幼い少女と都市伝説

四葉みつ

幼い少女と都市伝説・1

 雲間からこぼれる月明かりの下、私——探偵・日向寺ひゅうがじたつきは行くあてもなくふらふらと歩いていた。

 ちなみに夢遊病ではない。

 顔つきは少しうつろだがいたって健康。単に深夜まで続く書類作成の作業に疲弊しきっているだけだ。年度末は本当に手続きが多くて嫌になる。

 というわけで、気分転換に散歩に繰り出したのだ。

 春近いとはいえ深夜はまだ肌寒い。頭も身体もすっきり冷えたのでそろそろ事務所に戻ろうかと公園の横をさしかかったときだった。

 視界の端に人影が見えた。ベンチに誰かがいる。カップルがいるのかと思ったが、どうも様子が違うようだ。

 私は確認しようと公園に足を踏み入れる。

 するとベンチに女の子がひとり座っているのが見えた。

 小学1、2年生くらいだろうか。1冊の本をぎゅっと抱きしめたままじっと地面を見ている。

(これは……声を掛けたら逆に犯罪者にならないか……?)

 こんな真夜中に幼い子供が公園でひとりなのも物騒な話だが、そこに声を掛ける中年男性はどこから見ても不審者だ。

 しかし周囲に大人もいないようだから、これは保護の必要がある。

 私はひとつ頷くと、その少女に近寄った。

「どうしたのかな、お嬢さん」

 目の高さを合わせるように腰をかがめると、彼女の目は丸くなった。それからどことなく安堵したような表情を見せる。

「おとなのひとだ」

「キミひとり? お父さんかお母さんは?」

「たぶんおうち」

「お家はどこかな?」

「そこだよ」

 少女は公園のすぐ真横にあるマンションを指さした。かなり年季の入った建物だ。まだ起きている者も多いのだろう、カーテンの隙間から灯りが漏れている部屋がいくつもある。

 ひとまず迷子ではないようだ。

 しかし自宅の目の前とはいえ、深夜0時に近いこんな真夜中に、小学生がひとりで公園にいるのは流石に危ない。ご両親はなにも思わないのか。

 私は彼女の隣りに腰掛けると質問した。

「お家の中には入らないの?」

「おうちこわい」

「怖い?」

 家の中の方が「怖い」とは酒乱が暴れているのか、家庭内DVの可能性もある。室内よりは暗い公園の方が命の危険性がないということなのだろう。

 これは通報すべきだろうか。今のところ見えるところにアザは見受けられないが、児童虐待の疑いがある場合は通報の義務がある。

「お父さんかお母さんが怖いってことか?」

 念のために確認すると、少女はふるふると首を横に振った。

 それから彼女はぽつりと呟くように言う。

「おうちのまえで見たの」

「何を?」

「くちさけおんな」

 私は目を点にした。

 昔からよく耳にする都市伝説だがまだ存在していたとは。

 話を聞いてみると、部屋の前に女が立っていたらしい。ものすごい形相で家のドアを激しく叩いていた。それを見た彼女は、恐ろしくなってマンションから逃げてきたとのことだった。

 口け女だと思ったのは、ロングコートをまとって大きなマスクをしていたからだそうだ。

 ふと少女の手元の本を見れば『都市伝説』と書かれている。

 なるほど都市伝説で聞く通りの格好だが、このご時世、マスクなんて誰でも付けている。読んでいた本の内容とも相まって、きっと何かを見間違えたのだ。

 私はすぐに提案する。

「帰るなら俺も一緒に行ってやろうか」

「本当⁈」

「どこに向かえばいいかな?」

「あっち!」

 少女に案内されて私たちは公園横に建つマンションの玄関ホールに足を踏み入れた。オートロックなどという気の利いたものは付いていない。1階部分はこの玄関ホールと管理人室、集会所、自転車置き場になっていて居住空間はないようだ。

 昭和のかおりがするタイル張りの壁を眺めながら、私たちはエレベーターの到着を待った。

 降りてきたそれもまた年季が入っていた。鉄製の扉は開くときにガコガコと音がするし、階層の数字が表示された四角いプラスチックのボタンは薄汚れて文字が見えづらいものさえある。

 一番下の段は1、2、ひとつ上の段は3、4、……と縦2列で12階層までボタンが並んでいる。少女はつま先立ちで『5』のボタンに一生懸命手を伸ばしていた。

 今にも壊れそうな音を立てながらエレベーターの箱が上がる。

 到着した5階の廊下はしんと静まりかえっていた。まずは私が先に出て、不審な人物がいないか左右を確認する。

「大丈夫みたいだよ」

「本当? よかったあ」

 彼女は心底胸をなでおろしたようだ。念のため、部屋の前まで送っていく。親御さんに一言伝えた方がいいだろう。

 それに虐待の線は消えていない。なにせ、こんな真夜中なのに探しにも出てこないのだ。

 インターホンを押すと、すぐに母親が顔を出した。少女は「あっ」と声を上げた。

 彼女には心配していた様子はなく、幼い我が子を見るなり叱責した。

「なんで帰ってきたの⁈ 今日はおばあちゃんのところに行くって言ったじゃない!」

 おばあちゃんのところ?

 公園で彼女と話したとき、そんな話は少しも出なかった。帰ろうと言って案内してくれたのもこの自宅の方だ。

「ごめんなさい……、番号いっしょだからまちがえちゃった……」

 少女はすっかり萎縮した様子でうなだれている。私は慌てて親子の間に割って入った。

「彼女はさっきまで隣りの公園にいたようだが、おばあさんのところに連れてった方がよかったか?」

「いえ、大丈夫です。あとでまた行かせますので」

 怒り気味の母親に尋ねると即座に断られた。我が子を自分の手元にぐいと引き寄せる。少女は怒られているからか、母親と目を合わせない。

 不審者と思われているのかもしれない。ここはさっさと退散した方がよさそうだ。

 その前に私はひとつだけ質問した。

「ところで、ちょっと前にドアを激しく叩く音を聞かなかったか?」

「ドア? そんな音しませんでしたけど」

 母親は眉をひそめながら答えると、すぐさま扉を閉めた。

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