ある惨劇/月と母と俺(KAC20234参加作品)
小椋夏己
ある惨劇
「きゃあ!!!!!」
男が持っていたナイフを思いっきり女の腹部に突き刺し、女は絶命した。
「はあ、はあ、はあ……」
男は血まみれのナイフを手に、肩で息をする。
時刻は深夜、場所は廃ビルの一階にある元事務所。
割られた窓、散乱するガラス、書き殴られた落書き。いかにも惨劇の現場にふさわしい場所だ。
「始末しなくちゃな……」
男はぼそっとそう言うと、女の死体を持ってきたブルーシートに包もうとした、その時、
ガサッ
後ろで誰かが動く気配がし、男が動きを止める。
誰かに見られたのだとしたらそいつも……
男は物音に気がつかなかった振りをしながら、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「にゃあ」
「なんだ猫か、驚かせるな!」
「みゃっ!」
男は怒りながら女を刺殺したナイフ、もしも誰かに見られていたら、その人間にも突き立てようと準備していたナイフを猫に向かって投げつけた。
猫は驚いたものの、飛び上がってナイフをよけると、あっという間に割れた窓から飛び出して行った。
「うわっ!!」
キキキキキー!
男はふいに飛び出してきた猫に驚いて急ブレーキを踏み、その結果、
どん!
後ろの車に追突される形となった。
「いってぇ……」
「何してんだよおまえ!」
「いや、いきなり猫が飛び出してきて」
「猫なんてほっとけよ!」
「そんなこと言われても!」
運転していた若い男と、助手席の友人が揉めていると、
「おい、降りろ」
後ろの車から降りてきたらしい中年男が、運転席の窓の外から声をかける。
声をかけてきた男を見て、中の2人は震え上がった。
見るからに「その筋の人」だったからだ。
「降りてこい」
その男はもう一度、静かに、だが絶対に逆らえない迫力でそう言う。
「は、はい」
「おります」
2人は車から降り、後ろの車を見てもう一度震え上がる。
それは、夜目にも分かるいかにも高級車という黒塗りの外車だった。
「こっち来い」
2人は大人しく言われるままに後ろの車の方に移動した。
「連れてきました」
中年の男が高級車の後ろの窓に声をかける。
すうっと音もなく窓が下がり、ゆったりと後ろの席に座った、ピシッとしたこれもおそらく高級であろうとスーツに身を包んだ、さっきの男よりはいくらか若い男が座っていた。
男は窓の方に顔を寄せると、
「ぶつかっちゃったね、どうしてたの?」
と、柔らかい笑顔で質問する。
まだ怒鳴られた方がましだと運転していた若い男は思った。怖くて声が出ない。助手席の友人も同じようだった。
「おい、返事しねえか!」
さっきの男が黙って震えてる2人にそう言う。
「あ、は、はい、ね、猫が、飛び出してきて、それで、思わず」
「猫?」
「あ、あの、そこのビルの方から」
「ほう」
運転していた若い男が指さした先には、さっき惨劇が繰り広げられた一室のある廃ビルがあった。
「猫がね」
「はい」
「それは避けてやらないとなあ」
運転をしていた若い男が頭を下げ、
「すみませんでした! すぐに事故の通報します! できるだけのことはしますから許してください!」
必死でそう言う。
「事故の通報って警察に?」
「それと保険会社に」
「いやあ、それはちょっと困るなあ」
後部座席の男が笑いながらそう言う。
「警察に来てもらうのはちょっと勘弁してほしいかな。なかったことにしてくれる?」
「はい?」
運転していた男が意味が分からずそう言う。
「うちの車はどうってことないけど、そっち、かなりへこんじゃってるよね」
「あ、はい」
言われて初めてその事実に気がつく。若い男の車はバンパー部がべっこりへこんでしまっている。
「修理、いるよね」
「あ、あの、そのためにも保険会社に連絡を」
「そのためには警察、いるよね?」
「あ、はい」
「それ、やめてもらっていいかな?」
「え?」
後部座席の男は隣に座っている誰かに声をかけて何かを取り出し、
「こんだけあれば足りるでしょ、これでなかったことにしてくれる?」
と、帯を巻いた札束を若い男の手に押し付けた。
「えっ!」
「ちょっとね、警察に見てもらいたくないもの積んでるんでね、それでなかったことにして」
「あ、あの」
「その代わり、もしも話したこと分かったら、分かるよね? 車のナンバーも控えてるから」
若い男はさーっと血の気が引いた。
「修理屋には連絡しとくから、今からそこで修理してなかったことにして。分かった?」
「はい」
そうして言われるままに指示された修理屋に行くことになった。
黒い車は闇のどこかに消えていった。
「にゃあ」
その部屋の持ち主は猫の鳴き声で目を覚ました。
「ん、おかえり」
そう言って窓を開けてやると、彼の愛猫がしなやかな足取りで部屋に入ってくる。
「この寒いのに散歩か見回りか分かんないけど、毎晩毎晩、勤勉だよな、おまえ」
猫はゴロゴロ喉を鳴らして男に体をすりつける。
「それで、見回りの結果はどうだったんだ? 何か変わったことはあったのか?」
「にゃあ」
「そうかそうか、何もなかったか」
彼は猫を抱き上げて布団の中に入れると、
「すべて世はこともなし、さ、もう一度おまえも一緒に寝ようか」
あくびをし、猫を抱えて眠ってしまった。猫も彼の腕の中で何もなかったように眠りにつく。
見えないことはなかったこと。
深夜の散歩で起きた出来事を、彼が知ることは永遠にない。
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