第149話 不可思議 ~鴇汰 3~

 甘い匂いが鼻の奥に広がった。

 手もとに差し出された花束を受け取り、こんもりと盛り上がった土の上にそれを置く。


 切ない思いが胸の奥を締め付けてくる。

 それと同時に恋しくてどうしようもないほどの胸の痛みを感じた。

 二つの感情に押し潰されそうになったとき、フッと一つが途絶えた。


「……ちゃんと、旅立つことができたんだろうか?」


 聞き覚えのある声が、鴇汰の耳に届いた。


「大丈夫ですよ……この国では手厚く葬られるのは一部だけです。このかたは……異国のかたでありながら、こうまでしていただいているのですから」


 知らない声がそう言った。

 その声のほうを振り返ると、見知らぬ女性が立っている。

 真っすぐにこちらを見ているその淡い茶色の瞳に、自分の姿が映り込んでいた。

 目を凝らしてその瞳の中を見つめた。

 そこに映っていたのは――。


「――麻乃!」


 心臓がありえないほど高鳴り、叫んだ自分の声で目が覚めた。

 外は薄明るくなっていて、ひんやりとした風が閉じたカーテンを押し広げている。

 小刻みに震える手で、胸の真ん中あたりをギュッと掴んだ。


 見知らぬ女性の瞳に映っていたのは、ハッキリ見えたわけじゃなくても、麻乃だと確信できた。

 どうやら誰かの墓参りをしていたようだ。


(あいつ……大陸に知り合いなんかいないよな?)


 今のが夢なのか現実なのかはわからないけれど、妙に生々しくて嫌な感覚が残っている。

 それを拭い去ろうと服のままで浴室に入り、シャワーを頭から浴びた。


 頭から額に、頬に、首筋に伝わる生温い水が、服を通して鴇汰の全身を濡らす。

 もう一度、蛇口を捻ってシャワーの勢いを強くした。

 細いいくつもの水の線が、痛いくらいにうなだれた後頭部をたたく。


 大声で叫び、暴れ出したい衝動を、壁に触れた両手をグッと突っ張ってこらえた。

 こんな場所で叫んだら、排気口や換気口を伝って、あちこちの部屋に響くかもしれない。

 暴れて壁でもたたこうものなら、隣の部屋から岱胡が飛び込んでくるだろう。


 今は誰にも会いたくないし、こんな無様な姿を見られたくない。

 時間が来れば、嫌でも修治や岱胡、他の奴らと顔を合わせるんだ。

 そう思っても、胸の奥底から沸き立ってくる感情が抑え切れない。


 気づいたら涙が溢れていた。


 手のひらで顔を拭い、こらえようとすればするほど、目が潤み鼻が詰まる。

 壁に寄りかかって腰を下ろすと、膝を抱えて丸くなった。

 どうせこらえ切れないなら、いっそ思う存分泣いてしまったほうが楽だ。

 これから先、様々な準備を抱えたら、一人でいられるのは今だけだ。


「くっ……」


 押し殺した声ならば、シャワーの音で掻き消されてしまうだろう。

 こんな自分を情けないと思いながらも、ただ泣いた。


 あの日、庸儀の兵を迎え討つことをしないで、強引に川に飛び込んでいたら……。

 自分の状態がヤバイと麻乃が言ったときも、先に行かせていれば逃げられたかもしれない。

 今ごろは麻乃も一緒だったかもしれない。


 もう繋いだ手の感触も、最後に突然触れられた唇の感触も、なにもかもが思い出せなくなっている。

 今、ここに麻乃がいないこと、それが辛くてどうにもならない。


(無事に戻ってから必ず、二人でゆっくり話そう)


 ハッと顔を上げた。

 荒れた呼吸をゆっくりと取り戻しながら、あのときのことを思い出した。

 あの野郎のことはなんとも思ってないと言った。

 なんとも思ってない相手にあんな真似をしないと言った。


(約束したんだ……無事に戻ったら、ゆっくり話そうって。あいつは戻ってくるんだ……)


 麻乃が今、どうなっているかはわからない。

 泉翔にとって良くない状態だということだけは確かだ。

 あんな約束をしたことなど覚えていないのかもしれない。

 けど――。


(こんなところで落ち込んで後悔して泣いてる場合じゃねーよな。忘れてるってなら思い出させてやる。そんで……あのときの、あの言葉の続きを引っ張り出してやる)


 ただ引き戻すだけじゃない、明確な目的が見えて気持ちが吹っきれた。

 シャワーを止め、ずぶ濡れになった服を脱ぎ捨てて、着替えを済ませた。

 タオルで髪を拭いながら窓の外に目を向けると、北浜に波が押し寄せるのが見える。


 麻乃は西区に戻ると修治は言った。

 けれど、西区には麻乃の大切なものが沢山ある。

 そこへいきなり攻め込むような真似をするだろうか……?


(北浜だ……俺は北浜で待つ……)


 両手で頬をパンとたたき、気合を入れた。

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