僕たちとは……?」


 含みを持たせたような言い方に、俺は思わず聞き返す。


「ですから渋沢さんと、シェフの中川さん、看護師の二階堂さんと僕です。これだけお客さんが少なければシェフは昼食まで、医務室の2人は怪我人や病人が出るまで、僕に至ってはほとんど仕事がないので、1階の休憩室に集まってずっと雑談してたんです。」


 なんと、神薙の証言が本当なら従業員側のアリバイは一挙に証明されることになる。まさか、そんなことがあり得るのだろうか。


「渋沢さんたちは緊急時にすぐさま対応できるように準備しておく必要がありますから、2つある休憩室のうち医務室の隣の部屋で真島さんの遺体発見までは一緒に居ました。今思い返せば、あの時支配人も誘って皆で一緒に居たなら、彼の自殺も防げたのに……。」


「神薙さんのせいではありません。すみません、気分を害してしまったようで……。」


 俺は神薙の証言を記憶に留めてひっそりとその場を後にする。残るは彼の証言を裏付けるのみだ。──そうだ、これを使おう。


 妙案を思い付いた俺は、今度は迷わず二階堂と呼ばれていた女性看護師と会話している渋沢の下へ歩みを進めた。


「すみません。これ、お返しするのを忘れてました。」


 俺は真島の身体をロープから降ろす際に借りたままだった医療用ハサミの柄を渋沢に向ける。


「あぁ、これはどうも。」


「いえいえ、そういえばなんですがね……。」


 俺は借りたものを返しに来たついでと言わんばかりの表情で口を開く。


「今朝方、火傷の痕が酷く痒くなったので何か薬を貰えないかと医務室を訪ねたんですが、誰も居なかったようで……。」


 嘘も方便だと、口から出任せを言う俺に対して申し訳なさそうな表情で渋沢は慌てて取り繕う。


「それは申し訳ない! 実は医務室の隣の休憩室で、仕事中だった川上さん以外の従業員はずっと休んでいたんです。まさか人影に気が付かないとは……。」


 それもそのはずだ。本当は医務室になど行っていないのだから。俺は渋沢を騙したことを内心申し訳なく思うが、宿泊客が極端に少ないとはいえ、業務時間中に持ち場に居ない彼らに非が無い訳でもない。そう自らを納得させた俺は、後で痒み止めの軟膏を受け取ることを約束してからその場を去って、いつの間にか優雅に紅茶を飲みながら座っている心美のテーブルへ引き返して行った。



 §



「おかえりなさい。待ちくたびれちゃったわ。」


「これでも出来る限り目立たないように、最低限の人数にしか話し掛けてないんだぞ……。」


「そういうことじゃないわよ。喉が渇いたから仕方なく傍に置いてあったポットの紅茶を頂いたんだけど、堅慎の淹れてくれるジャスミンじゃないと落ち着かなくて。」


 心美の理不尽な文句に何故か悪い気はしないのだが、今はそれどころではない。


「そんなことより、良いニュースと悪いニュースがある。どっちから聞きたい?」


「勿体ぶっちゃって……。だったら、良いニュースから聞かせてもらおうかしら。」


 心美の要望に応えて、俺は記者・服部から知り得た情報を伝える。


「あの人、私たちの正体を知っているって訳ね。はぁ、何だかやりづらいわね。」


「全くだ……。」


「それに、栄泉リゾーツが過去に嫌がらせ行為をされた施設が日本海側の海沿いだっていう共通点なんて、それだけでは単なる偶然とも言えるし、少なくとも今回の真島支配人殺害事件とは何の関係もないわ。」


「た、確かに、言われてみればそうか……。」


 俺は予想外の収穫に心躍らせて、思わせぶりな態度で情報をひけらかした自身の言動に赤面する。


「まあそう落ち込まないの。もしかしたら事件の全貌を把握するための重要な手掛かりかもしれないし、一先ずはその服部とかいう記者に感謝しておきましょう。」


「あ、あぁ。」


 分かりやすく落胆する俺を元気付けるように、心美はぽんと膝を叩く。


「それじゃあ、悪いニュースとやらの方は?」


「そっちは単純明快、全員のアリバイが成立しちまったことだ。」


 俺は川上、服部、神薙、渋沢の順で聞き込みをした結果手に入れた全員分の今朝8時前後のアリバイを、簡潔に心美へと説明する。


「要するに、現時点で容疑者は0名ってことね。」


 心美は俺の仕事内容に満足した様子で顎に手を当てて姿勢を正し、考え込む素振りを見せる。


「おい、驚かないのか? 真島さんが亡くなったらしい時間帯には、全員がそれぞれ別のことをしていたってことだぞ……?」


 あくまで真島の死は他殺であるという前提を貫くなら、容疑者を1人もリストアップできていない現状、事態は混迷を極めている。それなのにもかかわらず、心美は至って冷静にカップに残った紅茶で唇を湿らせてから口を開く。


「容疑者0名ということは、捜査が振り出しに戻ったとも言えるけど、良いこともあるのよ。」


「なに……?」


 俺は心美の言っている意味が分からず困惑する。


「1つは関係者へのバイアスをリセットできること。貴方は今のところ、この中で誰が一番怪しいと思う?」


 心美の質問に俺は戸惑いを隠せないが、冷静に考えれば心美をじろじろと汚らわしい目で見ていた外国人共だろう。俺は即答する。


「じゃあ、逆に現状最も犯人像から遠い人は誰?」


 犯人像と言われても、存在するかも未だ分からない犯人を想像しろという方が無理な話だ。俺は適当に川上や渋沢の名前を挙げておく。


「はい、それがダメ!」


 俺の頭に弱々しいチョップを繰り出す心美の言うことに、俺はますます動揺する。


「どういうことだよ……?」


「貴方は今、本当に他殺なのかも断定できない状況で、犯人像も碌に想像できないのに第一印象だけで誰かを犯人だと思い込もうとしていた。それが最も愚かで危険な行為よ……!」


 ぴしゃりと言い放つ心美は、畳み掛けるように喋り続ける。


「容疑者が居ないということは、この場の全員を一度フラットな目線で見直すことができるということ。今までの印象は全て忘れて、8人全員を怪しみなさい。私の正体を知っている記者のことも、まだ見ぬシェフのことも、平等に疑ってかかるの。」


 なるほど、確かに俺はこれまで自身に対して好意的に接してくれた人を無意識のうちに、優先的に犯人の選択肢から外して、気に食わない奴を想像上の犯人に仕立て上げていた。心美の言葉に内省して、俺は彼女の次なる言葉を待つ。


「もう1つは、真島さんの死亡推定時刻が何の当てにもならないことが分かったことよ。」


「それは、そうだな。」


 突如として真っ当な意見を述べる心美に対して、俺は拍子抜けしたように間抜けな返事をしてしまう。


「意味がわかってないわね……? つまり、真島さんは他殺だっていう仮説から逆算すれば、容疑者の不存在は死亡推定時刻が8時前後だという前提が間違っていることを意味するのよ。」


「なんだと……!?」


 想像の斜め上を行く心美の発言に、俺は度肝を抜かれる。


「いや、正確に言えば真島さんが死んだのは確かに8時前後だったはずよ。部屋に入った時の微かなロープの揺れ、生前と何ら変わらなかった肌艶はだつや。密室でなかったならまだしも、密閉状態の支配人室で私たちが目撃したそのどれもが、真島さんの死はごく最近の出来事だったと物語ってた。」


 自ら事件現場を回想して1つずつ確かめるように話す心美と同じように、俺も頷く。


「でも、全員のアリバイが立証された以上は、真島さんの死を8時前後だと錯覚させるような偽装工作を別の時間帯に行った人物が居たはずよ。そのことに気が付けただけでも、一歩前進としましょう。」


 齢16歳にして、世界を震撼しんかんさせた大事件の数々の解決にたずさわってきた心美が真島の死亡現場を見た上で、ここまではっきりと他殺説を主張するからには相当程度の確信と経験から来る直感的要素があるのだろう。俺は相棒の言葉を信じて、脳内に刻まれた容疑者0名という文字を改めて8名とした。



 §



「皆さん、昼食のご用意ができましたので、これより配膳いたします。お立ちの方は、お好きな席へ改めてご着席ください。」


 厨房から中川と呼ばれていたシェフとおぼしき男性の声が食堂に響き渡る。俺は心美と密談をするために他の客とは少し離れたテーブルを囲んでいたため、気を遣って移動しようかと考えたが、心美に制止される。


「下手に動くと余計に怪しまれるだけだわ。」


「あ、あぁ。分かった。」


 暫くすると、190㎝はあろうかという恰幅の良い男性が、美味しそうな料理を一杯に乗せた配膳用のワゴンを引いてやって来る。


「大変お待たせ致しました。こちら、真鯛と夏野菜のアクアパッツァ、エビとアボカドのカクテルサラダ、コーンポタージュに、バゲットはおかわり自由となっておりますので、お気軽にお申し付けください。」


 赤、青、黄色がバランス良く彩られた夏らしいメニューに、先程まで張りつめていた緊張の糸が切れたかのように腹の虫が鳴る。ふと心美の方を見遣れば、彼女も同じようにぱあっと表情を一変させ、口元が綻んでいくのが分かる。そこに、さっきまで表に現れていた白鳥のように見目麗みめうるわしい容姿と怜悧れいりな頭脳を併せ持つ名探偵・茉莉花の姿はなく、1人の幼気いたいけな少女が年相応に無邪気な笑顔を浮かべていた。

 

「うわぁ……! 堅慎早く!」


「そうだな……!」


「「いただきます!」」


 豪勢な食事を前にした俺たちは、久方振りに肩の力が抜け落ちて、期待感に胸を膨らませる。だが、食事を進めていくにつれて、徐々に俺たちの表情は曇っていった。


「ねぇ、堅慎……?」


「あぁ、おかしい……。」


 心美が探偵としてその名を世界に轟かせ、引っ切り無しに依頼が舞い込んできていた頃のこと、俺たちは心美の収入によって世界各地の美食を堪能していたので、ある程度舌が肥えている。そのため、この料理に潜む微細な変化にもすぐに気が付いた。


「臭うな……。何とも言えないが、強いて言うなら小便のような異臭が……。」


 サラダやスープといった料理には特段の異常はなかった。仄かに鼻腔をくすぐる臭いの正体は、主菜であるアクアパッツァに使われている白身魚のようだった。


 食堂全体を見渡すと、既に食事を終えて部屋に戻ろうとしている宿泊客やまだ食事を始めて間もない従業員など、様々だったが、この微細な悪臭に気が付いている様子の者は居ない。


「俺たちの料理だけなのか……?」


 確かに、我慢しようと思えば完食することもできるような僅かな違和感だ。だが、一度気になってしまうともう料理に手を付ける気が完全に失せてしまった。心美も俺と同じようで、手に持っていたナイフとフォークを皿に置く。


「あの、お気に召していただけませんでしたか……?」


 先程料理を運んできた中川が俺たちの異変を察知したのか、テーブルまでやって来て不安そうに尋ねる。俺たちは物腰柔らかに応対するシェフの体躯たいくに威圧感を覚えるも、正直に事情を説明した。


「なんと、それは申し訳ございません! 少々お時間を頂ければ、新しい物と交換致しますが──」


 心底驚いた様子の中川はぺこぺこと平謝りに謝るので、心美はそんな大男をなだめるように提案する。


「私たちは大丈夫よ。それじゃあ、何か代わりになる軽食を後で部屋に持ってきてもらっても良いかしら?」


「勿論でございます! 本当に申し訳ございません!」


 不手際をあっさりと水に流す心美に再び謝罪する中川へと、彼女は重ねて質問する。


「我儘ついでに、悪いけどもう1つ聞かせてもらえるかしら?」


「はい、何でしょうか……。」


「この料理に使われた魚はどのように保管されていたの?」


 心美は悪臭の原因を探るように、中川へ問い質す。


「アクアパッツァに使用した真鯛はこの離島の近海で取れた天然ものでございますが、悪天候の予報により、想定以上にお客様が訪れなかったため余らせていたものを業務用冷凍庫に保管しておりました。仕入れからは少々時間が経っておりますが、適切に管理していたため腐っていた訳では決してありません……!」


「他の客や従業員にも同じものを?」


「はい。全く同じ方法で保管していた、同じ食材を提供しました。」


「そう。サラダやスープは信じられないほど美味しかったから、貴方の手腕は疑っていないわ。軽食、楽しみにしているわね。」


「あ、ありがとうございます! 腕にりを掛けてご用意しますので、お寛ぎになってお待ちください……!」


 自信を失いかけていた中川へのフォローを忘れず、聞きたいことは聞き終わったと言いたげな様子の心美は俺の手を引いて最上階の部屋へ戻ろうとする。


「良かったのか? もしかしたら、あのシェフが犯人で、俺たちの食事に何か混ぜたとかじゃ──」


 俺の言葉に心美は呆れたように告げる。


「あの焦りようを見なかったの? あれは本当に何も知らない人間の反応よ。もし演技でしらを切り通したのだとしたらアカデミー賞ものだわ。おそらく、シェフの食材管理に問題はなかった。」


「事件との関連性はありそうか?」


「それは、何とも言えないわね……。一応頭の片隅には留めておきましょう。」


 疑念の種を植え付けられ、形容し難い違和感が胸につかえたまま、俺たちは2階まで降りてきたエレベーターで一直線に自室へと向かうのだった。

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