コピーするか否か

春雷

第1話

 タクシーに乗っている。退屈な仕事の帰り道。タクシーは片側三車線の道路を走っている。今は夜。立ち並ぶビルの明かりが眩しい。

 僕は頬杖をついて、窓の外の流れ行く景色を眺めながら、自分の人生について考えていた。

 この先ずっと、この仕事を続けていく気か?

 僕ははじめこの仕事が好きで好きで堪らなかったはずだ。しかし今はどうだ?

 むしろ嫌いになっている。

 好きだったものが、段々嫌いになっていく。

 大人になるにつれて、嫌いなものが増えた。耐えられないことが多くなった。

 劣化している、と思う。子どもの頃の自分はもっと賢くて、才能があって、可能性に満ち溢れていた。その気になればきっと、何かを極めることができた。

 しかし、今はどうだ。大人になった今は。

 年々馬鹿になり、愚鈍になっていく。知識の絶対量は増え、経験値もあるはずなのに、分からないことばかりが増え、何も解決できぬまま、色々なことを先延ばしにしている。何か大切な夢があったはずなのに、それすら今はどうでもいいものになって、ただ生活に追われている。金のことを考え、世間体を気にしている。人生は勝ち負けじゃないはずなのに、あいつは僕よりいい女と付き合っているとか、いい車に乗っているとか、いい大学を出ているとか、出世が早いだとか、そんなことばかりを考えている。いつからこんなことばかりを考えるようになってしまったんだ。

 明らかに劣化している。

 子どもの頃は、もっと神聖で、高尚で、美しいものについて思いを馳せていたはずだ。

 どうしてこうなってしまったんだ、僕は……。

 汚れている。

 汚れている、と思う。

 汚れていく自分が嫌いだ。

 生きることとは、すなわち、汚れること。

 汚れを知らぬ無垢な自分は……、もういない。

 それがひたすらに悲しい。

 僕はこれから、落ちてゆくばかりの人生なんだ。


「着きました」

 運転手がそう言った。僕はいつの間にか眠っていたようだ。外を見ると、全然知らない景色だった。

「え? ここ、どこですか。僕が頼んだ場所と違うみたいですけど……」

 僕がそう言うと、運転手は振り返って僕を見た。

「いいえ……。お客様はここを指定なさいました」

 僕は彼女にもう一度、向かってほしい住所を告げた。僕の住むマンションの住所である。お金は払うからどうかそこまで行ってくれ、と、僕は彼女にそう言った。

 しかし彼女は首を振って、

「その場所は、ここからそう遠くにあるわけではございません。ご自身の足で、向かわれては如何でしょうか」

「近いのなら猶更、僕の家の前まで行ってくれよ」

 何度もお願いしたのだが、彼女は頑として聞き入れない。何と強情なタクシー運転手だ。僕も腹立たしくなって、もういいよ歩いていくから、と言って、金を払ってタクシーを降りた。

 冬の夜である。かなり冷える。僕はコートの襟を立てた。

 タクシーが走り去っていく。

 閑静な住宅街だ。平凡な住宅街。どこの街にもある、判を押したような平均的量産型住宅街だ。

 僕は、自分が今どこにいるかを確認するため、スマートフォンを取り出した。地図アプリを開く。確かに運転手の言う通り、ここから僕の家まではそう遠くない。かと言って、近いわけでもない。ここから歩いて二十分ほどの距離だ。まあいい。家に帰っても特にすることがあるわけではない。……考えてみれば、何を急いでいたのだろうか。たった二十分歩くだけ。その時間をどうして短縮しようとしたのか。時間を買う金はある。しかし余った時間で一体何をするというのだ。

 時間……。

 そうだ、僕はいつも時間に追われている。誰かといつも競争している。あいつよりも凄い人間になる。偉い人間になる。そのために、あいつよりも少しでも多くの知識を。あいつよりも少しでも多くの教養を。

 しかしそんなことが一体何になると言うのだろう。そんなことを続けて、残ったものは何だ? 

 最近、発見したことがある。

 空っぽの自分だ。


 僕は歩き出した。平凡な住宅街を。ゆっくりとした歩調で。

 タクシーの中とは異なり、流れる景色は緩慢だ。僕はその景色を子細に眺めてみる。どの家にも明かりが灯っており、耳を澄ませば家族の団らんやテレビの音なんかが聞こえる。みな生きているのだ。この平凡な住宅街は、確かに平凡かもしれないが、しかし、唯一無二の人々によって構成されているのだ。たとえば僕。僕は世界にとって取るに足らない、平凡な量産型の人間だが、僕にとってはかけがえのない絶対的な存在だ。

 風がびゅうびゅう吹いている。僕は身を縮こませる。

 生きている、と思う。寒いと感じること、それは生きている証拠なのだと。

 こうしてゆっくり歩くのは久しぶりだ。いつも急いでいるから。腕時計をちらちら見ながら、時間に遅れないようにせかせか歩いている。そんな自分を客観的に見ることができた。

 時間をしっかり守って、毎日働いて。

 それは誇るべきことだ。

 しかし……、自分をないがしろにしすぎたのかもしれない。

 すり減ってしまった。

 少し……、疲れているのだと思う。


 公園を通り過ぎようとした時、誰かに呼び止められた。

「よっ!」

 と言って、彼女は僕の前に飛び出してきた。

「うん?」

 それは、十歳くらいの少女だった。赤いワンピースを着た、長い黒髪の少女である。顔立ちは非常に整っていて、綺麗すぎるくらいだった。

 それにしても、こんな夜に一人……?

「危ないよ、こんな時間に」と僕は言う。

「大丈夫。だって私、神様だもん」

「はい?」

 神様? きっと、子どもの冗談だろう。

「神様がこんな時間に出歩くのは危ないよ。家はどこ?」

「いやいや、話聞いてないじゃん。私、神様だよ? だから家なんてないの」

「神様って家がないものなのか?」

「ないのは必要じゃないからだよ」

「神様にだって帰る家は必要だと思うけれど」

「本物の神様には不要なの」

「本物の神様……」

 それって一体何だ? 逆に偽物の神様っているのか?

「本物の神様は本物の神様よ。私はこの世界に起きていることを大体把握しているの」

「そんなことを言われたって……」

 と僕が言うと、彼女はすっと腕を上げ、人差し指をぴんと伸ばした。すらりとした華奢な腕だった。

「彼」と彼女は言う。

 指さした先を見ると、黒ずくめの男が必死に走っていた。こっちに向かって走って来る。

「彼は空き巣狙いよ」

「そんな決めつけはよくないよ」と僕は彼女を窘める。「いくら格好が黒ずくめだとは言え……」

「彼は空き巣に入ったはいいけど、部屋に飾られている写真に写っている男が、あまりにも自分と似すぎていて、気持ちが悪くなって、結局何も盗らずに空き家を出たってわけなのよ」

「ええ?」

 即興でそれだけの物語を作ったのなら恐れ入る。しかしそんな話が本当にあるか?

「そして彼は今から遭遇する。自分とそっくりな男に」

 彼女の妙な断言口調には圧倒させられる。彼を見ると、左折し、僕らの前を横切った。僕は彼の顔を確認し、走り去るその背中を眼で追った。彼の向かう先。確かに男がいた。空き巣(仮)とほとんど同じ身長で、スーツ姿だった。

 空き巣(仮)は向かう先にいる男を見て、立ち止まった。そして言った。「な、何で……。どうして‼」

 表情は確認できなかったが、おそらく眼は見開いていたことだろう。驚きが声の震えに出ていた。いや、それは恐怖だったのかもしれない。

 よく見ると、暗くて細かく見ることはできないが、空き巣(仮)とその男は、似ているように思える。兄弟―いや、双子レベルで似ている。

「いわゆるドッペルゲンガー」と神様(仮)は言った。

「見た者は死ぬとかいうあれかい?」

 彼女はこくりと頷いた。

 空き巣(仮)は慌てて逃げ出した。今来た方向を戻っていった。必死に逃げている。不格好な走り方で、彼は夜の住宅街に消えていった。

 残されたドッペルゲンガー(仮)は不思議そうに首を傾げると、歩き出した。本当に彼はドッペルゲンガーなのだろうか。ただ顔が似ているだけじゃないのか。

 しかし、と僕は思う。たとえ仮にドッペルゲンガー云々が嘘だとしても、彼女は空き巣(仮)が自分のそっくりさんに遭遇するということを言い当てたのだ。高名な占い師や予言者という可能性もある。

 いや。僕は冷静になる。ドッキリという可能性も捨てられない。どこかにカメラが隠してあって、この不可思議な事態に慌てふためく僕の姿を撮ろうとしているんじゃないか。

「それはない。最近の若者は疑り深くて困る」彼女は僕の心を読んだのか、残念そうに首を振る。首を振るたび長い髪が左右に揺れた。

 お前に若者呼ばわりされたくねえよ、という突込みよりも先に、僕は若者というにはいささか年を取り過ぎているように思うが、という考えが浮かんだ。まあそれは僕の自己認識の問題だ。客観的に見れば、僕は十分若者の内に入るのかもしれない。僕は幼少期から自分は年寄りだという考えで生きてきたから、もっと若い時から若者であるという実感が希薄だったのだ。

「お前の疑り深さには感心するが、少しは人を信用しろ」彼女は僕をじろりと睨む。

「いや、君、神様なんじゃないの?」

「揚げ足を取るな。そういうことを言いたいんじゃない。まあいい。お前の頑迷さには、この際眼を瞑ろう」

 まさか少女にそんな台詞を言われるとは。人生って本当に分からないものだなと思う。

「これを」

 そう言って彼女が取り出したのは(どこから取り出したのだろう?)、青い石だった。掌に載るサイズの石。これが宝石なら、大きい部類に入りそうだ。宝石について詳しくないから何とも言えないが。

 僕は恐る恐る少女からその石を受け取る。

「何なの、これ」

「これは卵。ドッペルゲンガーの卵だ」

「ドッペルゲンガーって卵から生まれるの?」

「それを抱いて眠れ。一か月もすれば、その卵は孵る」

「孵るって……。僕のそっくりさんが生まれるってこと?」

「そうだ」少女は僕を見て、「それが貴様の望みだろうが」

「僕の望み?」

「競争社会に塗れて何とかかんとか……。そんなようなことを言っていただろう。汚れていく自分が嫌だとか、何か、そんな風なことを。だったら、生まれ変わって一からやり直せばいいだろう。自分の人生を、な。今までの人生とか仕事とかはそのドッペルちゃんに任せればいいんだ。お前はお前でその間、好きなことをやればいい。金はドッペルに任せろ。あいつは飲まず食わずで働ける。いわばお前専用の奴隷だ」

「奴隷って……。もっと言い方どうにかならないの? それに、自分そっくりの奴隷ってのは、ちょっとぞっとするんだけれど」

「人間みな何かの奴隷だろ」

「いや……」

「とにかくその卵を温めろ。ごちゃごちゃ言うな」

 そう言って、彼女は僕の前から消えた。


 それから僕はマンションに帰り、一晩中考えた。自分をもう一人作る。そしてそいつに面倒事は押し付ける。僕はやりたいことだけやる。うーん……。それって本当に正しい生き方なのだろうか、何だか自分がダメ人間になってしまいそうな気がする。それでいいのだろうか。うーむ。

 部屋の中でその卵を見ると、中に影が見える。これから僕になるであろう胚が、その中に入っているのか。

 僕は色々と考えた末、ドッペルゲンガーを作るのはやめることにした。面倒が増えるだけだと言う気がする。そもそも、そんなことはしなくとも、今からだって新しい人生を歩むことはできるのだ。何かを始めるということに、遅い早い……はあるかもしれないけれど、遅すぎると言うことはきっとないだろう。容易なことではないが、会社を辞め、新しい仕事を始めてみるのもいいかもしれない。

 僕はその卵を一か月、部屋の隅に放置しておいた。


 二か月後。僕は会社を辞め、知り合いの農家の仕事を手伝っていた。これまでデスクワークや人間関係のあれこれに疲れ果てていたから、こうして畑で一生懸命何かを作ると言うのは、なかなか新鮮な体験だ。作物が育っていく様子を見ているのは、純粋に嬉しい。

 そういえば、僕の住んでいたマンションが突然二倍の高さになったというニュースを耳にした。一夜にしてマンションが建て増しされたのだという。あれは物体をコピーするという代物だったのだな。

 コピーに頼らずとも、新しい何かを始めることはできる。容易ではないかもしれないけれど、まあそれも一興。汚れたのなら、その汚れを落とせばいいのだと思う。たとえ、過去の自分の劣化コピーみたいな人生を送るにしても、それはそれで。


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コピーするか否か 春雷 @syunrai3333

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