星廻るふたご座に-Star Guardians Storyー

神夏美樹

■巡り合う乙女たち

1.柔らかな香りに包まれて

 その雰囲気は独特で、疲労ひろう困憊こんぱいがありありと感じ取れる者達でその場は溢れている。深夜の終電は戦いを終えた戦士の巣窟となりはて昼間の自由な雰囲気は微塵も感じられなかった。榊原さかきばら夏樹なつきもその一人、激務を終えて帰宅する途中の彼女は席に座る事が出来た事に感謝した。


 既に気力を失ったその体には吊革に掴まる事すら拷問でしかない。そして暖房で温められた座席のほわほわ感がお尻からじんわりと体に伝わって、それが睡魔を誘発する。線路の継ぎ目を鉄の車輪が踏んだ時の心地良い振動がそれを増幅して電車が動き出して間も無く、彼女の意識はふんわりと途切れた。


――ひかりが見える。


 とても眩しい晄。それは夏の太陽みたいに突き刺さる様な輝きでは無く誰かにふんわりと抱きしめられているような安心感を含んだ優しい輝き。疲れ切った体に力が戻って来そうなそれは夏樹に心地良さを与えてくれる。


――それに、甘くて不思議な香りがする。


 香水みたいなとげとげした感じが無くて心が蕩けて行きそうな、それでいて芯がしっかりしていて……なんとも表現しづらいのだけれど私はこの香りが好き。陶酔感のある、ジューシーな香りを感じながら私はまどろみの淵を漂い続け、もうどうでもいいやと投げやりになりそうになった瞬間、彼女は現実に引き戻される。自分が降りるべき駅の名前が車内放送でコールされたのだ。


「ふにゅぁ……」


 少し恥ずかしい吐息と共に目覚め、意識を取り戻した夏樹は右肩に重さと言う違和感を感じた。彼女の肩には隣に座っている自分よりも少し年上と思われる自分と同じくビジネススーツに身を包んだ女性だった。つやつやのロングヘアには天使の輪が輝いて、閉じられた瞼から伸びる長い睫毛まつげと真っ白でウェッジウッドを思わせる滑らかで光沢と透明感の有る肌に、少し太めでしっかりとした眉、小振りな鼻筋、控えめだがしっかりと主張している唇が印象的で一言で表すと『お姉様』的な面持ちの女性は夏樹の肩に頭を乗せてすやすやと寝息を立てている。


「……あ」


 夏樹は気付いた。微睡んでいた時に感じた香りはこの人の香りだったのだと。そして、このままもう少しこの香りの中に浸りたいと言う衝動を心を鬼にして振り払うとその女性にそっと話しかける。


「あのう……」


 控えめ過ぎたのだろうか、その女性は目を覚ます気配はない。おその間にも降りるべき駅は迫ってくる。


「も、もしもし……」


 今度は思い切って体も強請ってみる、だが、やはり状況は変わらない。女性の体を結ったせいだろうか、甘い香りが更に強くなって夏樹の鼻腔を心地良く擽る。本当はその香りをいつまでも嗅いでいたい、出来ればそのまま彼女にくるまれて眠りにつきたいそんな衝動まで湧き出して来るのだが残念ながらそれに浸っている場合ではない、最寄り駅に電車が到着するまで既に一分を切っている。


「すみません!!」


 夏樹は彼女の体を思い切り揺する、すると香りの良い女性はようやく目を覚ました。


「……う…ん」


 長い睫毛がピクリと動き彼女は意識を取り戻す。そして、ぱっと顔を上げると周りをきょろきょろと見た後、隣に座る夏樹に視線を移し彼女の微妙な表情を見た瞬間、自分が何をしていたのかを察知して大慌てしながら頬を真っ赤に染める。


「あ、あの、す、すみませんでした」


 女性は発条仕掛けの玩具の様にぴょんと席から立ち上がり、実はホントに玩具なんじゃないかと思える動作で夏樹にぺこぺこと何度も頭を下げる。


「あ、いえ、その、全然気にしてませんから」

「いえ、見ず知らずの方になんと無作法な事をしてしまったかと思うと私にとって一生抱えて生きるべきの汚点であると同時に人生全てをかけて反省すべき事象になるかも知れません」

「……そ、そんな大袈裟おおげさな」

「いえ、これは重要な事です!!」


 女性がそう言いながら両手で握り拳を作り全力で懸命に強く主張する中、電車のスピードが落ち始め、ゆっくりと駅のホームに滑り込む。そして、ぷしゅんという排気音と共に車両のドアが開いた。


「あの、私、ここで降りますので」


 夏樹は慌てて立ち上がり電車のドアに向かって小走りに進み、女性には小さく手を振って振り切る様に別れを告げた。申し越し彼女の香りを嗅いでいたかったが同じ沿線で有って縁が有ればまた会う事も有るだろうと言い聞かせ電車の扉を潜りホームに降り立った。


 視線の先の景色にはコンビニの看板が煌々と輝いているがその他の飲食店、スーパー、惣菜店は既に暖簾のれんをしまい終わっている様で、片田舎の駅前には夜の闇が鎮座ちんざしていた。


「また、コンビニ物かぁ……」


 小さく溜息をつきながらゆっくりと歩を進める夏樹の脳裏に連日のコンビニ弁当がまるで走馬灯の様に浮かんでは消える。本当は食材を買っておいて自炊でもすればいのだろうが夜中に料理などする気にはな到底なれない。


 通勤時間だけでも削れればそれも可能なのかもしれないが、都心近くのアパートマンションに住める程の財力は今のところ持ち合わせていない。まだ当分暫くは都内の駅から一時間半ほどの距離にあるこの街に住み続けるしかない。日当たりと空気の良さは評価すべきではあるが、それが安月給がもたらすある意味二次災害と言う納得の行かない事態である事に夏樹は深い溜息で耐えるしかなかった。


「……ま、いっか」


 ぽつんとそう呟いてから夏樹は出口に通じる階段に向かって歩い出す。せめて、晩酌にビールでもと考えながら歩き出したその瞬間、彼女は後ろから少し頼りない声で呼び止められた。

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