雇われ探偵マツリカ

yokamite

Ch.1 リゾートホテル密室殺人事件

天才探偵・茉莉花心美の憂鬱

Ep.1 雇われ探偵マツリカ

 ある暑い夏の日のこと。英国貴族の住まう邸宅を彷彿ほうふつとさせるようなアンティーク調の家具で統一された、広々とした探偵事務所の一角に設置されたソファの上で、白髪の美少女・茉莉花まつりか心美ここみは、姿勢良くミステリーものの小説を読んでいた。


「心美、お茶を入れたよ。」


「ありがとう、堅慎。気が利くわね。頂くわ。」


 そう言って俺が丁寧にれたジャスミン茶の香りを嗜みながら、こくこくと気持ち良さそうに乾いた喉を潤した心美は、窓から差した陽の光と事務所の古風な雰囲気とも相俟あいまって、さながら本物の英国貴族のようだ。


「堅慎、とっても美味しいわ。また腕を上げたわね。」


 ──当然である。濃い目の茶を好む心美のために茶葉は5グラム、彼女の猫舌を労わるように80℃の熱湯で抽出した後は蓋をして60秒間、じっくりと蒸らしてから手渡さなければ、彼女は熱湯をも凌ぐ烈火の如き怒りの鉄拳を振り下ろすのだから、俺は今日に至るまで失敗する度に茶の淹れ方を徹底的に身体に叩きこまれた。とはいえ、ほとんど痛くはないのだが。


「お気に召していただけたようで光栄です。お姫様。」


「あと、窓のカーテンを閉めてもらっても良いかしら。肌や髪が痛んでしまうわ。」


「仰せの通りに、っと……!」


 俺はテーブル越しに爪先立ちして、強引にカーテンを掴んで横にスライドする。


「ちょっと、横着しないの! もう……。」


 呆れ顔で溜息を吐く彼女の名前が茉莉花心美だというのは今し方説明した通りだが、彼女が何故これ程までに美しい白髪を蓄えているのかについては、まだ言及していないはずだ。


 心美は、メラニンと呼ばれる色素の生合成に係る遺伝情報の欠損──すなわち、先天性の遺伝子疾患によって身体全体の色素が薄い。従って、彼女のたおやかな長い白髪は生まれ持った個性であり、眼球に至っては両目共に血管の色素が浮き出て赤みがかっている特徴がある。その日本人離れした美貌びぼうから、彼女は度々たびたび外国人と間違えられるが、れっきとした純日本人である。


 生物学的に言えば、心美はアルビノと称される個体なのだ。アルビノの発生頻度はおよそ数万分の1と推定されているが、特に彼女のような重篤患者は稀である。重症とはいえ、非進行性の症状である上、日常生活にもほとんど支障はないのだが、特に日差しが強いこの季節は、彼女の真っ白な柔肌は紫外線を遮断する能力が極めて低く、外出には酷く向いていない。また、眼球の虹彩こうさいに色素がほとんどないため、十分な遮光性を発揮できず、羞明しゅうめいと呼ばれる、強い光に弱い症状がある。


 そんな夏という季節とは極めて相性の悪い心美に対して、夏場に花を咲かせ、の名を冠する茉莉花という姓はあまりにも皮肉だ。だが、彼女はそのことを存外気にする素振りもないどころか、むしろ「格好良いから」などと短絡的な発想で積極的に苗字を名乗るため、学校にもろくに通えていなかった彼女をと名前で呼ぶような仲なのは、恐らく俺だけだ。


 俺の名は岩倉いわくら堅慎けんしん──心美とは対照的な生まれながらの黒髪を短く切り揃え、飾り気のない見てれの平凡な人間である一方、彼女の幼少期からの気心知れた幼馴染にして、同い年の19歳だ。今はとある事情から、この茉莉花事務所で所長兼探偵を務めている彼女の相棒兼用心棒として、心美本人に雇われる形で働いている──はずなのだが。


「ところで堅慎、今うちの活動資金はどのくらい残っているの……?」


「そうだな……。多分、今月の事務所の維持費や経費は拠出できない。」


 そう。今現在、この探偵事務所は閑古鳥が鳴いている最中なのだ。


「はぁ!? うちの事務所の営業、渉外、事務管理その他諸々は貴方に一任していたはずでしょう!」


「仕方がないだろ! 仕事が来ないんだよ!」


「だったら、何でも良いから仕事を持ってきなさいよ! 私みたいな天才美少女をこんな狭苦しい事務所でくすぶらせておくなんて、勿体ないにもほどがあるわ!」


「良く言うわ! もとを正せば心美のせいでもあるんだぞ!」


 このような応酬は、一体何回目になるだろうか。うちの探偵事務所はかつて、今とはなっては信じられないほどの活況を呈していたのだ。


 茉莉花心美の探偵としての才能は、よわい16にして世界中の注目を浴びることになった。当時、世界各地で同時多発的に発生した猟奇殺人の犯人を追って捜査本部を立ち上げた警察が四方手を尽くしても解決できず、迷宮入りかと思われた難事件の犯人を言い当て、未曽有みぞうの国際犯罪の首謀者逮捕に至ったという功績に始まり、その類まれなる推理力によって、国内外問わず様々な怪事件の真相究明に関わってきた心美の名を世界で知らない者は居なくなった。


 ところが、それが良くなかった。茉莉花心美は世に蔓延る犯罪者からすれば「警察よりも遥かに警戒すべき怨敵おんてき」として、各所から逆恨みを買う羽目になった。結果として、彼女は自己防衛のために姿を隠す必要に迫られたのだ。さらに、心美の存在は特に我が日本における犯罪発生率の著しい減少に大きく貢献したため、皮肉にも、必然的に探偵事務所には昔ほど仕事の依頼が来なくなってしまった。現在の茉莉花探偵は、もはや事実上の現役引退と相成っている。


「それが何よ! 私は世の為人の為と思って自分の力を発揮しただけだわ! それの何が悪いのかしら!?」


「嘘吐け! 仕事があったうちは『今のうちに稼ぎまくって豪勢な隠居生活を送るんだー』とか抜かして、未だに高級なジャスミン茶葉とかを海外から取り寄せてるもんだからいけないんだぞ!」


「だったら貴方のお給料を減らしなさいよ! 今はほとんど仕事してないでしょ!」


「それはお前が言うな! 大体、俺はいつ心美の身に危険が迫っても問題ないよう1日たりとも自己研鑽を欠かしたことはない! そんな俺の給料を必要経費と言わずして、何と言うんだ!」


五月蠅うるさい! どのみち一緒に生活してるんだから良いでしょうが!」


 最近は事務所の逼迫ひっぱくした財政事情のせいで、こうした言い争いの頻度は増え続けている。ただ、俺は心美の身を心から案じているからこそ、この状況は何とかしたいと本気で思っている。それだけは彼女にもわかってほしいのだが。


 ──カラン、コロン。


 その時、突如として、事務所の玄関扉に備え付けられたドアベルが来訪者の存在を知らせる。


「あの、外まで喧噪けんそうが聞こえてきていましたが、お邪魔でしたかな。」


「い、いえいえ! こちらへどうぞ……!」


 訪問者はグレーのスーツに身を包んで中折れ帽を被った老紳士だった。俺は突然現れた謎の訪問者に驚きを隠せないが、客である可能性も捨てきれないため物腰柔らかに応対する。


「ここは、茉莉花心美さんの探偵事務所で間違いありませんかな?」


 老紳士の放ったその言葉に、俺は一気に警戒心を高めてソファに座る心美の一歩前へ出る。


不躾ぶしつけなお願いで恐縮ではございますが、まずは貴方のご身分を明かして頂いてもよろしいでしょうか。」


 重ねて言及するが、今の世の中には茉莉花心美の能力を好ましく思わない勢力も存在する。そういう手合いから心美を絶対に護り通すことも、俺の重要な仕事のひとつだ。


「私のような年寄り相手に、そう構えないでください……。私は、ある組織から茉莉花女史じょしのもとへ『の打診に伺いなさい』という旨の命令を受けただけの代理人──わばお使いです。」


「「ですか?」」


 心美と俺は口を揃えて、聞き馴染みのない単語を確かめるように復唱する。


「えぇ、左様でございます。契約内容は至って単純です。こちらから提示させていただくのは茉莉花女史の安全保障──それに加えて、前金1億円です。」


「い、いちおくですって!?」


 老紳士の口から飛び出した法外な金額に、心美がその紅い目を見開く。


「ちょっと待ってください。いくら何でも単発の案件に1億などと、何か裏があるとしか思えません……。」


「まあ、そう慌てないでください。これは顧問契約なのですから。」


 結論を急ごうとする俺をいさめるように、老紳士はテーブルに差し出した来客用のカップに入ったジャスミンで唇を湿らせてから、落ち着き払って続ける。


「見返りとして、茉莉花女史には当方専属の雇われ探偵となって頂きます。勿論、身柄を拘束する訳ではありません。何か不可解な事件事故が発生した際に、そのお知恵を拝借したいというだけです。」


「あら。その物言いでは、まるで不可解な事件事故がこれから起きることを予期しているようでは?」


 心美は至極当然な疑問を老紳士にぶつける。


「えぇ、その通りです。我が組織は国内でホテル事業を展開するため宿泊施設を多数所有しているのですがね、夏の旅行シーズンを迎えると毎年必ず、当方所有の施設で何かしら原因不明の事件事故が発生するのです。」


「ほう。それは興味深いですね……。」


 心美は顔色を変えて、考え込むように顎に手を当てる。


「そのせいで当方のブランド価値は、下降の一途を辿るばかりなのです。そこで私のクライアントは、この喫緊の課題に対して早急な解決策を求めております。それが茉莉花女史──貴方だということです。」


 老紳士は淡々とそう告げると、俺たちの眼前に人差し指を突き立てる。


「事件解決の度に、成功報酬としてさらに1億。もし原因不明の事件事故が何者かの故意犯による同一犯行であった場合に、その逮捕に協力して頂けるのであれば、別途1億円が支払われます。如何でしょうか。」


 俺は心美と老紳士が契約について話し合っている最中、老紳士から差し出された1枚の契約書をくまなく確認していた。確かに、今まで老紳士が述べた内容と契約書に記載されている事項には矛盾がなく、仕事に飢えていた俺たちにとってはまさに闇夜の提灯ちょうちん、日照りに雨だ。


「心美、どうする……。」


 俺は一先ず、所長である彼女の判断を仰ぐことにした。すると心美は、優しい微笑みを浮かべて俺の瞳を見つめ返す。


「さっきも言った通り、事務所の渉外は貴方の仕事の一環よ。私は所長としても、貴方の親友としても、全面的に堅慎の決定を支持するわ。」


 ──なんだ。さっきまで1億円という金額に目を輝かせていたくせに、格好良いことを言うじゃないか。それでも、存外嬉しくなってしまっている単純な自分が居ることを自覚して、少し恥ずかしくなるのを誤魔化すように俺は頭を下げた。


「承知しました。この依頼、つつしんでお受け致します。」


 俺の首肯しゅこうに対して、老紳士は満足げな表情で答えた。


「交渉成立、ですな……。」

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