夜の散歩は危うい香り

七草かなえ

夜の散歩は危うい香り

 無性に自分を傷つけたくなる、夜がある。

 お医者様に処方された淡い色の錠剤を一気に飲んでしまおうかとか、あまり切れ味の良くない文房具の刃で手首をそっと撫でようかとか。

 オーバードーズもリストカットも、世間的にはあまりよろしくないとされる行為である。

 自傷行為は法律で禁止されていない、よって刑務所の檻に入れられることはない。鍵のかけられた精神科病院に放り込まれる可能性はあるけど。 

 わたしはここ数ヶ月、ある行為をして自分を傷つけたくなる衝動をやり過ごしている。

 両親もきょうだいも寝た午前一時、わたしはそろりと泥棒のような足取りで外に出る。夜の闇に紛れそうな黒いジャージ姿で、女一人。わたしの住む一軒家は大通りに面している。良く言えば活気があり悪く言えば騒々しい。そんな場所だ。

「さて、と」

 わたしの行き先は決まっている。徒歩五分ほど先にある赤い看板のコンビニだ。

 日付が変わったころだというのに、意外にも車の往来は多い。みんなどこへ、何をしに行くのだろうか。

 あと一時間で午前二時、草木も眠る丑三つ時にも起きている人間はいるものだ。

 コンビニへは毎晩行くわけではない。自分を傷つけたくなる程度にどうしようもなく苦しくなったとき、何かに握りつぶされるような圧迫から逃げ出したくなるときに出る。

 いつもわたしの具合が悪くなるのは真夜中。さっさと寝ればいいのだろうが、なかなか睡眠導入剤が効いてくれないのだからまあ仕方が無い。

 真夜中の街は昼間とは違う顔をしている。真昼はさっぱりした空気も、どこかしっとり生ぬるい湿気を纏っているようだ。

「ねえ、小夜」

 聞き覚えのある女性の声に名を呼ばれ、警戒しながらもつい振り向く。

 相手はスーツ姿の友人だった。おそらく仕事帰りか、その後の飲み会帰りか。

「こんばんは真希、今帰り?」

「そうそう、うちの会社意外とブラックでさあ。いつ過労死するかもわかんないよ」

 物騒な言葉を、くつくつと笑いながら真希は言って退ける。

「あたしも小夜みたいに辞めれば良いんだろうけど。なかなか決断つかなくてね」

「もう。わたしが辞めたのは大学だよ? ブラック企業とは状況が違うって」

「ごめん」

 割と真顔で言ったわたしに、真希はしゅんとする。責めるつもりはないのだけど。

「小夜は夜のお散歩かな」

「そう。ちょっとそこまでコーヒー買いにね。ブラックコーヒー」

「あはは、同じブラックでもうちの会社とは大違いだ」

「……そうだね。なんだか夜の街って危険な香りするじゃん。なんとなーくだけど、そういう危うい空気に身を浸したくて」

「小夜、大丈夫?」

「深夜のテンション」

 実際真夜中の散歩もわたしにとっては自傷行為の一種だった。若い女性がよれたジャージで苦いコーヒーのためだけにコンビニへ行く。どこか罰ゲームのように、わたしは深夜のこの行いをたのしんでいた。

「あの、あたしも深夜のテンションで訊くんだけどさ……、小夜が精神病んだのってお家のことでだよね」

「そうだよ。兄貴が炎上してから」

 わたしの兄はファミレスで店員へ一方的に接客態度に難を付けて土下座させ、あろうことかその様子を撮影して――画像と映像をSNSにアップした。

 当然投稿は大炎上。それも店側にはきっちり警察に通報されており、あっさり逮捕されてしまった。

 以来うちの家族はなんというかちょっと、世間から忌避きひされるような扱いを受けている。まともに話せる人は精神科の主治医くらい。大学も半分、学校側から促されて辞めた。

 いつも行くコンビニも、人の顔がわからない真夜中だから行けるようなものだ。

「よし小夜っ、コーヒー入れてあげるからウチおいで」

 急に真希が、わたしの腕を引っ張った。

「えっ、急にどうして」「いいでしょ、明日は会社サボってやるつもりだし」

 何も言わずにわたしの手を引く真希の手は温かい。

「家族のこととか世間のこととか、色々愚痴ろう。そうしようよ」

「…………うん」

 これも深夜のテンションなのか。

 でもまあ、きっと良いことだ。

 それから夜が明けるまで。わたしと真希は、苦いコーヒーと甘いお菓子を口にしながらたくさんお喋りした。

 初めてわたしは、自傷行為でない気持ちの発散方法を見つけられたのだった。

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