食事
傘立て
会計を済ませた客が、外に出ようと引き戸に手をかけた瞬間に、溶けた。頭からぐずぐずに崩れ、あっという間に人の形を失って床に溶け落ちる。服も靴も混ざり合って、床に大きな泥溜まりができた。よく見ると、目玉や指や、骨の一部や、内臓か何かの端が、浮いて、蠢いている。蠢いたものが渦を巻く。それはいいが、なぜ目玉らしきものが三つも見えているのだろう。
店の外で日向ぼっこをしていた店主が、中の様子に気づいて、器用に戸を開けて入ってきた。「店主」という名前のついた、でかい黒猫である。たしかに名前のとおり、この今にも崩れ落ちそうな古本屋の中で、巨大な黒猫は主らしい妙に立派な存在感を放っていた。
店主は開けた戸をこれまた器用に尻尾で閉め、床のどろどろのものに鼻を寄せる。二、三度鼻先でつついて匂いを確かめると、そのまま猛然と食べ始めた。正直、ちょっとひいた。水気の多いものを舐めとる音に混じって、時折り硬いものを噛み砕く音も聞こえる。大きな頭が、咀嚼に合わせて上下に動いた。猫としては巨大とはいえ人間よりはるかに小さい生き物の体に、人ひとりの身体分の泥と、それに浮く何かが、どんどん入っていく。
「せ、瀬尾くん、店主が変なもの食べてるんだけど……」
カウンターの奥に向かって作業をしていた店番の青年に慌てて声をかけた。何かのリストと革張りの分厚い本を数冊手にした瀬尾は、振り向きながら長い髪ごと首を傾げ、小さくなった泥溜まりの上で舌と顎を動かす猫をちらりと見て、
「ああ、猫ってたまに何もないところで何か食べてるよねえ。なんだろうね、あれ。店主は変なものを食べて吐いたりしたことはないから、たぶん大丈夫だよ」
とだけ言って、奥に引っ込んでしまった。あの気持ちの悪いどろどろした残骸は見えていないらしい。何も分からない僕だけが残された。
店主と呼ばれた猫は、瞬く間に自分の数倍もありそうな大量の何かを食べ終え、今は静かに床を舐めている。根本から分かれた長い二本の尻尾が、満足げにゆったり揺れた。呆気に取られたままじっと見ていると、おもむろに顔を上げてこちらに向け、「ぐちゃぐちゃだよ」と低い声で言った。
「……は?」
「ぐちゃぐちゃ」
そう言いながら立ち上がり、前脚と後脚を順番に伸ばす。伸びの動きひとつとっても、謎の風格がある。前世はどこかの貴族だったのかもしれない。
「何が?」
「いま俺が食ったやつ」
「ああ、そういう名前……」
「名前かどうかは知らないよ。俺がそう呼んでるだけ。ぐちゃぐちゃだろ」
「ぐちゃぐちゃだったねえ」
「たまに人間のふりをして入ってくるんだよ。入れはするけど、出ることはできないから、こうやって片付ける」
猫は長い二本の尻尾を別々にゆらゆら揺らしながら近寄ってくる。足音がしない。
「食べられるの?」
「食えるよ」
「おいしい?」
「まずい。カリカリのほうがまし。まあ、あれも別にうまくねえけど」
「まずいのに食べるんだ」
「片付けないと、溜まるからな」
今度お前も食べてみる? と金色の瞳に尋ねられ、慌てて首を振って、丁重に辞退した。
食事 傘立て @kasawotatemasu
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