旅立ち
第110話 旅立ち ~麻乃 1~
麻乃は砦に入り、隠し置いた紅華炎を手にした。
鬼灯の鞘も、腰から外した夜光の鞘と一緒に束ねて紐でしっかりと括った。
馬の背に積み、麻乃は今度は銀杏の枝に登り、海岸を眺めみた。
大陸から戻ってきたときと同じ、夕焼けの景色だ。
あのときは、懐かしさと拒絶される切なさを感じていたけれど、今はこれが見納めになる悲しさを感じていた。
何度となく登ったこの木も、もう触れることはない。
「やっぱりここに来たか」
上から声が降ってきて、見あげると修治の姿だ。
驚きはしなかった。
なんとなく、ここで修治に会うような気がしていた。
「バレてた?」
「まあな」
ガサリと葉の揺れる音とともに、修治は麻乃の隣に立った。
二人で夕焼けを眺めるのも久しぶりで、そしてこれが最後だ。
「……大陸へ……ジャセンベルへ行くそうじゃあないか」
「レイファーから聞いた?」
「ああ」
止めるつもりでここへ来たんだろうか?
そんなふうには見えないけれど……。
仮に止められたとしても、今さら麻乃の気持ちに変わりはない。
「レイファーは、おまえを妻にするつもりでいるようだな」
修治は少し意地悪な目つきで笑いながら麻乃をみた。
さっきのレイファーとのやり取りを思い出して、麻乃は苦笑いをした。
「そんなの、断ったに決まってるでしょ。まったく馬鹿なことを言うよね。それが大陸へ迎え入れる条件だなんていうんだよ」
修治は今度は声をあげて笑った。
「笑いごとじゃあないよ。こっちは真剣に話してたってのにさ」
「レイファーのほうも真剣みたいじゃあないか。俺に宣言をしに来たくらいだからな」
「宣言って……そんな気ないのに。困ったやつだよ」
「住む場所はもう決まっているのか?」
「うん。レイファーが世話をしてくれる。お父さんとお母さんに手紙を書くよ。高田先生にも……」
「そうか。だったら安心できるな。それで心配がまったくなくなるわけじゃあないが」
修治は今までと同じように、麻乃の頭を撫でた。
ひどく懐かしい感触だ。
「これから先、大陸との関わりかたも変わっていくだろう。今までのように行かれない場所じゃあなくなる」
「……そうだね」
「どこへ行こうと、いつでも会いに行ける。無事に子どもが生まれたら、多香子も連れて会いに行く」
「そんなの駄目だよ……戦争が終わったからって、安全なわけじゃあないんだし……多香子姉さんや子どもを危ない目に合わせたら大変じゃない」
「俺がついているんだから心配はいらないさ」
ホロリと涙がこぼれた。
鼻をすすった麻乃に、修治がハンカチを差し出してくれて、それで目もとを拭う。
「もう戻らないつもりか?」
「うん……」
「それがおまえのけじめか?」
今度はとめどなく涙がこぼれる。
後悔に苛まれ、どうしようもない。
もっと早くに麻乃が覚醒を選んでいたら、こんなことは起きなかったんじゃあないかと、そんな考えが何度も浮かんだ。
「違う……そうじゃあない。マドルを倒したのも、最後はレイファーであたしじゃあない。あたしはなんの落とし前もけじめもつけることができなかった……ただ逃げるだけなんだよ。こんなことを仕出かしておきながら、なんの責任も取らずに、大陸に逃げるだけなんだ。ごめんね、修治。こんなに情けないあたしで……あんなに傷つけてしまったことも、本当にごめん……」
ただ泣くしかできない麻乃の肩に、修治は手を回して抱き寄せてくれた。
こんなときでも、修治のぬくもりはやっぱり麻乃に安心感をくれる。
ずっと一緒に育ってきてよかったと、兄であるのが修治でよかったと、心からそう思う。
「鴇汰のことはどうするつもりだ?」
「鴇汰は……あたしがいなくても困ったりしないよ。ほかにいい人はたくさんいるんだもん。幸せになってくれれば、それでいい」
「そうか……」
今日も目を覚まさないままの鴇汰と、このまま離れるのは寂しい。
けれど、目を覚まして顔を合わせてしまったら、今度は離れがたくなるに決まっている。
このままでいい。
いずれ鴇汰も、麻乃を忘れるだろう。
この気持ちを覚えているのは麻乃だけでいい。
日が落ちた空は、水平線にわずかにオレンジ色を残しているだけで、濃い青にそまっていた。
修治はもう一度、麻乃の頭を撫でると立ちあがった。
「朝には出航だろう? もう行け。小坂たち七番には、俺がちゃんと話しをしておく」
「うん……ありがとう。修治、元気でね。体だけは大事にしてね」
銀杏を飛び降り、小走りで馬にまたがると、涙を拭って修治のハンカチをポケットにしまい、振り返ることなくその場を離れた。
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