12、求婚ナルシスト

 喫茶店の営業時間はさまざまだ。

 モーニングをしていなければ朝の九時や十時から、仕事帰りのサラリーマンやOLなどの集客が見込めるなら夜遅くまで開けている店もある。

 おばあちゃんはあまり夜中まで営業するのはしんどいと、加齢とともに早めに閉店するようになった。

 夕方の五時になれば閉まっていたこの店を、私は現在夜七時まで開けている。 

 一人でも多くのお客様に立ち寄ってもらえる機会を作るため、朝七時から十二時間、途中休憩もなく営業しているのだ。


 早朝五時半に起き、二階のベランダに出て洗濯を干す。昨夜濡れた黒いズボンはまだ乾いていなかった。残念ながら乾燥機なんて文明の力はうちにはない。

 いささかゴムの伸びた寝巻きを脱ぐと、喫茶店の正装に使用している白いシャツに袖を通す。モノクロ系のズボンの替えがなかったため、チャコールグレイのスカートで代用することにした。お店の雰囲気を大事にしたいので服装はシンプルに、と決めている。

 それから人前に出ても恥ずかしくない程度に化粧を施すと、ココア色のエプロンを身につけた。中央には〝喫茶、柚子香〟の印字が入っている。

 おばあちゃんの仏壇に手を合わせたあと木造の階段に足音を弾ませ、キッチンで買い忘れがないか食材の確認をする。

 複雑なご飯ものは提供できないので、朝の仕込みにはさほど時間はかからない。

 なので毎朝の私の日課といえば、昨日余ったパンなどで新しいメニューでも生み出そうと試作を繰り返すこと。

 けれど今日も納得いくものはできなかった。

 名前もつけあぐねるような得体の知れない物体を、失敗は成功の元だと言い聞かせながら口の中に放り込んだ。


 コーヒー豆の香りや、紅茶の葉の種類を確認していると、キッチンに置いたスマートフォンが鈍い音を響かせ振動した。

 顔だけ動かし画面を覗くと、そこに表示された文字を一瞥して目を逸らした。

 またあの人からの着信か。

 せめて心の中でだけは、絶対にお母さんなんて呼ばないと、私はそう決めている。

 しばらくしてバイブが収まったかと思うと、立て続けにまた鳴り始める。

 想像した通り、次に液晶画面に出たのはお父さんの名前だ。

 「電話に出なさい」とでも言いたげに急かす音に、手を伸ばすことすらしなかった。

 だってどんな話をされるのか、悪い考えしか浮かばないから。

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