第106話 決意の瞬間 ~麻乃 6~
訓練の中日に当たるころに突然、比佐子が顔を見せた。
出られなかった会議の資料を穂高からあずかってきたと言う。
ありがたいと思う反面、麻乃の様子を見にきただけじゃないかと邪推してしまう。
手放しで嬉しいと思えない気持ちを持てあましていると、気を遣った隊員たちに背中を押され、東区の繁華街、
柳堀が、柳の木をたたえた堀に沿って店が連なっているのとは違い、紅葉の木で囲われるようにたたずんでいる池を中心に、扇状に通った道沿いをさまざまな店と住居が、奇麗に区分けされている。
中央から東区へ入り、真っすぐ向かうと、まず池に出るようになっていて、そこから右へ入ると居住地に、左へ入ると商業地になっていた。
中央から池に向かう途中の脇道を入ると、訓練所がある。
万一攻め込まれるような事態になったときには、一本しかない道で食い止めることが可能なこの街と泉の森が最後の砦になる。
比佐子は一軒の甘味処に麻乃を案内してくれた。
「ここねぇ、おクマさんのところほどじゃないけど、結構イケるのよ」
良く冷えたヨーグルトムースにフルーツが数種類あしらわれていて、見た目も奇麗だ。
「凄く奇麗だね」
「でしょ? 見た目もだけど、味もいいのよ」
「あたし、てっきりチャコの家に行くのかと思ってた」
「うちは今は駄目よ。最近、穂高のやつったらあんまり帰ってこないから散らかしちゃってて。ま、あんたの部屋ほどじゃないけどね」
「ねぇ、普通の暮らしってさ、普段はなにをやってるの?」
フルーツを口に運びながら、麻乃は話しを逸らした。
「なにって……掃除したり料理を作ったり、そんなこと?」
「掃除に料理……鍛えたりしないの? 道場に行くとか」
比佐子は思いっきり笑うと、逆に問いかけてきた。
「行かないよ。そりゃあ、たまには体を動かしたりするけどね。それよりなによ? このあいだといい、変なことを聞いてきてさ。誰かいい人でもできて引退しようなんて思ってるわけ?」
「そんなわけないじゃん。ただ、単純になにをやってるのか気になっただけだよ」
窓の外に広がる紅葉の葉が風で揺れるのを眺めた。
「ふうん」
比佐子が不意に黙ってしまい、次の言葉が探せず、麻乃も黙ったままでいた。
「ねぇ、ちょっとつき合ってよ」
十数分、そうしていたあと、比佐子は立ちあがると支払いを済ませて甘味処をあとにし、池から少し離れたこぢんまりとした店に入った。
「ここね、牙獣とか動物の皮を使っていろいろと作ってるんだけどさ、使い勝手のいいものが多いんだよ」
「へぇ」
店内は染料や、なめし革の独特な匂いが充満している。
「足、まだ完全じゃないでしょ? 復帰祝いってほどでもないんだけど、サポーター替わりにレッグウォーマー買ってあげる」
衝立てに無造作に掛けられた革のハーフコートが麻乃の目に入り、立ち止った。
「なに? どうかした?」
「うん……これ、見覚えがある気がする」
「それはずいぶんと昔に
突然、声が降ってきて驚いて麻乃も比佐子も数歩、あとずさりをした。
よく見ると衝立ての向こう側に人がいて、隙間から濃い茶色の瞳がのぞいている。
「なんだ店長じゃないのよ。脅かさないでよ」
比佐子が顔をしかめて文句をいうのを受け流し、ボソボソとこもった独特の口調で言った。
「あんたがうんと小さいころには、それを着た人がたくさんいたからね。もしかしたら身近な人も着ていたのかもね」
「両親が着ていたかもしれない」
「あんたの両親は戦士だったのかい?」
「ええ」
「そんならこれを着ていたかもね。軽いし動きやすいし、強い革だから矢がかすったくらいなら傷もつかない。当時は戦士の子たちが一番着ていたよ」
衝立ての向こうから煙草の煙とともに、小さなため息が漏れてきた。
麻乃は手を伸ばして上着の袖口に触れ、感触を見た。
思った以上に柔らかい。
「それ、気に入ったの?」
「ん、なんだか凄く気になる」
比佐子はコートを手にすると、衝立ての向こう側に向かってそれを投げた。
「じゃ、これください」
「馬鹿! 結構、高かったよ?」
「いいの。復帰祝いって言ったでしょ」
やり取りが聞こえているのかいないのか、色はどうする?
と奥から声がした。
「染められるよ。四、五日かかるけどね。昔よく出たのは赤だけど、あんたは髪の色がねぇ……濃紺なんかどうだい?」
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