第4話 YouTudoしか知らない世界

 ブッコローは上下も判らない浮遊感の中にいた。うつろな感覚に一つの光景が輪郭りんかくを取り始める。

 それは六畳間だった。開け放した押し入れから本が雪崩なだれを打つ前で、中年の男が紙箱を次々と開け、中から本を取り出している。


「ない! ないんだ、『夏への扉』がない! 何処どこへ行ってしまったんだぁ! あぁ、俺のピートに会えない。ピートォォォ、今、無性むしょうに君に会いたい!」


 一瞬の無があった。今度はワンルームのキッチンで女の手からマグカップが滑り落ち、くだける。


「うっそ、ラッキー! 本が入る!」


 女は割れ物の片付けもそこそこに、散らかっていた本を数冊、手に取ると嬉々ききとしてシンク上の吊り棚にそれを立て始めた。しかし、次の刹那せつな、場面が変わり、髪型の変わった女はさけんでいる。


「もう駄目! お風呂とベッドしかスペースがない。どっちを本の収納にしたら良いの!?」


 あり過ぎる本の中、途方とほうに暮れていた女はやがて四十五リットルのポリ袋を開くと、そこにハードカバーを入れ始めた。本のまった袋を彼女が持ち上げようとした途端、底が抜ける。女は絶望的な表情を浮かべた。

 そして、季節は巡る。ポリ袋に小分けされた本で埋まるバスタプへ女はやって来た。彼女は慣れた様子で一袋ずつ、それを抱え上げるとベッドの上に運び出す。十五往復もしただろう。最後に敷かれていたレジャーシートが除かれ、給湯器のスイッチは押された。バスタブが本来の機能を取り戻す。

 女は服を脱ぐと、タオルと『所有せざる人々』を手に湯につかった。下がり行く湯温と戦いながら彼女はページをめくり続ける。


 また別の光景だ。ブックシェルフは縦横と隙間なく本が詰め込まれ、そこからあふれ出た書籍で床にはバベル混乱の塔が幾つも築かれている。その隙間を脚が通り抜けようとした瞬間、タワーは崩れ、それが隣り、また隣りへと連鎖した。


「あぁぁぁ! 本が、本が僕の居場所を奪って行く!」

「いい加減、それ、売って。全然、家が片付かないじゃない」

「そんなこと、できないよ!」

「半分も読んでないでしょ! 無駄遣いして場所取って意味判んない!」

「そうだ、ほら! 三十年後には紙の本には骨董的価値が付くんだよ! そしたら僕らは大金持ちだ!」


 夫が不自然に高笑いしながら本の山へ覆い被さるのに妻は冷たい視線を注いでいる。

 更に風景は変わった。二つのなべで湯をかす女がいる。彼女は片方に三温糖さんおんとうを入れ、岩塩を削り、はし丁寧ていねいに混ぜた。それから彼女はもう一つに寒天かんてんを投入する。


「朝はゼラチンだったから、今日はタンパク質も食物繊維も取れてバランス良いよね。後少し、後少しで買える! 待ってて、上代語辞典!」


 女は寒天の鍋に塩と砂糖を溶かした湯を加え、軽く煮込むと中身を茶碗と深皿に移す。そして、彼女は冷蔵庫から似たような器を取り出した。色のない半透明なゼリーがスプーンですくわれ、口へと運ばれる。


 持っていることを忘れ、再び買ってしまった本の買い手を探しながらなげく男。文庫本で五巻まで買った小説が翻訳者を替えて改訂版が出る、と知り、うずくまる女。

 物に、本にとらわれた人々の姿が浮かんでは消えた。

 それを認知しながらブッコローはこれがYouTudoのかつて見た世界なのだ、と確信する。これが幸福か不幸か。YouTudoは後者と判断したのだろう。それをブッコローに伝えようとしているに違いない。ブッコローの鋭い感性はYouTudoの無言の訴えを聞き取った。


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