恋する星の裏の裏

雪村雨彦

 意を決し、タワーマンション二十九階のベランダの手すりに直立した。

 高い。地上九十二メートルだから当たり前だ。足元を見やれば、爪先のむこうに民家と街路樹と路上の車列が豆粒みたいに霞んでる。地上からぼくを見上げるひとがいたなら悲鳴をあげて通報するであろう、完全無欠の投身自殺未遂状態だがもちろん死ぬつもりはない。

 ベランダの手すりに登ったのは、眼下、燃えさかる東京を見晴らすためだ。

 夕闇のさなか、このタワーマンションから新宿へつづく甲州街道に沿って、密集した建築物群が戦艦の航跡さながら倒壊し、オレンジの炎を吐いて炎上していた。

 真っ黒な煤煙が屏風みたいにたなびいて、京王線の高架が倒れ、炎が延焼していくさまが見て取れる。一直線に東へ延びる路上でもたくさんの車が燃えさかり、互いにもたれかかっていた道沿いのビル群が自重に耐えきれず路上へ崩れ落ちていく。

 目線を持ち上げ、およそ十キロメートル彼方の新宿副都心を遠望。

 ここからであれば、ちょうど地平線上にごつごつした高層ビル群の輪郭を臨むことができるはずだが……いまの新宿は明らかにおかしい。

 低い黒雲が海みたいに新宿一帯を覆っていて、背の低い建物は雲に呑まれ、高さ二百メートル近い副都心の高層ビル群が黒い海原から頭を突き出しているのがうっすら見える。新宿を浸した黒煙の海は、じわじわ、その領域を外縁へ広げつつある。

 いったい新宿でなにが起きているのか。

 いつまでもここで鑑賞していても、らちがあかない。 

 ぼくはベランダの手すりから一歩、外へ足を踏み出した。

 ぼくの身体は地上めがけて垂直に落下――しない。

 高度九十二メートルに浮かんだまま、ゆっくり、東へむけて移動しはじめる。

 鳥のように大空へ両手を広げ、なめらかに飛ぶ――わけでもなく、教習生のマニュアル車みたいにたどたどしく加速しながらなんとか時速四十キロメートルに達し、甲州街道の直上、高度三十メートルほどを新宿めがけて水平飛行。

 街道沿いの建物は、その多くが倒壊したり炎上したり、上部構造がごっそりもぎ取られて鉄骨の梁を剥き出しにしていたり。アスファルトも熱に溶けたり陥没したり、壊れた消火栓から水が噴き上がっていたり。

 戦車部隊が通り過ぎたような凄惨な光景だけれど、悲鳴をあげて逃げ惑うひとのすがたは、ない。

 緊急車両のサイレンも、上空を飛ぶ報道ヘリも、ない。

 これだけの被害がありながら、路上にも、車内にも、人間の亡骸が全くない。

 聖堂じみた静寂のうちで、東京はただ焼け落ちていく。

 火炎と煤煙の立ちこめる地上を動き回っているものは、分厚い鱗や表皮を持った異形の生物群のみ。長大な翼をはためかせ、しわがれた声で鳴き交わす翼竜たちが、空域のあちこちに見て取れる。

 ぼくは魔物たちへ目を送ることなく、ただ彼方の新宿方面を見据えて飛ぶ。


 空を飛ぶ人間が存在することを、とある少女が教えてくれた。

 空を飛ぶだけではない。

 空中に炎を咲かせ、アスファルトを割って龍を出現させ、高層ビル群を一振りの剣で根こそぎ倒壊させるものたちが、この世界には存在している。

 彼らの呼び方は、いろいろだ。

 昔のひとは「術士」と呼んだり「修験」と呼んだりしたらしい。ほかにも「能力者」とか「悪魔」とか「鬼」とか、統一された呼び方はないのだそうで。

 その少女は「魔法使い」と呼んでいるので、ぼくもその呼び方にならってる。

 魔法使い。

 普通のひとなら一笑に付すべきその存在が、いま、甲州街道沿いを炎上させ、新宿を黒煙ですっぽり覆い、さらなる破壊をもくろんでいる。ただひたすら、胸騒ぎがぼくを駆り立てる。この破壊活動を行っているのは、もしかするとひとりではなく、ぼくのよく知るふたりの少女かもしれない。


 いったいなにがどうなってこんなことになってしまっているのか。

 一ヶ月前までいたって普通だったぼくの高校生活は、ひとりの女の子と出会ったことで百八十度の転換を三度ほど繰り返し、いまや自力で空さえ飛ぶようになってしまった。

『きみがまっとうな魔法使いになれるよう、指導するためにわざわざ来たの。このままきみを放置しちゃうと、世界が滅びるから』  

 はじめて会ったとき、その子の告げた言葉が耳の奥に舞い戻った。

思い返せば一ヶ月前、令正四年、四月二日。

 あの日、トイレのドアをあけたぼくの目にあの子の笑顔が映ったときから、ぼくの世界は見るも無惨に変わり果ててしまったんだ……。





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