『ごめん、好きになっちゃった』
椎那渉
片想いの最終日
長かった高校生活も終わる。
そう溜息をつきながら、
3月に入ってからは瞬く間に時が過ぎていたのに、それまでが長かった。卒業式の後、はしゃぐ同級生たちにファミレスかカラオケに行こうと誘われたが、どうもそう言う気分にはならなかった。アルバイトの給料日前と言うこともあり、また進学の為の資金に手を付ける訳にもいかず、やんわりと断って今に至る。正直自由に使える金は、いまのところあまりない。
彼は早く大人になりたかった。何故かは自分でも分からないが焦燥感ばかりが募り、大人になって自由になりたかった。高校を卒業して大学に入り、それなりに勉強してそれなりの仕事に就く。そのあとはその時になればだが、とにかく大人になりたいとそればかり思っていた。行政的には成人を迎えてはいるが、まだ心は大人になりきれていない。だからなのだろう、通学路を背後から歩いてくる気配にも、呼び掛けられる声にも気づかなかったのは。
「暁くん」
一番今聞きたくなかった声を、最初は無視した。
「あきらくんってば」
返事をすれば、また足止めを喰らう。そんなのは分かっている。
だけどどうしても出来なかった。急いていた足を止め、不機嫌そうに振り返る。頬に絆創膏を貼った暁の顔はいかにも「何か用か」と言いたげな表情を浮かべてはいるが、その実とても嬉しそうだ。ぴんと寝癖の着いたままの前髪を揺らし、少しくたびれていた先ほどまでとは大きく違う表情を浮かべている。
「…なんだよ」
「途中まで、一緒に帰ろうよ」
声を掛けてきたのはクラスメイトだった。名前は
だからこそ、会いたくなかった。最後まで未練を残してこの街を去りたくなかったから。
「…別にいいけど」
「ほんと?良かった!」
笑顔でパタパタと駆け寄ってくる美月を待ち、自分が車道側に立って横並びに再び歩く。
今までこんなふうに男女が一緒になって帰る後ろ姿を遠巻きに眺めながら、ナンパな振る舞いを…と思っていたのが嘘のように心が凪いでいる。
「暁くん、大学進学するんだよね」
「ああ。…まぁ、部活推薦だけどな」
「そっか!ボクシング部だったもんね、ずっと」
「うん…?なんでおまえ、そんな事知ってんだ」
「だって、部室の窓から見えるんだもん。ボクシング部の練習風景」
ん?と首を傾げ、そう言えば美月は三年間吹奏楽部だったなと納得する。二階にある音楽室から、斜め向かいにある一階のボクシング部の部室は確かに丸見えだった。そして、数週間前に行われた部員として最後の引退試合に、普段見慣れない姿が応援席に居たのを思い出す。
普段ポニーテールだった髪を下ろしていたので分からなかったが、確かに美月だった。
「そういや、こないだの大会に応援来てたの…おまえか」
「…うん。め、迷惑だったかな…?」
「迷惑なものか!俺だってずっと…」
「…?」
「あ、いや、なんでもない、忘れてくれ」
顔を赤らめて慌てて手を横に振り、数回深呼吸を繰り返す。意識していた訳ではなかったが、その試合では3戦のうち2勝1引き分けで何とか白星を取れた。あの時よりも動揺しているのか、落ち着けと自分に言い聞かせる。毎日ボクシング部の部室の窓から音楽室を見上げては、自分には高嶺の花だと漏れ聞こえる音たちに耳を澄ませていた。その音の中のひとつ、美月の奏でるフルートの音色だけは、自分の耳に妙に馴染んでいた。
× × ×
暁が初めて彼女の音を聞いたのは2年前のことだった。ボクシング部のインターハイ出場が決まり、学校総出で壮行会が行われた1年の夏。まだボクシング部に入りたてだった暁は、校歌を伴奏する吹奏楽部の真横に並んでいた。その時に見つけた美月の姿が、同じクラスの女子だと思えないくらい眩しく見えた。
さらさらの黒髪をひとつに纏め、譜面を一点に見つめる表情は真剣そのもので、きっとその時一目見て惚れたのだと思う。
クラス替えしても毎年同じクラスになって、それでも何ら変わらないクラスメイトとしてしか接することができなかった。
運動会も、文化祭も、修学旅行も遠足も。友達が友達と付き合いだして、別れて、別の恋人と付き合いだしても変わらないまま。それからずっと、何も言い出せずにとうとう最後の一年になった。よくもまぁ、ここまで堪えられたものだと思う。
美月が違うクラスの男子から告白されたと知っても、特別に何か動こうとは思わなかった。結局その男子は振られたのだと後で知って、少しだけホッとしたのは確かだったが。
授業が終わるなりすぐ部室に向かい、この欲望を望んではならぬと目の前のサンドバッグに拳を叩き込んでいた。
そんな毎日とも、今日でお別れだ。
すぐ隣にいる彼女の横顔が、何故だか遠くから見ているような気持ちになるのも今日で最後。
「暁くん、あのね」
「俺も言いたいことがあるんだけど…いいか」
ほぼ同時に足を止め、お互いがお互いを見つめ合う。
辺りには芽吹き始めた街路樹と、霞んだ空に浮かぶ太陽しか見えない。相手の声が自分にしか聞こえないのだと分かれば、なんとなく安心する。
異口同音に紡がれた言葉は、春先の冷たい風に溶け込んだ。
『ごめん、好きになっちゃった』 椎那渉 @shiina_wataru
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