第二十六章 三笠の歌を


「うそ、でしょ……?舞桜くん……」


 三笠は両手を口元に当てて、叫び出したいのを堪えた。初めて、人がこんなに出血しているのを見た。初めて、血って口から出てくるんだって知った。


 そして今――彼は倒れ伏していて、その側には早乙女ヒメカがいる。三笠はどうすることもできない。


「……舞桜くんから離れて!」


 言葉だけは出るのに。


〈は?なに威勢のいいこと言っちゃってるの、お姉さん?離れるわけ無いじゃん。コイツは、ヒメカがゆーっくり呪鬼に仕立て上げるための玩具にするんだから〉


「そんなこと、させない……」


〈へえ、でもお姉さんじゃあ、できないでしょ?〉


 ヒメカが嘲笑うような目で三笠を見る。

 三笠はその正論に、ぎゅっと拳を握りしめることしかできなかった。


(そうだ……私はまだ一人じゃ戦えない……)



 そう、三笠の心が折れかけていた、その時だった。



「舞桜ぉぉおおぉおお!!死ぬなぁぁぁぁあ!!」



 三笠の目の前を、涼しい風が通り過ぎていった。なんとなく、アキの呪法を思い出すような、懐かしい匂い。


 鮮やかなオレンジ色の光が、三笠とヒメカの間で旋回した。その眩しさに、思わず目を瞑る。


(誰か……来た?)


 恐る恐る目を開けると……そこには。


「早乙女ヒメカ……舞桜を、刺すなんて、よくもやってくれたな」


 三笠より遥かに身長の高い、丸眼鏡を掛けた男の人が立っていた――――桜咲舞桜と、一緒に呪詛結界内に入ってきた陰陽師だ。大学生っぽいなぁとだけは思うが、三笠はまだ彼の名前を知らない。


 眼鏡の陰陽師の目は、まっすぐにヒメカへと向けられている。


 呪鬼はというと、突然の第三者の介入に戸惑っている様子だった。


〈お兄さん……いつの間に……〉

 

 彼女の赤黒い瞳には、明らかな動揺の色が浮かんでいた。


 峻佑は、その隙を見逃さない。ヒメカが目を見開いて動きをストップさせている間に、床に倒れている舞桜の身柄を抱きかかえ、また彼女から離れる。


 桜咲舞桜、救出完了だ。


「舞桜っ、舞桜くん!!目を覚ませ!」


 峻佑は腕の中でぐったりとしている同僚の名を呼び続けた。しかし、彼は目を覚ましそうにもない。ただ、先程の村雨霧花のように……苦悶の表情を浮かべて、そして口から血を流して、気を失っているのだった。


「舞桜くん…………!」


 なおも彼の名を呼び続ける峻佑を見て、早乙女ヒメカは嘲笑った。


〈メガネのお兄さん、無駄だよ。だってその赤髪のお兄さんには、ヒメカの呪いの刃が突き刺さったんだから〉


「……くそっ」


〈だからね、どの道助かる方法は少ないよ。このままだと呪鬼となってヒメカの下僕になるか、出血多量出そのまま死ぬか、どっちかだよ〉


 呪鬼の禍々しい微笑みを見て……三笠は、戦慄した。あんなに可愛らしい美少女の口から、出血多量だとか死ぬだとか、そんな言葉が飛び出すのは、とても滑稽だった。まるで悪夢みたいな。

 

 だけど、今三笠の目の前で起きている出来事は、すべて現実なのだった。



 

「お前さ、」


 ヒメカの高笑いを遮ったのは、峻佑の声だった。


「今……助かる方法は『少ないよ』って言ったよね」


 呪鬼は、突然彼が何を言い出したのか、分からない様子だった。峻佑は、不敵な笑みを浮かべた。


「『少ない』――つまり、一つはあるわけだ。舞桜をくんを助けられる方法が」


〈……さあ、それはどうかな?〉


 首を傾げてみせるヒメカだったが、その整った顔には明らかな焦りが浮かんでいた。それに、追い打ちをかけるように言う峻佑。


「例えば……そうだな、『陰陽療呪法』なんてどうだろう?」


 陰陽療呪法――呪いをかけられた人の体内にある、その呪い自体を祓う方法だ。峻佑がさっき霧花に使った治療法でもある。

 今の舞桜は、ヒメカの呪いで生成された刃に貫かれた状態――だったら、止血して、呪いを除去すれば問題ないはずだった。


〈療呪法……ね〉


 ヒメカの顔に余裕が戻った。


〈でも、お兄さん。仮にそれで治せるとしても、あなた一人じゃ無理だよ……?どうせ結界内でやるんでしょうけど、ヒメカはその中についていくよ?そしてお兄さんは自分の結界の中で、殺されることになるけど〉


 それでも、よろしいの?


 そう笑いかける呪鬼に、峻佑は舌打ちする。

(そうなんだよな……でも、早くしないと舞桜のほうが、本当に手遅れに……)



 ――――その時だった。




「わ、私がいます!」


 

 佐々木峻佑は、はっと顔を上げた。


 凛と鈴がなるような、清々しい声。


「私がいます、天乃三笠です!一応陰陽師です!」


 見ると、髪を肩くらいまでに伸ばした少女が、その深緑色の目を煌めかせて、静かに手を挙げていた。


 さっきまで彼女の存在に気づいていなかったが……おそらく、村雨霧花の友達――人質になっていた二人のうちの一人だ。

 

 いやいやそれより。


「天乃三笠って…………」


 少し前、それこそ桜咲舞桜からの電話で告げられた……


「君は、『除の声主』?」


「そうです」


 少女――天乃三笠は、頷いた。


「だから、あなたは舞桜くんを治してください!その間は、なんとか私が……やってみせます!」


 峻佑はその発言に驚いた。彼女に、舞桜より上手の呪鬼の相手をさせてもよいものだろうか……?

 しかし、今はそれしか手がない。


「わかった」


 峻佑は、三笠に向かって言った。


「ありがとう。はやく舞桜くんを治して戻ってくるから。だから、それまでは――――」


 頼んだよ、ミカサちゃん。



 それだけを言い残し、佐々木峻佑は再び彼自身の結界を開いて、その中へと姿を消していった――桜咲舞桜とともに。









 


 心臓が、飛び出してしまうかと思った。

 怖い、とても怖い。

 呪詛結界内に、呪鬼と二人きり――天乃三笠は、震える手先をどうにか抑えながら、ヒメカの方を向いている。


〈ふぅん……お姉さん、戦えるんだ〉


 早乙女ヒメカが、振り返った。

 彼女の赤い目が、三笠を捉える。

 思わず体が竦んだ。


〈お兄さんたちが帰ってくるまで……ってことだけどさ〉


 ヒメカは笑う。


〈いつまで持ち堪えていられるかなぁって、感じなんだけど……だって、ヒメカ、強いよ?〉


 そんなこと、言われなくたって分かっていた。ヒメカは、強い。少なくとも、前に滅したアオゲサよりは何枚も上手のようだ。


「知ってる……ヒメカちゃんは、強いよ」


 三笠は、恐怖に震えているのを隠すように言葉を紡ぐ。


「だけど舞桜くんは……大切な、仲間だから」


 あの日、アキやハルが私を呪鬼から守ってくれたように……。


「仲間のために、私はあなたと、戦う!」



 三笠は、そう叫んで続けた。




『和歌呪法・天の原 ふりさけ見れば 春日なる』




 彼女の人差し指と中指の間には、しっかりと「呪鬼滅殺」と書かれた御札が挟まれている。



『結界展開・天の原!』



 ヒメカが驚く。


〈和歌呪法……使え、る、の?〉


「使えるよ!」


 三笠の目には、打って変わって、力強い光が浮かんでいた。その輝きは、ヒメカを掴んで離さない。


「だって私も――――『陰陽師』なんだから!」

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