着地点

松ヶ崎稲草

第1話 1-1.帰国直後、免許センターへ行く

 駅前通りから歩き出すとすぐに大きな幹線道路が目の前に広がり、どう進めば良いのか分からなくなる。

 和彦は道行く人をつかまえ、免許センターへの道順を尋ねた。

 聞かれた五十代位の女性はアジア風のショルダーバッグを肩に掛けた和彦を戸惑った表情で見ながら、聞き返す。

「車で、ですか?」

「いや、歩いて」

和彦は当然のように答えを返す。

「歩いて?」

眼鏡の奥から覗いた女性の眼球が、大きく見開かれる。

 「この大通りを真っ直ぐ行ったら着きますけど…、相当、時間掛かりますよ」

 「どれぐらいですか?」

 「さあ、歩いたことなんかないから分からへんけど、一時間位かな」

 「あ、一時間で行けるんですか。ありがとうございます」

 一時間歩くことなどどうってことないかのような和彦の反応に、女性は呆然としている。

 しばらく、女性から言われた通りに歩くが、ダンプやトレーラーなどの大型車がひっきりなしに通り、風景は全く変わらない。この道で本当に良いのか少し不安になってきたところへ、六十代位の男性が自転車で通り掛かる。

 「すいません。免許センターへは、この道、真っ直ぐで良いんですか?」

 男性は一瞬黙り、驚いたように眼を丸くする。さっきの女性と同じ反応だ。

 「良いけど…。歩いて行くん?」

 「はい」

 「一時間は掛かるで」

 「一時間で行けるんですね。ありがとうございます」

 この道で合っているのなら、良かった。大型車の排気音と風圧は我慢できる。

 和彦に礼を言われた男性は、怪訝な表情で自転車に跨ったまま立ち尽くし、歩き出す和彦を見送っている。

 

 高校生の頃、原付免許を取りに来た時は、駅前からバスに乗った記憶がある。

 原付免許、自動二輪、普通免許、を取得するため、京都に住んでいる間は、バスや、あるいはバイクに乗って、何度か来た。

 十九歳の時、東京へ出て、住民票も移したから、十年以上はご無沙汰している。

 一応、長岡天神の駅前のバス停で時刻表を見たが、極端に本数が少なく、次のバスが四十分後だったために、歩き出した。運賃も、高い。バスや列車を待っていても時間通りに来ない国々を旅行して帰って来たばかりで、待っているのなら歩いてしまおう、とする癖がついてしまっている。

 歩く前提で道を尋ねただけであんなに不思議そうにされたのは、この辺りの人はみんな自家用車を持っていて車で行動しているからだ、ということは和彦にも分かっている。「歩く」という行為は、日本ではものすごく変わった行動になる。


 帰国直後、成田空港から上野へ向かうスカイライナーから車窓の風景を見た時にも感じたが、日本の国土は、かなりの面積が田んぼになっている。それ以上に山林が七割、と言われる。平地の多くは農地で市街地はごく一部に過ぎないことを、免許センターへの道を歩きながら、和彦は感じていた。

 長い距離を歩くが、その間、コンビニもレストランも、何もない。店や住宅は、一定の場所に集中している。

 ようやく、免許センターの建物が見えた。和彦は、身を引き締めた。

 パスポートと免許証がちゃんと入っているか、改めて、ラオスで買った少数民族手縫いの肩掛けバッグを覗いて確認する。

 免許は失効したが、海外に居ました、帰って来ました、と証明できれば、再発行してもらえる、と思っていた。

 長岡京の免許センターは、昔の古い建物と変わっていない感じだが、日本へ帰って来たばかりの和彦には、やたらときれいな、冷たい建物に見えた。

 自動ドアをくぐり、正面の受付で早速パスポートを提示し、免許の失効について尋ねると、受付の女性は和彦が出したパスポートは見ずに返し、免許証を手に取って見る。

失効して七カ月が経っていますね、再取得ということになりますので「うっかり失効」の窓口へどうぞ、と言われる。パスポートを提示する必要はなかったことになる。海外などへ行かなくても、ずっと家に居て、うっかり更新を忘れていた人と同じ扱いになるようだ。

 うっかり失効窓口へ行くと、申請書を書くよう言われ、収入印紙も買わされた。写真も撮った。適性試験をやり直すそうだ。視力検査もある。

 説明する係員の口調が、速く感じられる。聴き取るのも、難しい。


 一週間前に成田空港から東京・上野に着いて、旅先で会った友人宅へ泊めてもらうのに、待ち合わせ場所としてジャイアントパンダを指定されたので、どこにあるのか、交番で尋ねると、警官の返答が速く、ついていくのに必死だった。

海外へ出ても日本人旅行者はどこにでも居て、日本語を聴いたり話したりする機会は多いが、海外で聴く日本語と、日本国内にすっと留まっている日本人が喋る日本語、特に仕事で機械的に喋る人の日本語とは微妙に違っているように感じる。


 和彦は視力検査の際、指示されたことの意味がすぐに分からず、少し間を開けてから返事をする。終わった後、係官はやや不機嫌な表情で、

「眼鏡、じゃないですよね?」

と、和彦に確認する。

色盲の検査もあったが、

「何色に見えますか?」

と係員が事務的かつ早口で問うのに対して、

「えーと、青…」

と和彦の受け答えはしどろもどろだったせいか、終わった後、

「オートマ限定、じゃないですよね?」

とも言われた。

 和彦が普通免許を取った十四年前にはオートマ限定免許なんてなかったから、はい、と答えた。

 ようやく適性検査が終わり、どうにか免許の再取得が認められたようで、講習室へ行くよう指示された。

 免許を再発行してもらえ、すぐ帰れるものと思い込んで来たが、ほぼ半日を費やすこととなり、費用も掛かった。

 講習が終わり、免許センターを出て、バス停の時間を見ると、今度はすぐにバスが出るようだ。停まっていたバスの最前列に乗り込む。

 新しい免許証を見ると、取得年月日が今日の日付になっている。

 同時に渡された説明書には、失効して六カ月が経つと再取得となり、新しく免許を取った人と同じように、今日から一年間は初心運転者で、運転する時はわかばマークを付けることが義務付けられる。

 和彦は激しい疲労を感じ、バスに揺られて、長岡天神の駅に着いた。

 阪急電車で河原町まで戻り、左京区松ヶ崎の実家まで、歩く。

 免許の更新で、思った以上に現金を使ってしまった。

 帰国直後、使い残しの米ドル建てトラベラーズチェックを日本円の現金に両替した、コミッションで目減りした八万円ほどが当面の和彦の全財産だったが、すでに、東京から京都への夜行バス代とこの日の免許更新費用で、残り七万円を切っていた。


 

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