海月坂
青海老ハルヤ
海月坂
夢を見ていた。海の夢だ。1メートル先も見えない暗闇の中で、僕は身を波のゆらぎに任せている。泡が身体から逃げていく音以外には、何も聞こえない。そんな情報量の少なさに、僕にはたまらなく懐かしさを覚えていた。視界の端に何かを発見した時は、それをむしろ邪魔に思うほどだった。
しかし、それはぐんぐんと大きくなり、僕の視界を遮っていった。暗闇の中に溶けだすような半透明の巨大な体の中で、何かがキラキラと光っている。それはまるで星のように儚く瞬いていて、邪魔くさく感じていたのも忘れ、僕はいつの間にか手を伸ばしていた。その瞬間海が揺れた。それはどこかへ泳いでいって、仕舞いには僕の視界から完全にいなくなってしまった。消えていった方角をわずかでもなにかないかと探しながら、僕はゆっくりと底へ落ちていった。
目を覚ますと背中にびっしょりと汗をかいていた。いくら暖かくなってきたとはいえ、まだ4月の気温の中では体が冷えてしまう。上半身だけ脱いで汗をタオルで拭き、それからタンスを漁る。しかし、そこには目当ての下着は入っていなかった。六畳の部屋の向こうで洗濯機がゴウンゴウンと音を立ててその体を揺らしていた。
ため息を着いてとりあえず無地のTシャツを被った。ガサガサの違和感に顔をしかめるが仕方がない。再び布団に潜る。――が、腹の底でお約束の音がした。再び起き上がって冷蔵庫を見ると何も無い。自分の不精を嘆いて、ジャージを羽織る。下の寝間着はそのままにスマホと財布を手に取った。
もしクラゲが本当に目の前にいたら、僕は卒倒してしまうかもしれない。コンビニに向かう坂を下りながらそう思った。夢のあれは間違いなくクラゲだった。
クラゲは嫌いだ。――世の中には海洋恐怖症というものもあるようで、海の奥行の深さが怖いというが、僕はそれではない。むしろ海は好きだった。
それでもクラゲは嫌いだ。クラゲだけが嫌いなのだ。クラゲを見ると祖母の死を思い出してしまう。不完全で不透明な何かが揺れる。僅かな力でふわりふわりと舞う。そんな光景を、祖母が死ぬ瞬間に僕は見た。何かが祖母から溢れ出して、世界にクラゲが解き放たれていく。だから僕はクラゲが嫌いだ。
夜中のコンビニは店員と僕の他には誰もいなかった。蛍光灯が眩しく光っている。時間に似合わぬ軽快なCMを聴きながら、塩にぎりと……ついでにアイスをひとつとる。やけにパッケージのプラスチックが擦れた音が大きく響いた。店員のやる気のない挨拶を流し会計を済ませて外に出ると、アイスを食べるには少し肌寒くなっていた。
上を見上げると今夜は満月だった。クラゲは漢字で「海月」と書く。海の月。分からなくもない。それでも、月ほど豪勢なものには見えない、なんて邪推をしてみる。意味の無いことだ。
もし僕が死んだら、僕からクラゲが生まれるのだろうか。ふわりふわりと空気を押して、月まで飛んでいくのかもしれない。坂を登りながらそう思った。
海月坂 青海老ハルヤ @ebichiri99
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