私と書いて、僕と読む
茶茶
第1話 彼の肌に頬をうずめる
「起きちゃった?」
彼は誰時。
落ち着いていて、繊細で、心地良い重低音の声がすぐそばで寝ている私の耳をくすぐる。
彼の声は、冬の夜空を見ているみたいだ。バケツをひっくり返したような星々。どこまでも連れて行ってくれそうな三日月。木々が擦れ合い、ささやくような甘いざわめき。月明かりでルクリアが輝いている。そんな夜を砕いて丁寧に瓶に詰め、私に渡してくれる。
「うん、起きた」
けだるげな起き抜けの姿。猫っ毛でボサボサの髪の毛に、だるだるのスウェット。眠たそうな目をこすりながら、あくびをしている。彼をまとう雰囲気が、今、一番この世で愛おしい。
「コーヒー飲むでしょ?」そう言って、するりと猫のようにシーツから抜け出し、ケトルに湯を沸かし始めた。
上半身だけ裸の彼の背中に視線をはわせる。首、肩甲骨、そして腰から背中にかけての曲線がきれいで、見惚れてしまう。男にしては細いんだけど、でもやっぱり私よりゴツゴツして、違う染色体を持った生物なんだなと感じる。
カチッと気持ちの良い、お湯が沸いた乾いた音が響く。
私は近くに落ちていた大きいシャツを着、彼の元へ歩いて行った。それから、インスタントの粉を二つのマグカップに入れ、お湯を注いでいる背中に飛びついた。
「うわっ、危ないよ。お湯こぼれるってば」
驚いている声音は、びっくりしているんだけど、やっぱりどこか安定していて、時々、心から不安定で、余裕のない声も聞いてみたいと思ってしまう。
「びっくりした?」
顔を、さっきまで見つめていた背中にうずめた。
「うん、びっくりした」
「でしょ」
木のスプーンでくるくると真っ黒な液体をかき回し、「はい、コーヒー出来たよ」と抱きついている私に差し出した。
「ありがと」
熱々の液体を私の胃の中に沈める。苦くて、インクを溶かしたような色の飲み物を、好んで飲み始めたのはいったい誰なのだろうか。
「あのパキラ、ちょっと元気ないね」
彼がベッドの横を指さして言った。彼が指さした先を見ると、確かに少しだけ水分が抜け、葉っぱが垂れ気味のパキラがいた。
「そうだね」
「日光が足りてないのかな」
そう言いながら彼はベッドのそばまで歩いて行き、カーテンを開けた。
遠くで鳥が鳴いている。
あけてゆく朝、と、繰り返す日々にちょっとうんざりする。
「今日、一限からだっけ?」
彼はパキラの葉っぱをひっくり返して、観察しながら問うた。音が壁に反射してくぐもっている。
「うん、私もう出る」
飲みきったカップを流しにおき、身支度を始めた。鏡の前に座り、鏡に映った人間に微笑みかける。そして、心の中で鏡越しに声をかける。
今日も生きていますね。生きているだけで偉いです。でも、つらかったら逃げてくださいね。自分本位で生きてください。
ゴムで髪の毛が邪魔にならないように縛って、いつも通りの化粧を始める。
そんなにたくさんの行程はない。
薄く、日焼け止め入りのファンデーションを塗り、眉毛を整え、柔らかなピンクのアイシャドウをつけて、桜色のリップを塗ったら完成。
髪の毛をアイロンでまっすぐに整え、先っぽだけ内側にカール。うまく出来たときは、気分がいい。
クローゼットを開けて、今日のコーデを決める。
オーバーサイズのベージュのニットに普通のジーパン。赤のマフラーを巻いて、教材が入ったバックを手に取る。腕時計をはめて、時間を確認する。
もう時間だ。
「行ってきます」
彼にそう告げ、外へつなぐ扉を開いた。
心地良い「行ってらっしゃい」の声が私の背中を押し出す。
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