第76話 流動 ~マドル 2~

(私を誰だと思ってるのさ)


 誰もなにも、ただの女じゃないか。

 特に腕が立つわけでもない。ただの偽物だ。

 運は……いいのかもしれないが。


 マドルは椅子に腰を下ろして体の疲労を確かめた。

 目が覚めて数時間が経つと言うのに、まだ倦怠感が残っている。


(まったく、どれだけ力を奪い取ってくれたんだか……)


 術を使い過ぎて疲労したことはあっても、ここまであとに残ったのは初めてだろう。そう思うと腹が立つより変な笑いが込みあげてくる。


 ゆっくりと立ちあがり、麻乃の様子を見るために奥の部屋へ向かった。

 ドアの前に控えている女官に聞くと、まだ目を覚ましてはいないようだ。


 部屋の中は静まり返ったままで、人の気配さえ感じられず逃げたのかと思ったほどだった。

 戻ってすぐに女官が着替えと手当をしようとしたときには、服は血に塗れていても擦り傷の一つもなかったと言う。


 頬の傷ももう消えていた。

 血色も良く見える。

 体の調子は良好だということだろう。


(ここまで回復されれば、こちらの疲労もひどいはずか……)


 これから先、同調したままで迂闊に触れるのは危険かもしれない。

 けれど繋ぎをなくしてしまったら、泉翔へ出たときにどう動いているかをつかめなくなってしまう。


 そっと左腕を取り、袖をまくった。

 数日前に見たときには、青黒い痣のような楕円の印だったのが、なにか妙な形をしている上に黒く変色している。


(目覚めたことでなにかが変わった……?)


 眠っている様子をいくら眺めても、髪の色が変わったことくらいしかわからない。

 赤味がかった茶色だったのが、濃く深い紅に変わっていた。

 ジェの艶やかで明るいそれとは、まるで違う。


 以前、ジェの部屋で盗み見た鬼神の表記には、瞳も紅いとあった。

 今すぐにでも目を覚まさせてその瞳を確認したいが、無理に目覚めさせるより自然に起きるのを待ったほうがいいだろう。


 女官にあとを任せ、なにかあったらすぐに知らせるように頼むと、皇帝のもとへ向かい、泉翔侵攻の予定を報告した。


 始めは皇帝も泉翔侵攻へ同行すると言って聞かなかったが、確実に泉翔を手にしてから移ってくるようにとなだめすかして国へ留まるよう言い含めた。

 不服そうにしながらも、庸儀の王も大陸に残ることで、どうにか首を縦に振ってくれた。


 泉翔へ出ているあいだ、皇帝に大陸を離れてもらっては、あとのことがやり難くなる。

 できるだけ早く機嫌を良くしてもらうように、皇帝の欲を満たしそうなものを与えておいた。


 軍へも顔を出し、邪魔になりそうな上将たちには、わずかばかりの部隊をつけて大陸へ残していくための根回しも済ませる。

 着々と準備が整っていく。

 多少のズレは生じているものの、ほぼマドルの思い通りに。


 気になるのは明日の夕刻に、庸儀の脱走兵が襲撃をしてくるという情報だけだ。

 どれほどの規模で来るのかは分からないが、この国に攻め入って敵うと思っているのだろうか。

 先に情報を掴んでいなかったとしても、ロマジェリカの兵力が遅れを取るはずもない。


(もしやサムが後ろで糸を引き、なにか企んでいるのだろうか)


 仮にそうだとして、やつらの得るものはなんだというのか。

 精々、泉翔侵攻を少しばかり遅らせるだけだろう。


 それぞれの国に未練があるというのなら、こちらが大陸を離れてから動くほうが都合がいいはずだ。

 ジェが出ると言うから任せてみたけれど、ロマジェリカでも警戒はしておいたほうが良さそうだ。


 自室へ戻り、二時間ほど仮眠を取ってから側近を集めた。

 その中の半数を残し、泉翔へ出たあとの大陸の状況を、逐一報告するように指示を出す。

 それをつかんだうえで、また大陸へと戻ってくるタイミングを図りたい。


「明日、この国に庸儀の脱走兵が襲撃を目論んでいる、との情報が入りましたが、そちらのほうは庸儀で対応してくれるそうです」


「では、こちらはこのまま、泉翔侵攻の準備を進めてもよろしいのですか?」


「ええ。それから、三国の進軍ルートですが、五日後に庸義とヘイトを交えて取り決めたいと思います。その旨の連絡も遣いを出しておくよう、お願いします」


 数人が立ちあがり、遣いを出すために部屋を出ていった。

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